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☆世界史☆古代末期の社会…ローマ帝国で…

ローマ帝国のキリスト教の公認について… 313年 『ミラノ勅令』をコンスタンティヌス帝が出し、キリスト教が公認されましたよね。 コンスタンティヌス帝はなぜミラノ勅令を出したのでしょうか。 あと、コンスタンティヌス帝からテオドシウス帝へ変わるときにローマが滅びたと思います。(間違ってたらごめんなさい。)これはどうして(なぜ)ローマが滅びたのでしょうか。 わかるかたがいたら教えてください。 詳しく教えていただけるとうれしいです。

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回答No.1

こんにちは。私は元大学受験生(世界史選択者)です。 なぜコンスタンティヌス帝はキリスト教を公認したのか、ですよね。 それまでの皇帝は、皇帝崇拝を拒むキリスト教(神の前に人は皆平等、ですから)を禁止したり、信者を弾圧したりしてきました。にも関わらず信者は隠れて増え続け、すっかり帝国内の一つの勢力として確立してしまいました。無理に押さえつけて反乱を起こされたりするよりは、容認して手なずけた方がいいんじゃないか、と皇帝が思うようになるまでになったんです。 あ、キリスト教は上流階級にもけっこう広まっていて、コンスタンティヌス帝の皇后や娘さんもキリスト教に入信していたから、というのも理由の1つとして挙げられると思います。 あと、ローマが滅びたのは、厳密に言うとテオドシウス帝の時代ではないです。テオドシウス帝は帝国の領土を東と西の2つに分けて、息子2人にそれぞれ与えたんです。滅亡というよりも分裂と言った方が正確です。2つのうち、東のビザンツ帝国は1000年以上存続、繁栄しますが、西の帝国はゲルマン族の侵入や財政難などで衰退し、ゲルマン人の傭兵隊長の反乱によって476年に滅亡してしまいます。 ・・・多分こんな感じだったと思います。。 他の方や歴史の先生の意見なども参考になさって下さいね。。

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回答No.2

ローマ帝国では皇帝の考え方次第で政策もコロコロ変わります。コンスタンティヌスがミラノ勅令を出したのは自身がキリスト教を信じるようになったからだとも言われてます。  305年に4分統治を行ったディオクレティアヌスが退位し、翌年コンスタンティヌスが正帝に推されたものの副帝にとどまりした。このときローマでマクセンティウスという人が勝手に皇帝を名乗りだしました。コンスタンティヌスは312年にローマ郊外の戦いでマクセンティウスを破るのですが、この最中に不思議な経験をします。  空に光る十字架が現れその横には「汝、この戦いに勝て」という文字が浮かんでいました。これにあやかって旗に十字架を書いて戦い、マクセンティウスを破ることができました。それでキリスト教を信じるようになったそうです。翌年にミラノ勅令ですから関係がありそうですね。  テオドシウスは帝国を二分しました。ゲルマン人の攻撃などがひどくなり、広すぎる領土を保てなかったのです。生活が苦しくなるばかりの民からも支持が得られず、分解してしまいました。  あくまで私が知っている限りなので他の要因もあると思います。