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神のめぐみが何ものにも先立つということ
- 神のめぐみが何ものにも先立つということは、人間の知恵や知識、判断力や意志、度胸や度量や境地などよりも重要であると言われています。
- 詩編/ 59編 15-16節には、夕べになると彼らは戻って来て犬のようにほえ、町を巡ります。彼らは餌食を求めてさまよい、食べ飽きるまでは眠ろうとしません。
- 詩編/ 59編 11-12節には、神はわたしに慈しみ深く、先立って進まれます。わたしを陥れようとする者を神はわたしに支配させてくださいます。彼らを殺してしまわないでください、御力が彼らを動揺させ屈服させることをわたしの民が忘れることのないように。わたしたちの盾、主よ。
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質問者が選んだベストアンサー
つまり、意志についても、ミクロコスモス(個人)とマクロコスモス(神)の関係が成り立っており、そこでは常にマクロコスモスが先に立っているという理解で良いのでしょうか。そして、世界の階層が異なるゆえに、神の某によって人間の意志は阻害されることがない、ということかな?むしろ相似形であると。
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- a_hona
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それしかないというわけでは無いでしょうが、クリスチャンにとってはパンのみに生きるにあらず、神の言葉や息吹(霊的なもの、或いは精神的なもの)によって生きるのだということでしょうか。 しかし、クリスチャンでない人は、神によって心を補完するのではなく、人間こそが拠り所となる場合も多くあると思います。これは自然本性の話にも通じるかもしれません。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 神によって心を補完する ☆ 心は 神のめぐみによってのみ生きると言っています。 《補完》ではありません。 ★ 人間こそが拠り所となる場合も多くあると思います。 ☆ その思想に異議をとなえています。 ☆☆(趣旨説明欄) 世界の理論として これしかないという見方です。これを問います。どうでしょう? ★ クリスチャンにとってはパンのみに生きるにあらず ☆ 《パンのみにて生きる》場合もあるのですか?
知ってる人だけが幸せになる様な事なんか 神は しません 知らなければ 知らないなりに 時代に流れてれば良いのです その内 流行歌の様に あなたにも そして 誰にでも 届きます
お礼
たぶん そのときにはご免こうむります。 ご回答をありがとうございました。
何故 不幸せになったか そして どうすれば それを回復出来るのか は 聖書に書かれているし 実際 神が どうやって回復の道を進めて来たか等 詳しく書かれています それを 理解するか しないか だけなのです そして 最後には キリストは 再臨しないと いけない事も書かれてあり 再臨の時 どの様な事になるか そして 何時 何処に 再臨するかまで 詳しく書かれています・・・ まっ 全ては 終わったので もう 聖書の役目も終わったが・・・
お礼
どう書かれているのですか? それを この質問の主題である《神のめぐみが 何ものにも先立つということ》という命題にからませて明らかにしてくれますか? キリストの再臨にはかかわらず どのようにひとは心構えているのがよいか? こういう捉え方を問います。 ご回答をありがとうございました。
世界の理論も神の理論も人間の理論も 最終的には 愛 です 宇宙は 神が創った最高の愛の形 そして 人間は それを受け継ぐ 最高の神の子供 唯 それだけです
お礼
ううーん。だとすると 少々の不幸せな人びとがいても それは 最高の愛の形のうちにおさまる。ということですね。 多少の数の人びとは あろうことか互いに打ち殺し合いつづけている。これも 愛のうちにおさまる。 みんな 神の子どもである。ということですね? ご回答をありがとうございます。
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お礼
そうですね。 この世のうつろいゆく経験的な出来事を超えているナゾの何ものかについては ひとは死ぬまで それに対しておそれを――きよらかなおそれを――抱かざるを得ないと考えます。ひとは 神ではないからです。 ただし ★ ミクロコスモス(個人)とマクロコスモス(神)の関係が成り立ってお ☆ るところの非思考の庭にあっては すべて――想定においてですが――霊の場の問題があります。 そしてそこでは 梵我一如あるいは仏仏一如またはつまり霊霊一如である。というふうにも想定して見ています。 そうすると問題は 一如であるということは あたかも神の霊とアートマン(われ)の霊とが一体でありけっきょくおなじものであると見られるかも知れない。このことにあると思われます。 ところが ★ そこでは常にマクロコスモスが先に立っているという理解で良いのでしょうか。 ☆ というふうに《きよらかなおそれ》のもとにあっては 捉えなくてはならないことにもなります。 さらには ★ そして、世界の階層が異なるゆえに、神の某によって人間の意志は阻害されることがない、ということかな?むしろ相似形であると。 ☆ といったふうにも解釈され得ます。じゅうぶんそういう可能性はあります。 問題は整理するなら 一方で 人間の相対世界と神の絶対なる場との 絶対的な隔たりを置いての向かい合いがあり 他方では 人間にも霊ないしブッダター(仏性)がやどるという想定において その人間の霊と神の霊とは一体であるということ このふたつの命題を全体としてどう捉えるか? だと思われます。 アウグスティヌスが言うには 《わたしは 人間の自由意志をつとめて擁護しようとしたが 神の意志がそれを凌駕した》と。 それでは ミクロコスモスなる霊とそのもとに持たれ発揮される意志とは 神の霊と心とに従属しなければならないのか? 人間の意志は 神の意志に勝てなかったかぎりで そうである。ひとは 神にあたかも奴隷のごとく従属しているという側面はまぬかれない。と。 ただし 神のこころは 人間の意志をかえって建てることにある。と。 《隷属していた》としても 《神の某によって人間の意志は阻害されることがない》のですが――次元が違うから―― けれどももし隷属しているとするならそう見るほどに 神の意志はわれわれの意志を家を建てるように建てるのだと。霊霊一如とは そういうことであると。 ▲ (ヨハネによる福音書/ 14章 12節) ~~~~~ はっきり言っておく。 わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、 また、もっと大きな業を行うようになる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《もっと大きなわざをおこなう》ことが出来るのは むろんあくまで霊霊一如なる《めぐみ》のもとにあってということですが――つまり 人間が自分の能力と努力によってのみ成し得るようになるという意味ではありませんが―― そのように大きなわざを成すようになるというのは 《神の霊によってわれわれの意志が建てられる》ことによるものと考えます。 これは あやまちうるひとつの解釈ですと事割っておくほうがよいかも知れません。 ご回答をありがとうございます。 ☆ 奴隷という表現は もうじゅうぶん古いですね。だから その当時にも《親と子》の関係にもたとえるわけです。隷属ならぬ《霊属》とすればよいかも知れません。 きよらかなおそれの問題は ヨブ記があつかっています。神に直談判するのが ヨブですが・そしてヨブは基本的に妥当なことをおこなうただしい人でしたが 神との隔たりが埋まることはないと気づきます。