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米原~田村の暖房について

北陸線の米原~田村の間接接続がDLに変わった後、冬期の客車列車はSG付のDE10が専任されていると思っていました。 ところが最近、霜が降りている真っ暗な米原駅でDD50が先頭に立った客車列車(車種から見て普通列車)が発車を待っている写真を見て驚きました。 そこで質問なのですが、米原駅には電暖の給電設備でもあったのでしょうか。 あるいは駅に入れる前に何らかの方法で車内を暖めていたのでしょうか。 上り列車がすぐに折り返すというようなことはやっていなかったようですので、上記のような対策を取っていなければ車内は相当に冷え込んでいたと思います。 いくら電暖の立ち上がりが早いと言っても、暖まるのは敦賀に着く頃になるでしょうし、昭和40年代後半になってそんなことでは苦情も殺到したと思うのですが。

みんなの回答

  • kuni-chan
  • ベストアンサー率22% (678/3074)
回答No.3

 参考URLの写真を見ますと暖房車がありませんから、暖房無しだったようです。  当時は今とは違って「暖房を欠かしてはいけない」という状況ではなかったのでしょう。  あと、蒸気暖房は編成が長くなると後ろは暖まりにくくなります。これは機関車がEF58でも起きますから、一般論ですが冬は減車する事もありました。

参考URL:
http://homepage3.nifty.com/EF57/train/maibara.htm
8lda25
質問者

お礼

ありがとうございます。 参考URLの写真を見て、その昔腰までの雪をかき分けながらED70の最後の活躍を撮りに行った頃を懐かしく思い出しました。 さて本題です。 この写真のDD50は上り列車ですから問題ないでしょうが(DE10もSGの水蒸気が見えないようですね-数分間だけのことですから上りは手間を省いていたのでしょうか)、写真を見るだけでも震えそうなこの状況下、下りはやはり何らかの対策がなければどうにもならなかったような気がします。 田村に着けばすぐOKということではないですからね。

  • FEX2053
  • ベストアンサー率37% (7991/21371)
回答No.2

まず、米原以外でもそうですが、駅構内に暖房の供給設備の ある駅はありません。暖房はEG,SG,または蒸気機関車による 暖房以外の暖房方法はありませんでした。 ですので、田村-米原にD50が居なくなってからは、あの区間で 暖房の供給はありませんでした。ま、あの区間の客車は北の 方から来て北に帰る運用でしたから、接続区間に入る前に 力いっぱい暖房してその余韻だけで放置していました。 ただ、SLなどの蒸気暖房の最後部の客車の寒さは、暖房の 「余韻」しかない北陸本線の客車と変わらない寒さでした。 けん引力に出力を回さないといけない蒸気機関車の暖房 って、専用SGより利かないことが結構あったんです。山陰 本線西部、10両とかの長編成下関行き通勤列車の最後部 の寒かったこと! 要は、あの頃の旧型客車って、「そんなもん」だったんです。 これは急行とかでも同じ。九州行きの臨時旧客の最後部は、 全編成電暖の東北筋のソレよりメチャメチャ寒かったです。 だから暖房の効きが良い12系は評判が良かったんですよ。

8lda25
質問者

お礼

ありがとうございます。 やはり駅設備としては無いのですか。 >あの区間で >暖房の供給はありませんでした。 私は冬期この区間で米原仕立てのPCに乗ったのは一度だけですが、その際はDE10が引いており、蒸気暖房の湯気が立ち上がっていました。 また発車までの間、車内アナウンスで「前の方が暖かいのでよろしければそちらに移動してください」と何度も繰り返していました。 暖房していてもそんな状態ですので、それさえなければ大変だったと思います。 「余韻」なんて2時間もすれば完全に消えてしまったでしょうから。 >蒸気暖房の最後部の客車の寒さは、暖房の >「余韻」しかない北陸本線の客車と変わらない寒さでした。 完全に余談ですが、もう忘却の彼方だったことをこれを見て思い出しました。 私の場合は逆に前部の暑さに辟易させられたものです。 九州行き夜行急行は寝台車が前部連結だったのですが、暑くて暑くて毛布をかぶるどころか、そのまま寝転んでも汗まみれになりました。 30℃以上あったことは確実です。 まあ15両編成の最後部を暖かくしようとすればそういうことになっちゃうんでしょうね。 山陰線の5両程度の編成でも先頭車はムシムシ、最後尾はスースーという感じでしたからね。 今にして思えばあれで誰も文句を言わなかった事が不思議でなりません。

  • kuma-gorou
  • ベストアンサー率28% (2474/8746)
回答No.1

>最近、霜が降りている真っ暗な米原駅でDD50が先頭に立った客車列車(車種から見て普通列車)が発車を待っている写真を見て驚きました。 実際の写真は見ておりませんが、敦賀⇔新疋田に25/1000‰が存在し(鳩原ループは、その後の建設)、SLでは力不足のため、交直スイッチャーとして、DD50が敦賀機関区に配置されていたと記憶しています。 当然、冬場は暖房の問題もあり、牽引機関車の次位に、蒸気発生装置を搭載した暖房車が連結されていたと思われます。

8lda25
質問者

お礼

ありがとうございます。 その写真はネットで見たのですが、アドレスなどは覚えていません。 時期は1973年とのことでした。 ところで新疋田駅は敦賀までの交流電化後できたわけですから、DD50は入線していないと思われます。 敦賀機関区時代の運用は杉津線の前補機としてが主体ではなかったでしょうか。 DD50重連(もしくはDF50単機)+D51+貨車1000トン+D51で峠越えをしていたそうですね。

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