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神のイメージについて。

遥か太古の昔、まだ文明の発祥する以前には、人間は、自分たちの力や外見を上回る特定の動物、巨大なアナグマや、馬などを崇めていたと聞きます。アマゾンの原住民には、いまだにワニやコンゴウインコを自らの始祖として崇めている部族もあるとか。 時代が降り、エジプトくらいになると、神(人智を超えた者)は半人半獣であったり、完全に人間の姿をしたりしています。鷹のような視野をもったホルス神など、特殊な能力をもった神々が描かれるようになります。また、太陽神などの根源的なものの化身としての王といったアイディアが現れています。古墳時代に共通する概念でしょうか。 これがギリシャになると、完全に人間の姿をした神々が生まれ、その神話もとても人間臭いものとなります。しかしこの時描かれたものはイデア的な神々です。 さらに時代が降ってルネサンスの頃には、人に転生した神、キリストや、それに関連する人物群が描かれるようになりました。洋の東西問わず、神や仏の化身と言うものが描かれています。それ以前は、神を人間のサイズで描くことは禁止されていたという事ですが、しかしルネサンス期にはそんな禁忌が破棄され、王とはまた違う、聖人というモチーフが現れたように思います。ギリシャ時代よりも、神と人間の間の距離が縮まっているように思います。 もっと現代に近づくと、人間は神をモチーフに用いなくなりました。もっぱら人間やその生活圏にある自然などを描いたり、時々に起きた時事問題、著名な人物の肖像や自画像を描くようになります。 近代には、人間の英知や概念を投影した抽象画のようなものも現れます。 そして現代描かれるモチーフといえば、機械などの被造物から人造人間、巨大ロボ、兵器、或いは現実には有難いであろう人間関係まで多岐にわたります。また、少数ですが、スーパーレアリズムと言った復古的な運動もあります。 さて、アートを通して見た人間の志向を私なりに述べましましたが、粗い所は素人の特有と思っていただきたいと思います。 問いに入ります。 人間は、なりたい自分を神に投影し、つねにその神を超えて来たのではないだろうか。 動物に憧れ、キメラに憧れ、人間に憧れて、これらの憧憬を超えてきたのではないか。過去に空想した物は、時代が降れば人間のクリエイティビティや感性によって現実になっています。 では、今後志向される、次の神、あるいはポスト神にあたるモチーフとは一体なんであろうか。人間は何を目標とするでしょうか。 このようなイメージの変遷を起こすこと自体が、人間の習性の一つではないかと見る次第です。また、この様な変遷に左右されない人間精神の有り様というのは存在するでしょうか。趣味のような質問でもありますが、よろしくお願いします。

みんなの回答

回答No.15

ちょっと意外な反応だ。 わたしか親切に君をオカマ呼ばわりしても、君は「キャーステキー」とか言わないのか。 普通、人間たる者そうした反応をするんだけどな。 君は常識外れだよ。

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回答No.14

 ★ (No.13お礼欄) 何故神は父性の象徴として捉えられるのかなと  ☆ これは 男系の万世一系という血筋の維持があるからです。  遊牧民族の特徴です。  聖書のマタイによる福音の冒頭には イエスの血筋の系譜が書かれています。  中で女性の名前も出て来ますが むろん男系の一筋として伝えられています。  そうして じつは農耕民族だと言われるわが日本でも そのままが天皇家について実際です。  市民の場合 そういうことはないのですが――つまりは 女系になっても一向に平気で養子制度を活用しているわけですが―― 男系の一系は 次の考古資料にも見られます。  ● (遊牧民における男子一系)~~~~~~~~~~~~~  A. (埼玉古墳群で出土した《稲荷山鉄剣銘文》)    ヲワケの臣の上(かみ)つ祖(おや) オホヒコ。   其の児タカリのスクネ。   其の児の名テイカリワケ。   其の児の名・・・  B.(マタイによる福音書 冒頭)    アブラハムとダビデの子孫であるイエス・キリストの系図。   アブラハムはイサクをもうけ    イサクはヤコブを    ヤコブはユダとその兄弟たちを    ユダはタマル(女)によってぺレツとゼラを・・・もうけた。   ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

