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与力と同心
江戸幕藩制下で、町奉行の配下に与力同心っていう職がありました。 与力は同心の上席ですね。 1. その関係は与力集団と同心集団という、個人ではない関係でしょうか? 2.それとも一人の与力が何人かの同心の上席になっているという関係でしょうか? もしそうであるなら、一人の与力の下に何人の同心がいたのでしょう? 以前の質問:http://okwave.jp/qa/q8861482.html
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こんにちは。 >>1. その関係は与力集団と同心集団という、個人ではない関係でしょうか? 同心は基本的には与力の「補完関係」にありました。 しかし、同心だけの職務もありました。(後述) >>2.それとも一人の与力が何人かの同心の上席になっているという関係でしょうか? もしそうであるなら、一人の与力の下に何人の同心がいたのでしょう? これについては、下記に詳しく述べたいと思います。 与力と同心の役務。 内与力(定員10騎) 町奉行の個人的家臣の中から選ばれ、町奉行が退職すると、必然的に、内与力も退職をした。 しかし、給与は幕府から受け取っており、現代で言えば国会議員の「公設秘書」と同じ。 内与力は陪臣であったため、他の与力よりも上位に位置した。 公用人・・・奉行の職務をおおむね代行した。(定員4騎) 目安方・・・訴訟の受付などを主な仕事とした。(定員6騎) 用部屋手付同心(定員10人) 内与力に所属をし、刑事事件などの調査や判決文の作成などにあたった。 年番方与力(定員3騎) 同心支配与力とも呼ばれ、当初は交代制であったが、後には、古参与力から選任された。 奉行所全般の事務及び取り締まり闕所金(けっしょきん=罪科を犯した者からの没収金等)の補管、出納。 同心の役務の振り分けなどにもあたった。 年番方同心 及び 年番方物書同心(定員8人) 年番方同心は、年番方与力所属の同心で、年番方与力の小間使い等をした。(定員6人) 年番方物書同心も同じく年番方与力所属で、年番方与力の事務を担当した。(定員2人) 養生所見廻与力(定員1騎) 享保7年(1722)に設置された小石川養生所の費用の収支について勘定奉行所より「勝手方」と呼ばれる出納役が出張してきており、それを監督した。また、小石川養生所への随時巡回も受け持った。 養生所見廻同心(定員2人) 養生所見廻与力に所属をし、養生所内の詰所へ交代で詰めた。 牢屋見廻与力(1騎) 小伝馬町の牢屋敷内に詰めて事務処理とその監督にあたった。 囚人の監督はしない。囚人の監督は牢屋敷奉行所同心が行った。 牢屋見廻同心(定員2人) 牢屋見廻与力の所属で与力の事務を代行した。 囚人を監督する牢屋敷奉行所同心とは全くの別であった。 吟味方与力(略して、吟味与力とも呼ばれた)(定員10騎) 民事、刑事事件の審理と裁判を主な役務とした。 刑事事件では、町奉行所内にある3ケ所の詮議所で犯人の詮議にあたった。 数日経っても「自白」がない場合、犯人は牢屋敷に移されるが、そこへも出向いて自白を強要した。 一つの事件では、原則的に1人が担当しが、まれに、交替する場合もあった。 本役4騎、助役4騎、見習2騎。 吟味方同心(定員20人) 吟味方与力所属で何事も吟味方与力の支持で立ち回った。 赦帳撰要方人別帳掛与力(定員4騎) 判決を受けた囚人に対して、執行前に名前と罪状書などを作成。 また、恩赦が出た時のために囚人の順位を決めて、恩赦該当者名簿を作成した。 赦帳撰要方人別帳掛同心(定員8人) 赦帳撰要方人別帳掛与力所属で与力の事務を援けた。 例繰方与力(定員2騎) 犯罪の罪因、情状、判決などを先例に照らし合わせて書類を作る。 また、判例集の在庫管理を担当した。 例繰方同心(定員4人) 例繰方与力所属で与力の補助事務や作業の手伝い等を行った。 本所方与力(1騎) 同・同心(2人) 高積見廻与力(1騎) 同・同心(2人) 町火消人足改与力(2騎) 同・同心(4人)・・・11月~3月までは6人体制。 風烈廻昼夜廻与力(2騎) 同・同心(4人) 町会所掛与力(2騎) 同・同心(4人) 定橋掛与力(1騎) 同・同心(2人) 古銅吹所見廻与力(1騎) 同・同心(2人) 市中取締諸色調掛与力(不明・臨時役) 同・同心(不明・臨時役) 猿屋町会所見廻与力(1騎) 同・同心(2人) 諸問屋組合再興掛与力(8騎) 同・同心(若干名) 非常取締掛与力(8騎) 同・同心(16人) 人足寄場定掛与力(1騎) 寛政2年(1790)長谷川平蔵の建議により造られた石川島の人足寄場の管理、監督をした。 