- 締切済み
なからざるべからず~その2~
まだ閉め切ってなくて寝かしておいた質問の件で新たな側面から疑問が湧いてきました。 その元の質問は下記のものです。 http://okwave.jp/qa/q8757695.html 教えて!gooは古い質問をそのまま再開してもそのカテゴリーで活動している多くの人の目には留まらないシステムだったと思います。←間違っていたらその旨即座に指摘して下さい。間に合うようならこの質問を削除し、元の質問ページで続きを進めたいので。 ですので、新たに質問を立てるという形にしました。 まずこの質問を始めるに先立ち、元の質問ページはまだ解決していない、ということをここで明言しておきます。元のページを解決済みにしなかったのは、いろいろと事情があったからなのですが、6件くらい回答がついた時点で複雑さが増し、私の脳が拒否反応を起こしたほどなのですが、やがて理解が進み、7割方納得しました。その後もありがたいことに追加説明の回答や他の方の便乗質問で深みを増して頂いていましたが、私としては6件くらい回答を頂いた時点で一旦満足したものの、解決したわけではありませんでした。寝かしておいたと書きましたが、無理に解決済みにする必要もなかろうと放っておいたという方が正しいのかもしれません。 さて本題ですが、前ページの続きとなる新たな質問は、 「~なからざるべからず」は、ある点において「ぞっとしない」と類似の構造をとっているのではないでしょうか、ということです。 ここで、「ぞっとしない」について軽く説明書きしておきます。 この表現は、「ぞっとする」の否定表現です。「ぞっとする」には、恐怖で体が震える感じがしたり寒気を感じたりすること、美しいものに出会って身体を駆け抜けるような感動を覚えること、または文字通り寒気で体が震えること、といった意味があります。その否定表現である「ぞっとしない」の昔からの意味は、驚きがない、面白くない、あまり感心しない、いい気持ちがしない、となります。 一方、現代ではその本来の意味ではない意味、つまり「恐ろしくない」という意味で使う、または解釈する人がいるという国語問題があるとのことです。 ここでのポイントは、本来の用法は、「恐ろしい」といった意味の否定だから「恐ろしくない=平気だ」という恐ろしさの対極の意味になるのではなく、「恐ろしくない=恐ろしさはない=とりたてて何もない」というニュートラルの意味になっているという点です。 閑話休題、「~なからざるべからず」について考えてみます。 永井荷風 一夕を例に取ると、「およそ小説と称するものその高尚難解なると通俗平易なるとの別なく共に世態人情の観察細微を極むるものなからざるべからず。」は、世態人情の観察は細微を極むるものであってしかるべきだ、という意味です。 これを「観察細微を極むるもの」+「なからざる」+「べからず」と分解しますと、問題の 「なからざる」+「べからず」の部分は、「でないことはない」+「なんて曖昧なことではいけない」という感じの解釈が浮き上がってくるわけです。 この解釈はまだあくまで可能性であり、ですから質問を続けている次第だということに注意して下さい。 この解釈は、文脈上の実際の意味も矛盾無く説明できていますし、前ページ(qa/8757695)でkine-oreさんから提示していただいている肯定の強意表現という役割とも大枠で矛盾せずに沿っていますし、前ページのNo7-8で物議を醸している「ぞ+あり」から来た「ざり」という説の信憑性に関してもクリアされます。 再度この解釈を説明します。 「なからざる」を「でないことはない」の二重否定の意味で使うことで部分肯定とでもいいましょうか、つまり完全に肯定せずに可能性を込めたあいまいな表現にします。 そして、「べからず」でそれを否定することで、しかもベシを使った否定をすることで、部分肯定であることを否定して完全肯定へ持ち上げて強意にしている、というのが新たに出てきた解釈の仕方であり、これは私個人が仮定しているだけであり、その是非をここで問わせていただく次第であります。 よろしくお願いします。