a_hona
質問者

お礼

血筋ですか。なるほどそうかもしれません。ということは、探せば女性の唯一神なども実はあるのかもしれないですね。 ご回答ありがとうございます。

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回答No.13

 ★ (No.12お礼欄) 甘えとおそれは何となくはわかるのですが、そこに聖なる、や、きよらかな、とありますその意味がまだわかりません。  ☆ 赤子の母親に対する――そしてじつは 誰に対してもであり 動物に対しても 人(赤子)によっては そうだと見られるのですが――要するに《無条件に甘える》という態度を むしろ《聖なる》と呼んでいます。  なぜか? 甘えと言えば 一義的に《寄り添う・頼っている》というふうに捉えられるのですが そして見てくれとしてそのとおり依存なのだとは思うのですが もう少しその中身を考えてみると 犬に対しても近所のおっちゃんに対しても何の恐れもなくというごとく接しているというふうにも見られるのではないでしょうか。    つまり 赤ん坊は 何ものに対しても 或る意味で自由に対等に接している。とにかく《無条件に甘えている》。これを称して 《聖なる甘え》と呼んでいます。  この赤ん坊の無邪気な自然性を失わないとき(また 一たん失って回復するとき) 何ものかナゾに対する一般の人の態度は 畏れを持ちつつ きよらかなであり得ると考えられます。端的に言って 《信じる(受け容れる)》とは そういう態度ではないでしょうか。  ★ ところで、神を親と形容する意見が見られるのですが(これ自体は珍しくないのですが)、この聖なる甘えというものも、それの同型でしょうか?  ☆ 基本的にそうだと思います。  細かく言うならば 《神を親として呼ぶ場合》は きよらかなおそれという表現で捉える場合にあたると考えます。母親を一たん母親として自覚してものごころが着いたあと 神を父なら父と呼ぶことになるのだと見られますから。

a_hona
質問者

お礼

ありがとうございます。 なるほど、意味を理解出来ました。 最後の文、何故神は父性の象徴として捉えられるのかなと少しの疑問は残りますが、とりあえずお礼を述べさせていただきたいと思います。

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回答No.12

 No.11です。  《聖》のほうで投稿したので控えようと思っていたのが これは言っておかないといけないという思いを持たせる投稿に出会ったものですから。  《きよらかなおそれを抱く》として 神のイメージを捉えることは 例によって言いかえるなら 《聖なるあまえ》のことです。  あまえのほうは 赤子が母親に見せる態度でありますから ものごころが着くまでの時期を言います。  ものごころが着いてからは 《おそれ》が現われる。何がしかヤマシサ反応にさからって(へそを曲げて)行動したことがあるという経験とその反省にもとづいています。  けれども われが自然においてわれであるなら なお甘えをその自然においてつづける。これは したがって きよらかなおそれを抱くことである。こういう意味ですが。

a_hona
質問者

お礼

うーむ、難しい考えですね。甘えとおそれは何となくはわかるのですが、そこに聖なる、や、きよらかな、とありますその意味がまだわかりません。 よろしければ続けてご回答いただけるとさいわいです。 ところで、神を親と形容する意見が見られるのですが(これ自体は珍しくないのですが)、この聖なる甘えというものも、それの同型でしょうか?

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回答No.11

 こんにちは。  《わたし》が みづからの意志でこの社会に生きるというとき その意志行為には とうぜんのごとくほかの人びととともに生きるという内容がそのまま含まれています。    まづ親あるいは兄弟あるいは身内の人びとさらにあるいは身近な周りの人びととのカカハリと実際のマジハリの中に生きるという命題が 自明にして自然のものです。  助け合いを 倫理の規範としてのごとくかかげて生きるものではありません。それは いかがわしいシュウキョウです。倫理規範をオシエとしてかかげそこに自己の傑出性を追い求める《自己のみ顕示欲》の為せるわざです。  みんなと共に生活したからやっと 心が満たされるなどというのは 自己を人びとから切り離し自分ひとりの優越感としての満足に浸るたこつぼ哲学から来ています。そこへの閉じこもり――いや 引き籠もりではなくまぎれもない押し籠もり――の内に精神の充足を得ようとします。  この独りぽっちの宇宙遊泳を目指す哲学こそが これまでの組織宗教に対するアンチテーゼとしての蛸壺宗教です。どちらも じつは オシエを頼りにしています。えらそうに振る舞うことが ジンテーゼとなっているのです。  助け合わないことはあり得ないという《聖人》の哲学が 神についてきよらかなおそれを抱く生き方です。

