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昭和の普通列車はほぼ旧型客車??

昭和の頃は全く分からないので教えて下さい。昭和の頃は山手線等の人口が多い地域以外では全て普通列車は写真のような旧型客車だったのでしょうか。写真は茶色ですがブルートレインみたいな青色のとかもあったかと思います。山手線等以外の路線では旧型客車以外は無かったのですか。

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  • ベストアンサー
  • gsmy5
  • ベストアンサー率58% (1457/2504)
回答No.5

他の回答にもあるように、昭和と言っても長いので、50年代から60年代の状況を書きましょう。 この時期、客車列車はそのほとんどが旧型客車でした。で、この時期になると茶色も青色も同じように使われ、どちらが多いかは単純にそこでどの程度は一両の差があるかによる違いだけでした。 昭和50年代後半になると、九州・四国・東北などで赤くて自動ドアだけど冷房のない50系客車が導入され始め、これらの地区では旧型客車が減りました。 一方、60年頃だと主要幹線の一部では本来は急行用の冷房つき12系客車が使われるケースも出始めました。 この時期大まかな状況は以下のような感じでした。 大都市圏の電化区間:通勤型電車と近郊型電車 地方の電化区間(直流):近郊型電車 地方の電化区間(交流を含む区間):旧型客車(のちに12,50系客車になった区間あり)、一部気動車 大都市近郊の非電化区間:気動車 非電化の幹線:旧型客車(のちに12,50系客車になった区間あり)、一部気動車 非電化のローカル線:気動車、朝夕の一部に客車あり 交流電化区間で客車が多かったのは、交直流電車が高価であるため、ローカル輸送用に交直流電車を導入するより客車で運行したほうが安いという面があったようです。また、幹線だとそこそこ利用者数が多かったという面もあります。 非電化幹線で客車が多かったのは、手小荷物輸送(今の宅配便的な物を国鉄でも請け負っており、これを運送する車両は一部の電車を除き、客車が多かったので、客車による運行が必要だったこともあります。従って、手小荷物制度が廃止された昭和61年以降客車列車は急激に廃止されます。 大阪近郊ですと以下のような感じでした。(昭和59年頃) 東海道・山陽線、大阪環状線、関西線電化区間、片町線電化区間、阪和線、和歌山線:通勤型電車または近郊型電車 湖西線:京都大阪方面と永原までの間を結ぶ列車は近郊型電車、永原以遠へ向かう列車は気動車 北陸線:客車列車または急行用車両を格下げした交直流電車 紀勢線:天王寺または和歌山発-紀伊田辺、御坊は近郊型電車、それ以外の一部が客車列車(早くに12系化されたはず) 草津線:原則通勤型電車、京都発着など一部に50系客車 加古川線とその支線:気動車 関西線、片町線非電化区間:気動車 播但線、姫新線:気動車または50系客車 和田岬線:旧型客車(座席ほとんど撤去) で、福知山線は以下のような感じでした。(山陰線京都発着も同様の状況) 昭和59年頃(当時は宝塚まで電化) ・宝塚発着は原則103系電車 ・宝塚以遠発着の列車は一部が気動車の他は原則旧型客車 昭和60年ごろ客車の12系化始まる このころは大阪発出雲市行き普通(12系)などもあり、青春18による優雅な帰省客も多くみられた。 (当時臨時急行で12系の列車もあり、通過駅があるだけと揶揄された) 昭和61年 城崎まで電化 これにより、福知山・城崎発着の列車は原則電車化 残った山陰線京都発着、福知山・豊岡-鳥取方面は12系・50系客車または気動車 JRで最後まで客車が残ったのは西は久大線、東は東北線と記憶しています。

noname#221710
質問者

お礼

なるほど。詳しい説明ありがとうございました。昭和50年代には自動ドアの客車が既にあったんですね。50系客車は旧型客車とは別でしょうか。旧型客車と言うとドア開けっぱなしで走るイメージしか無くて(笑)

その他の回答 (8)

  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2590/17104)
回答No.9

こんな車両が使われていたのは80年代初頭までです。信じがたい話ですが、当時は冷房もなく、ドアを開けっぱなしで走る普通列車が地方では平気で使われていました。 東京、名古屋、大阪近郊では東北新幹線開業頃に使われていたのが最後ですが、その頃はすでに電車に主力は移っていて、滅多に見かけるものではありませんでした。

noname#221710
質問者

お礼

なるほど。参考になりました。

noname#206004
noname#206004
回答No.8

先の回答は早とちりして、とんちんかんな回答となりました。 申し訳ありません。 青い12系と呼ばれる鋼鉄製の車両は元々は急行や臨時・団体専用に製造されましたが、普通に使われましたし、その後赤い50系と呼ばれる客車は完全に普通用としてデビューしてます。 そして12系客車の一部は普通用に改造された物もありました。 画像の様な客車はデビュー当初は特急や急行に使用されていた物です。 昭和50年代後半ではローカル線にしか残ってません。 その頃は非電化のローカル線や直流と交流の境目を走る列車にも使われましたが、ディーゼルカーの普及により活躍の場が急激に減りました。 電化区間は勿論電車が走ってました。

noname#221710
質問者

お礼

この客車が特急や急行とは何か意外です。イメージ的には長距離の鈍行みたいな(笑)

noname#206004
noname#206004
回答No.7

もう廃止される「北斗星」や「トワイライトエクスプレス」臨時となって今後どうなるか分からない「あけぼの」等に使われている客車は製造は全て昭和です。 昭和って64年もあるんです。 しかも途中に戦争を挟んで「戦前」「戦後」に別れます。 一括りにする事に無理があります。

noname#221710
質問者

お礼

??

