- ベストアンサー
キリスト教の道徳について
戦争に負けただろうとうるさいので 奴隷道徳の愛について教えてください。 フランス革命の自由・平等・博愛と関連させると 哲学カテゴリーっぽいでしょうか。 ウィキペディアを見たら友愛の訳になっているみたいですけど 自由、平等、友愛 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%80%81%E5%B9%B3%E7%AD%89%E3%80%81%E5%8F%8B%E6%84%9B
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
みんなが選んだベストアンサー
過去の歴史を見てみてください。 キリスト教布教のためにどれだけの血がながれたのでしょうか。 そして世界の大きな大陸にはいずれの国にも キリスト教が広まっています。 神の教えのためには相手を否定する そして神のために国家も否定する これがキリスト教の道徳です。 特にアフリカや南アメリカでは、今では考えられないほどの 文化否定が行われ、キリスト教であらざれば人にあらずといった ていで布教が行われました。 自由、平等、友愛は布教者のためにあり そのためには略奪、殺戮もよしとするとする そんな発想が根底にあります。
その他の回答 (3)
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
「戦争に負けた」 ・・・人権を侵害しないでね。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
宗教は道徳そのものです、自己中心的な個人の意識を して、社会性のタガにはめる。 ただし、そのプロセスとして、自己の生の社会生命化を 自覚する事による自律的社会行動(←これなら合理的 理解に基づくので普遍性を有する)ではなく、神という 外的権威による他律的抑制によるものであるために、 神が違えば全ての「抑制」が解けて獣か悪魔に対する のと同様になってしまうのです。 愛は、肉体的自覚に対して、その生存や認識における 遺伝的交配や社会的互助、自然環境との物質循環、物理 的な自我仮説(記憶=時間的流れ)と空間仮説(予測= 空間的広がり)の相補分化などにおける、自我の拡張 (他我=利己過程における利他の介在)としての本質を 持つ。
神を信じるのなら 戦争に勝ち負けはありません・・ 戦争には 外的事情 と 内的事情 があり 人間の範囲だけで考える事が出来るのは外的事情だけ 内的事情は 神の心が解かる人にしか理解出来ません 神の心を理解したいのなら 祈りと実践・・それで解かって来ます