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- hakobulu
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#7です。 #8さんのご見解を拝見した感想を述べさせていただいてもよろしいでしょうか。(と尋ねながら勝手にコメントしてしまいますが) これは、質問文に書かれている質問者さんの当初のご見解「部分肯定であることを否定して完全肯定へ持ち上げて強意にしている、」とほぼ同じということになりますね。 自論の不備を棚に挙げて申し上げると、この論理には多少無理を感じます。 「なくはないではだめで、あるべきだ」という解釈によって「あるべきだ」という強調の意図が実現される、とは思われないからです。 「なからずべからず=なくはないではだめ」というのは、「なくはない」という「消極的肯定」の否定を意味している、とおっしゃっているわけですよね。 そうすると、そうした消極的な肯定を否定をすることによって、「あるべきだ」という強調の意味合いを文に持たせることができるだろうか、という疑問が生じるのではないでしょうか。 消極的肯定の否定だから正反対の積極的肯定になる、という論理なのかもしれませんが、「消極的な肯定」の否定を肯定に転じるには、それほど高い積極性は不要だと考えるほうが自然だと思います。 つまり、「消極的な肯定(なくはない)」を否定するだけでよいのだから、特に強く「あるべきだ」と肯定するニュアンスにはなりづらいわけです。 本来の意図に反する解析になってしまうと思いますね。
- wind-sky-wind
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これまでの議論?はよく知りませんが、私なりの回答をさせてください。 「~せざるべからず」のような二重否定は今の「~しなければならない」 と同様、強く「~すべきだ」ということですが、 「なからず」という二重否定はそうではないような気がします。 「なからず」は「なくはない」的な二重否定。 それを「べからず」で否定して、 「なくはないではだめで、あるべきだ」
お礼
回答ありがとうございます。 >「~せざるべからず」のような二重否定は今の「~しなければならない」と同様、強く「~すべきだ」ということですが 専門の辞典が手元にあるわけではないですが、軽く調べた限りではやはり文法上の意味はそのようですね >それを「べからず」で否定して「なくはないではだめで、あるべきだ」 この点ですが、「べからず」の「ず」が否定であるというのは同意見ですが、「べから」つまり「べし」はここでは義務や命令といった意味ではないと考えられます。ここでは、と書きましたが、例文は複数あり、すべてを網羅して調査したわけではないので、文脈によっては義務等の意味でつかわれている可能性は捨てきれません。 私も、当初、少なくともこの質問を出した直後までは、「べし」を義務や命令といった意味でとらえていました。しかし、「なからざるべからず」が使われている作品のその他の文章を読み込んでいくと「べし」は実に頻繁に用いられており、それらのほとんどは義務や命令とは別の意味で使われていることが多いということにようやく気づきました。学研全訳古語辞典の「べし」の意味分類を参照するなら、「(1)〔推量〕…にちがいない。きっと…だろう。(当然)…しそうだ。▽確信をもって推量する意を表す。」がこの場合もっとも当を得ていると私は思います。 したがって、「なからざるべからず」の「べし」も推量のべしに分類されている可能性が高いと私は思います。 ですので「なからざるべからず」を「あるべきだ」という風な義務や強い主張の意味で捉えなければならない文法的な制約は存在しないことになります。 なぜなら、「なから」+「ざるべからず」でもなく、義務や命令の「べし」でもないのですから。
補足