a_hona
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 特に最後の3行が主論かなと思います。きよらかなおそれと表現されておるところについて、良ければ解説をお願いしたいところです。

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回答No.10

神の存在理由には、いくつかある; 1.自分の理解の及ばない世界の起源などの世界観を、  一応理解した気になって、安心して生きるための方便。 2.死への恐怖や悲しみをやわらげるため、死後の世界  がある事を期待する気持ち。 3.道具や農業で自分達の力で自然を変るようになっても、  力の及ばない天災などに、それでも何かしたいための祈り。 (以上が、世界宗教が生まれる前の原始共産制的なアニミズム) 4.分業化や組織化の発達により社会化する上で、人の意識  の社会性を育てずに、お金や出世といった“馬車馬の目の  前のニンジン”や、法規やモラルといったムチで他律的に  社会行動をとらせる上で、統治者に利用される形で発達した  世界宗教(キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、仏教などが  同時期に広まったのは偶然ではない)。  (ご利益(アメ)と天罰(ムチ)) 今や1人では生きられず、人類はもはや社会的生命です。 身の回りの衣食住どれも世界中からやって来た、世界中の人々 の生産物です。 つまり、あなたの生存は、世界中の人々の順調な営為によって 成り立っているのです。 どのような略奪も、どのような一人勝ちも、その持続性の欠如 において、あなた自身の幸福の最大化に反します。 生物的に根源的な、あなたの生きる意志において、他人との 助け合いは必須となっているのです。 その自己存在の本質に根差した意志は、自己の存続のための 必然との一致(=生きる事自体による喜び)だけでなく、 そうした深い認識に基づく精神的充足(一過的な短絡的では ない持続的な幸福感)として、同じ結果でもより大きな精神的 充足につながる。 また、その他我=他人の喜びを自らの喜びにする事で、その 自分の喜びを他人が喜びとする相乗効果に於ても、個人とし ての「人生を通算した精神的充足量の最大化」だけでなく、 「全人類の精神的充足量の総和の最大化」をも可能にする。

a_hona
質問者

お礼

神の存在理由ですか。 面白い観点だと思います。 またご自身の持論も展開かしていただきありがとうございます。 他我という言葉は独特ですが、それによって得られる幸せというのも確かに大きいと思います。

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  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.9

"人間は、なりたい自分を神に投影し、つねにその神を超えて来たのではないだろうか。"    ↑ 違うと思います。 神の束縛から脱出してきたのが人間の歴史です。 ルネッサンスなどはその典型です。 神の束縛から離れ、人間再生の道を目指したのが ルネッサンスです。 だから、時代と伴に、神を離れ、人間臭くなって いったのです。 ”では、今後志向される、次の神、あるいはポスト神にあたる モチーフとは一体なんであろうか。人間は何を目標とするでしょうか。”     ↑ 神離れが更に進み、人間そのものの探求を 目標にすると思われます。 神は死んだのではなく、人間が殺したのです。

a_hona
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほど、原始の迷信から古代の神観などを束縛と見ることはできますね。今から見れば無用の恐怖などに 支配されていたのかもしれません。 それも一つの見方であるでしょう。 しかしながら一方で、特に文明が成立してからの神の役割というのも捨てがたいアプローチではあります。

a_hona
質問者

補足

これからのモチーフは、知識といったものがあるのかなと思いました。人間の探求ということは、知識、即ち人智だと思われるからです。他の回答者にもありますが、超越者としての神は、変質したのかもしれません。しかしながら、理論物理学の世界でも、神の数式などという表現がされることから、やはり超越者としての神は、未だにあると見えます。 知識の源泉としての神というイメージは、古来からの典型でもあるように思います。