  • suiton
  • ベストアンサー率21% (1111/5268)
回答No.6

昭和も40年代以降であれば、全国的に新型電車が一般的です。 旧型客車が走っていたのが一般的なのは昭和30年代までです。

noname#221710
質問者

お礼

昭和30年代って、、旧型客車ってそんなに昔なんですね。予想では平成前辺りまでは旧型客車なのかなぁと勝手に思ってました(笑)

  • m2052
  • ベストアンサー率32% (370/1136)
回答No.4

昭和40年ごろ、東京⇔横浜を利用していました。 大垣行きの夜行だけが旧型客車で運行され、ほかの普通はすべて電車でした。

noname#221710
質問者

お礼

なるほど。長距離は旧型客車の方が都合良かったのでしょうか。たしかに旧型客車と言うと何百キロも走るイメージあります。イメージ的には東京発広島行の鈍行みたいな(笑) あ、あくまでもイメージです。

noname#204885
noname#204885
回答No.3

昭和40年代後半~50年代前半くらいですが、その頃は、新型客車の先駆けであるナハ10系も混ざっているものの、ウインドシル/ヘッダーの付いた43系や60系の旧型客車も大阪近郊でごく普通に見かけました。大阪駅でも、急行「きたぐに」等で旧型客車を見ることができました。「きたぐに」は寝台車はさすがに全て10系寝台車でしたが、座席車はグリーン車にまだ旧型客車が入っていて、無茶苦茶乗り心地が悪かったのを覚えています。福知山線ではDF50やDD51が牽引する60系客車が通勤用に平気で使われてました。湊町にもキハ35系の気動車に混じって、スハ43系等が入線していたように思います。 当時としては新型客車の12系は、優等列車ではよく使われており、繁忙期の臨時特急にも入ってましたが、他の客車と混ざることはあまりなく、普通の列車には殆ど入ってなかったように思います。その後、昭和50年かその少し前くらいから、簡易リクライニングシートを載せた14系客車(座席車)が登場してきました。大阪から九州に行く時に、「雲仙・西海」でお世話になりましたが、簡易リクライニングはお尻を上げる度に座席が音を立てて戻るという、使いにくいしろものでした。更にその後は50系客車も登場しましたが、こちらが出た頃には客車列車自体が末期に入っていて、私は乗る機会は殆どありませんでした。 旧型客車を全く見かけなくなったのがいつからか、意外にきちんと覚えてないのですが、大阪地区では昭和60年代に入って、一気に消えていったように思います。この頃に、福知山線が電化され、「きたぐに」も583系電車になってしまい、大阪駅では座席の客車列車を見かけること自体が殆どなくなりました。

noname#221710
質問者

お礼

なるほど。大変参考になりました。 やはり昭和と平成の境目で色々変わったんですね。それにしても旧型客車は乗り心地悪いなんて初めて知りました。生まれてから一度も乗った事が無かったもので。調べるとイスは木製だったとか、、

  • kuni-chan
  • ベストアンサー率22% (678/3076)
回答No.2

 昭和と言いましても期間は長く元年と64年とでは状況が大きく違います。  昭和の一桁台でしたら旧型客車が主力ですが全てではありません。  電化していた私鉄を買収した路線は電車が走っていました。  昭和64年ですと茶色の旧型客車はほぼ無くなっています。  定期列車は山陽本線の和田岬支線だけだったと思います。  青色の旧型客車は急行用ですが、普通にも使われます。

noname#221710
質問者

お礼

昭和の一桁台でも旧型客車以外があったなんてビックリです。そんな昔から電車なんてあったんですね。

  • kia1and2
  • ベストアンサー率20% (482/2321)
回答No.1

昭和30年頃の東京-鎌倉でも大阪(米原-姫路)でも近郊路線は、一両に自動扉が3ヶ所の電車。電化されていないもっと遠くからくるデイーゼル機関車につながれたのは、写真のような茶色の列車でした。 近郊路線の電車は、普通・準急・快速で各駅停車からメイン駅停りまで。電気機関車につながれた列車は、普通でも、快速よりも停まる駅が少ないでした。 大阪の天王子から奈良、蒸気機関車で運行で、普通なのにノン・ストップ。 青色は、電化がもっと進んで電気機関車に変わったころからです。

noname#221710
質問者

お礼

昭和30年代に既に自動ドアがあったなんて意外です。そんな昔なら全てドアは手動かと思ってました(笑)

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