>それらのほとんどは義務や命令とは別の意味で使われていることが多いということにようやく気づきました。学研全訳古語辞典の「べし」の意味分類を参照するなら、〔推量〕がこの場合もっとも当を得ていると私は思います。 少し訂正しておきます。〔推量〕の他にも、ほとんど意味を持ってないのではないかと思われる用法が散見されました。 いずれにせよ、私が特に取り上げてきた「なからざるべからず」の例文の文脈では、私の今の考えとしましては、「べし」は意味は持っており、それは上記のように〔推量〕であると考えております。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#5さんのお礼欄でお示しの改善案、 >「なからざる」で2重否定、それを「べからず」で強調。これは、繰り返しによる強調だと推測しています。つまり、「ないことはない、ないことはないんだ」という意味を出しているのではないかということです。「なからざる」が「ないことは”ない”」を、「べからず」が「ないことは”ない”んだ」の意味を担当していることになります。 : という説に、かなり同感です。 三重否定ではなく繰り返し否定である、とおっしゃる点も極めて説得力があると思います。 わたしの場合も似ているのですが、「極むるものなからざるべからず」を100回ほど呪文のように唱えているうちに、この文が、「極むるものなからざる(ことなかる)べからず」の略であるように感じられてきました。 四重否定の省略形として捉えたことになります。 では、なぜ、こうしたややこしい表現になったのか。 それは、むろん推測ですが、「なし」という形容詞のせいなのでしょう。 というのは、「無し」は「ある」の対義語ですから、たしかに「ある」の否定ではあるのですが、しかし、あくまで「無し」という事態を肯定している語である、ということもまた事実です。 この場合、「なから+ざる」は「=ある」で、意味的には二重否定ですが、形としては単純否定にしかなっていないことになります。 本来は、「極むるものなかるべからず」ですが、これだと、二重否定の強調という(意味的にはなるが)【形】にならない。 「絶対にあるべきだ」と強調したい話者にとっては大いに不満です。 そこで、「否定の意味を独立して持つ語」が必要とされることになった。 それが「ざる」です。「ざる」を「べからず」で否定する形をとって、はじめて【二重否定の形】が完成するわけです。 「極むるものなからざることなかるべからず」という(意味的に四重否定で形的には二重否定の)文が想起されるわけですが、「なから・なかる」の重複がくどい印象を与える。 ええい、ままよ、とばかりに、ばっさり削除して、「極むるものなからざる(ことなかる)べからず」の誕生と相成った。 この辺りは、前回のスレッドで#1さんがおっしゃった「先生も勢いだけで書いてしまったようです」という推察が的を射ているように思います。 「ふむ・・・、なかなか落ち着きは良さそうではないか。文法云々とうるさいことを言う奴も出てくるかもしれんが、この程度の省略は日本語の許容範囲であろう」と、ごり押し的に納得し、それに賛同した幾人かが同調して使うようになった。 本質的には、質問者さんの「繰り返し否定」とほとんど変わらないと思います。 いずれにせよ、前回、わたしの主張した反語説よりは信憑性がありそうです。
お礼
ありがとうございます。
補足
文法文法と言っておきながら、私の解釈文の文法解釈において文法用語を使っていなかったり独自の文法用語を使用していたりするのはみなさんに謝っておきます。 また、各最小構成要素の品詞特定や活用形の話などは、意味や役割の解釈に矛盾がなくなった後にすればよいと思って私は後回しにしています。
- OKAT
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No.5です。早くもミスがありました。「すでに独立国たる以上は、宗教また西洋と<異なら>ざるべからず」を読み違えていました。したがって、この部分は論理的に役立ちません。
お礼
確かにそこは「異なっていて当然だ」の意味ですね。 自ずと >ところで、この解釈を使えば、「異ならざるべからず」も説明可能です。 の可能性も取り消され、なからざるべからず以外に異ならざるべからずも同様の解釈可能な例があるという論議に発展していく可能性は取り消されてなによりです。
- OKAT