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回答No.8

今晩の私は謎の美女と文通する夢を見た。 ネタは上がってんだぞ。 このオカマ。 現金の持ち合わせもないくせにネットショッピングしやがって。 注文通りに発送したポケモンのぬいぐるみは受け取れたか。 君は今後ポケモン交霊術を通して理解を深めることになる。 あんまりガタガタうるさいとな、 君の神はわたしとの不倫関係により、不実の子として君を生んだ。 我を大いなる父と呼べ。 赦されざる者よ。 こうなる。 無自覚な一方的伝心に恥じても無駄だ。 逃げたり避けても無駄な抵抗だ。 堂々とV字開脚して笑わせやがれ。 すなわち正直にならなければ許されない。 縁起が手に取れると昔々語り継がれた時間認識知性は、こうして代金の代わりにその者の運命を所有するのだ。 言っておくが、わたしは冷酷非道だぞ。 あまったれんなよ。 以上が観念世界側からの私の証言だ。

a_hona
質問者

お礼

稀に、夢に出てきた人物の、夢における挙動を、あたかも実際と同じように受け取るという習慣をもった人々もいる。 夢を御告げと信じたりするのも、比較的プリミティブな民族の宗教観に 沿った事として観察される。 或いは乙女チックなジンクスとして夢に独自の解釈を与える人々もいる事は確かだ。 夢と神の関係も興味を引くところではある。

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回答No.7

> そのイメージは光に象徴されたりするものでしょうか。 無の悟りを臨死体験と言うと正解。 神秘体験と言うと落第。 観念世界への入り口には立てない。 こうしたことは、真理であると言う様な重大な意味じゃなくて、単なるしきたりの様だ。 門をくぐると、光。 そしてなれるにつれ、自分に話しかける意思を確かめ、世界が見える。 話しかける意思には、人と人のテレパシーもあるよ。 ただし認識の個人差から、一方に自覚のないパンツ丸出し猥褻物陳列罪などになりがちだ。 朦朧とわたしの意思に伝心すると相手は、神様にあったとか勘違いしがちだ。 単なる新人類能力だ。

a_hona
質問者

お礼

臨死体験ですか。確かに少数ではあるが、現代にも臨死体験で神を見たという人は居るだろう。 それもまた、ある神の像を形成する材料となりえる。 神に語りかけられたと言う宗教家も、少ないが存在する。このような事もまた、一部の神のイメージを形成してる因子ではあるだろう。 若干オカルティックではあるが、テレパシーなどを信じている人もいる。彼らにしてみれば、それもまた、神のイメージを形成する材料となっているのかも知れない。

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noname#205916
noname#205916
回答No.6

平行線で良いですよ・・ 神は あなたが 思ってる程 崇高なものでは無いだけなのだから・・・ 人間を創造した理由も 宇宙を創造した理由も 唯「愛」の為だけなのだから・・・ それを あなたに伝えておけば 必ず あなたが解かる日が来るから・・・

a_hona
質問者

お礼

そういうイメージもあるということで、受け取っておきます。人それぞれにイメージがあってもよいでしょう。

a_hona
質問者

補足

神から崇高さを取り除いた、人間の親のようなイメージを当てはめるのはある意味で新鮮でした。この様な神観があると言うことは、神が色んな意味で人間を超えていると言う私の立てた前提が、間違っていたのかもしれません。 しかし一方で、神と人間の差別化がぼやけてきているという傾向については、今回私の考えた神のイメージの変遷と軌を同じくしています。 あなたの神観は、造物主というトラディショナルな神観と、人間の親のようであると言う一種アバンギャルドな神観の混成物である様です。 そう言えば私の知るキリスト教の方も、神は親のようだと言っていたのを思い出します。この見方はキリスト教的なものなのかもしれません。

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