同・同心(2人) 硝石会所見廻与力(1騎) 同・同心(2人) 開港掛与力(不明・臨時役) 同・同心(不明・臨時役) 町兵掛与力(不明) 同・同心(不明 当番方与力(定員3騎) 若い与力(例えば、見習いから本与力になったばかりとか)で、特に役目がまだ決まっていない与力が3交替で宿直を担当した。 また、江戸時代後期には訴訟を夜間も受付をしたので、その事務にあたった。 さらに、急な捕物出役と検死には、与力1騎につき同心3人がついた。 同・同心 年寄同心(3人)と物書同心(3人)、平同心のすべてが所属。 御国益御仕法度掛与力(不明・臨時役) 同・同心(不明・臨時役) 諸色潤沢掛与力(不明・臨時役) 同・同心(不明・臨時役) 諸色値下掛与力(不明・臨時役) 同・同心(不明・臨時役) 外国人居留地掛与力(不明・臨時役) 同・同心(不明・臨時役) ---------------------------- 以上が与力と同心一体の役職でした。 以下は、同心独自の任務です。 -------------------------------- 隠密同心(定員2人) 事件の裏付け捜査や証拠集めを主務とし、逮捕には加わらない。 定町廻同心(6人) 府内の決められたコースを交替で巡回した。 臨時廻同心(6人) 長年定町廻をしてきた古参の者で、予備軍であったが、定町廻同心と一緒に府内の巡回もし、若い者の相談役となった。 下馬廻同心(6人) 大名の登城の時に大手門やその周辺が混雑するので、その交通整理を担当した。 門前廻同心(10人) 老中や若年寄との面会で城へ出向く大名や上級役職者が通る道筋での交通整理をした。 御出座御帳掛同心(2人) 奉行所から評定所の老中へ提出する事件名簿等の作成を担当した。 定触役同心(3人) 臨時出役の際に担当者の割り振りを担当した。 引纒役同心(2人) 火事の際に奉行が出馬するにあたって、伝令や雑務を行った。 定中役同心(2人) 臨時の事件などに出役した。 両組姓名掛同心(1人) 南北両奉行所の与力や同心の名簿編纂と新任、退任などの人事名簿の作成を担当した。 ------------------------ 以上のように見ていくと、 与力・・・南北合わせて50騎。 1万石の知行地を与えられ、50人で200石ずつ分けていた。 同心・・・南北合わせて、基本的には120人。時代の変化により100=140人になることもありました。 30俵2人扶持。 当然、人数が足りなくなることもありましたが、 1.加役(兼務)をする場合もありました。 2.時代とともに、役務を閉鎖したり統合したりしたものもありました。 3.臨時の役務として兼務や併設としたものもあります。
お礼
これだけ詳細を極めたご知見でのご解答はいかなる図書文献を跋渉してもなかなか見つからないでしょう。 私も46年間大学の図書館で実務的業務に従事してきましたが、これだけの情報をどうやって獲得できるのか、とても想像もつきません。 ありがとうございました。更に熟読してお江戸の状況を胸に描いてみます。 http://mainichi.jp/feature/news/20150407mog00m040002000c.html?fm=mnmではお江戸の素晴らしさを山折さんが述べています。 戦艦大和とは日本そのものでした。大和という国土を象徴し、大和という民族を象徴していたからです。世界で最大最強の不沈戦艦だった。だからこそ、最初の朝廷が置かれた奈良の古代名が与えられたというわけです。大和という言葉は、日本人そのものの源流につながっている。「敷島の大和心を人問はば、朝日に匂ふ山桜花」と、本居宣長は詠みました。大和という言葉を耳にして、日本人は何がしか自己の根拠にふれた感情を抱かざるをえない。1隻の戦艦としての存在をそれは超えていた。海戦の主役が航空機となっても、日本海軍の象徴であり続けたというわけです。どうも、富士山との共通性を感じますね。古来、日本人は山を神とあがめてきました。その中心が富士山でした。巡洋艦や駆逐艦を従えて海上を突き進む戦艦大和の雄姿はまるで、富士山のように輝きそびえていたことでしょう。 「巨大なるもの」への根強い信仰が、日本人にはもともとあります。大和朝廷創成の記紀神話で、天照大神に「国譲り」をした大国主命(おおくにぬしのみこと)は非常に大きな神様でした。皇孫である聖武天皇は「国家鎮護」を祈り、大和の中心に当時最大の盧舎那大仏(東大寺)を祀りました。