- ベストアンサー率38% (247/639)
前回は理論で解決しようとして失敗したので、今回は用例をあげて説明します。 青空文庫は、明治初期から昭和40年くらいまでの文章を収録しています。そこで検索をかけました。「ざるべからず」にヒットしたものは下に書いたものです。(検索の5ページまで) 井上円了 「西航日録」 、天堂 山川丙三郎訳 「神曲」、福沢諭吉 「学問のすすめ」 、福沢諭吉 「学校の説」 、福沢諭吉 「中津留別の書」、山路愛山 「信仰個条なかるべからず」 、福沢諭吉 「文明教育論」 、正岡子規 「病牀譫語」、福沢諭吉 「日本男子論」 、北村透谷 「情熱」 、芥川龍之介 「小説作法十則 」、内藤湖南 「學變臆説」、福沢諭吉 「教育の事」、芥川龍之介 「文部省の仮名遣改定案について」 、内村鑑三 「ネルソン伝に序す」 、竹越三叉 「深憂大患」、北村透谷 「漫罵」 、北村透谷 「賤事業弁」、佐野友三郎 「学校教育における図書館の利用」 、堺利彦 「婦人の天職」、津田左右吉 「史論の流行」、正岡子規 「従軍紀事」 、福沢諭吉 「読倫理教科書」、福沢諭吉 「瘠我慢の説」、新渡戸稲造 「教育の最大目的」 、竹越三叉 「世界の日本乎、亞細亞の日本乎」、堺利彦 「貧を記す」、北村透谷 「各人心宮内の秘宮」、室生犀星 「抒情小曲集」、福沢諭吉 「家庭習慣の教えを論ず」 、北村透谷 「実行的道徳」、大町桂月 「久地の梅林」、田中正造 「非常歎願書」、木下尚江 「鉱毒飛沫」 、日野強 「新疆所感」 、泉鏡花「愛と婚姻」、新渡戸稲造 「我が教育の欠陥」、山路愛山 「英雄論」、北村透谷 「復讐・戦争・自殺」、喜田貞吉 『「特殊部落研究号」発刊の辞』、堺利彦 「面白き二個の広告」、芥川龍之介 「大久保湖州」 、井上円了 「妖怪学」、太宰治 『「地球圖」序』、北村透谷 「人生の意義」、大町桂月 「房州紀行」、山路愛山 「透谷全集を読む」、井上円了 「甲州郡内妖怪事件取り調べ報告」、北村透谷 「主のつとめ」 、登張竹風 「美的生活論とニイチエ」 、北村透谷 「人生に相渉るとは何の謂ぞ」、北村透谷 「内部生命論」、高山樗牛 「美的生活を論ず」、大町桂月 「秋の筑波山」、福沢諭吉 「学者安心論」、大町桂月 「層雲峡より大雪山へ」、福沢諭吉 「学問の独立」、井上円了 「欧米各国 政教日記」、 これらのなかで、問題の「なからざるべからず」を含んだものは、すでにご承知の三つと新たに判明したものも含めると四つ、それに伝聞的なものを含めても五つに過ぎません。前回「常套的」と言ったのは何も知らずいっていたことになります。 ○少しは文字の心得も<なから>ざるべからずといえども 「文明教育論」 福沢諭吉 ○奉儒の国は子孫<なから>ざるべからずと命ずるに因れり 「愛と婚姻」 泉鏡花 ○およそ小説と称するものその高尚難解なると通俗平易なるとの別なく共に世態人情の観察細微を極むるもの<なから>ざるべからず。 「一夕」 永井荷風 ○ もし、あるいはコックリに向かって未来のことをたずぬるときは、単に想像または推察によるよりほかなし。ゆえにその応答、事実に合せざること<なから>ざるべからず。 「妖怪玄談」 井上円了 (この例はもう一つ難解ですね。「合せざることなからざるべからず」) 別のサイトで、山折哲男が紹介された伊藤博文の言葉「立憲政治の前提として宗教<なから>ざるべからず」を足しても5つしかありません。検索を広げていけば別の例に行き当たるかも知れませんが、その可能性は薄いと感じています。 本来、「ざるべからず」を後に従えるのは「動詞」が圧倒的に多く、中でも「言わざるべからず」「~せざるべからず」が多いのですがそれに合わせて動詞だけで8~9割を占めていると思います。それに次ぐのが「助動詞」(使役の「しめ」、断定の「なる・たる」他)ですが、「形容詞」は非常に少なく、「なし」以外にはつぎのあげるものです。 さてまた、子を教うるの道は、学問手習はもちろんなれども、習うより慣るるの教、大なるものなれば、父母の行状<正しから>ざるべからず。「中津留別の書」 福沢諭吉(この例は重要) ということで、もし形容詞の「なし」を使うなら次のように本来は「なかるべからず」の形をとります。 