ところが、そうした「巨大なるもの」の傍らに、「小さきもの」が存在していたことに注意しなければなりません。大国主命には少彦名命(すくなひこなのみこと)、そして盧舎那大仏には釈迦誕生仏です。 「巨大なるもの」をあがめる一方で、こうした「小さきもの」をいとおしみ、大事にするという心性です。たとえば一寸法師、桃太郎、瓜子姫などを例に挙げ、そうした日本人の特質を解き明かしたのが民俗学者の柳田国男でした。戦艦大和の場合はどうでしょうか。3000人を数えた乗組員たちは、一人一人がまさにいとおしき「小さきもの」たちでした。しかし、「巨大なるもの」はついに彼らを守ることができなかった。時の軍事権力が国威発揚を担わせた不沈戦艦があっけなく、沈没してしまったからです。「大きなもの」と「小さきもの」との美しい均衡は戦争になっては崩壊せざるをえなかったということです。 わが国には「パクス・ヤポニカ(日本の平和)」と呼ばれるべき時代がありました。大きな戦争がなかった平安期の350年間と江戸期の250年間です。それは宗教的な権威と政治的権力が見事にバランスがとれていたため、実現しました。それが、天皇と藤原摂関家の関係であり、また天皇と徳川将軍家の二重構造でした。権威と権力が一つに集中することなく、社会のバランスが保たれていた。カトリックとプロテスタントの両派に皇帝・国王たちが入り乱れて世界を二分した西洋におけるような破滅的な宗教戦争は起きなかった。この日本の「パクス・ヤポニカ」の安定した状態が危機に陥るのはしばしば、強力な専制君主が現れたときです。承久の乱(1221)を起こした後鳥羽、建武新政(1333年~)を断行した後醍醐の時代がそれで、この時2人は権威だけでなく、権力を手に入れようとしました。 そして、明治天皇の時代がやってきます。維新後の天皇は国家神道の祭司長であり、近代憲法の主権者となった。世界は帝国主義の時代になっているということもあり、それに対応する独立国家としての西欧化が必要だった。しかし、この時1000年以上の間、根付いてきた「神仏習合」を否定したことは、破滅的な影響を与えました。 当時の日本の支配層が西洋のような神道の一神教化を目指したということもあった。このことは日本人の美徳である異なる文明への寛容性を損ねることにもつながりました。かつての大和朝廷は中国の律令制度を導入しましたが、政治を混乱させる宦官制度は受け入れませんでした。自分の背丈に合わせ、制度や文物を受容してきたのです。その柔軟性が徐々に失われていったということです。西洋からは近代思想だけでなく、植民地思想も学んでいますが、「和魂洋才」と言いますか、そこに和の魂を一本通すことを怠ったといえるかもしれません。日本はその後、過度の集団主義へと傾斜していき、たとえ天皇が権力を振るわなくとも、天皇と一体化した政府・軍部が天皇の権威をかさに着て戦争の時代に入っていく。天皇を「玉」と呼び、まるで将棋の駒のように扱い操作する。 太平洋戦争における敗戦で、天皇権威と政治権力に分立する政治システムが回復されました。象徴天皇を軸とする平和国家がつくられた。しかし、この現行憲法の改正で、天皇を国家元首化しようとの主張が自民党から提出されております。これは非常に危険なことです。先進国の国家元首は米国大統領、フランス大統領はもちろん、英国国王でさえ、正式に就任するのに議会の承認が必要となっています。 議会主義による代議員制度の下で、国民に選択権がある。ところが、日本では国民は議会を通して次の天皇を選ぶことはできないことになっています。この点を無視したまま天皇の元首化を認めると、まるで王権神授説の復活でもあるかのようなことになる。明治憲法のように天皇を国家元首にしてはならないのです。 今、われわれは戦後70年の「パクス・ヤポニカ」の状態を否定するかのような難しい時代を迎えています。この時代を生きるためどうしたらよいか、さしあたり三つのことを示したいと思います。 一つ、人間とは何か。 二つ、日本人とは何か。 三つ、自己とは何か。 これらの問いを循環させながら問いつづけることで、現代の難しい問題の解決に向かって進んでいってほしいと思います。特に日本人としてのアイデンティティーだけを追求すれば、偏狭なナショナリズムに陥ってしまう。かつての大日本帝国は大和民族の優秀性を掲げてうぬぼれ、唯我独尊の「八紘一宇(はっこういちう)」を唱えました。それは先にいった平安期、江戸期の「パクス・ヤポニカ」の時代とは異なり、本来の日本のあり方を示すものではありませんでした。そのようないびつな時代にあって、それを象徴するようないびつな幻想の「不沈戦艦」が戦艦大和だったのではないでしょうか。