男子に二女を娶めとるの権あらば、婦人にも二夫を私わたくしするの理<なかる>べからず。 「中津留別の書」 福沢諭吉 深山に蹈入る旅客<なかる>べからざるが如くに、真理に蹈迷ふ思想家も<なかる>べからず。「各人心宮内の秘宮」 北村透谷 ところが、紛らわしい例も出てきます。 すでに独立国たる以上は、宗教また西洋と<異なら>ざるべからず。請う、みよ、西洋諸国一般にヤソ教国と称するも、各国みなその宗派を異にして一種固有の宗教あるを。わが国、なんぞあえてその固有の宗教を変ずるを要せんや 「欧米各国 政教日記」 井上円了 この「異なる」は動詞で別段否定的要素を持ちません。ところが「異ならざるべからず」とあると一瞬戸惑います。 「異なる」=違う+ざる=打消+べからず=当然の打消 「異なる」の二重否定で、結論は「異なる」の肯定。これは変だ。文意は違わないと言いたかったのではないのか。この人の場合、二重否定という強調法を意識するあまりの錯覚とみられるが、当時この文に対して誰も批判をしなかったのだろうか。ということは、筆者も読者もただの動詞の強調法と受けとったと考えられます。(事実只のの動詞です) 同じ論法で行けば、「なからざるべからず」も「父母の行状<正しから>ざるべからず」の例と同じく、只の形容詞の二重否定と考えて不思議ではありません。 結論は「三重否定」など誰も意識せず、誰も批判する人がなかった時代だから成り立った語法でしょう。 ついでで申し訳ありませんが、「正しいかる事は永久に正しいからざるべからず」(岩波茂雄)というのが見つかりましたので、付け加えておきます。勿論ここの話題に関係ありません。
お礼
OKATさん、ご参加&追加の詳細説明ありがとうございます。 回答いただいた後、私も例文を再度読みこみましたところ、私の上の質問文の見解が少し変わりました。 まずはそれを説明します。 例文で特に注目したのが、前回質問スレNo5でkine-oreさんに解説いただいた、福沢諭吉の「なかるべからず」25箇所「なからざるベべからず」1箇所という指摘、それと井上円了の例文です。 まず、諭吉の方ですが、「なからざるべからず」唯一の使用箇所はこうです。 「もとより智能を発育するには、少しは文字の心得もなからざるべからずといえども、…」 これと例の25箇所を比べると、こちらの方は押しが弱い文脈で用いられているということがわかります。絶対に~だ、というような断定ではなく、「少しは~」という言い方です。 次に、井上円了ですが、「なからざるべからず」が1箇所、同じニュアンスをあらわすのに「往々~ある(あり)」で表現している箇所が2箇所あります。 「未来のことをたずぬるときは、単に想像または推察によるよりほかなし。ゆえにその応答、事実に合せざることなからざるべからず。」(妖怪玄談) 「しかれども、想像および推察は往々事実に合せざることあるをもって、…」(妖怪学) 「しかして、その想するところのもの、往々事実に合せざることあり、…」(妖怪玄談) これも諭吉の場合と同様で、押しの弱さを保った押しの文脈です。 これらの例文から「なからざるべからず」の機能を推定しました。 「ないことはない」と2重否定し、それを強調している、という機能です。 ただし、その強調は、「ないことはない」を表す2重否定部分に込められたニュアンスにより、押しの弱さの強調にもなれば、肯定の強調にもなりうる、というものです。 そして、文法ですが、これは2通り推定しました。 1.「なからざる」で2重否定、それを「べからず」で強調。これは、繰り返しによる強調だと推測しています。つまり、「ないことはない、ないことはないんだ」という意味を出しているのではないかということです。「なからざる」が「ないことは”ない”」を、「べからず」が「ないことは”ない”んだ」の意味を担当していることになります。(繰り返しによる強調という意味では前回スレの「ないじゃないか」による裏付けも期待できます。) 2.前回スレでおなじみの「ざる」で2重否定を強調。 そして、私はこの2通りの推定のうち、1つ目を目下最も支持しています。 なぜなら、2つ目の「ざる」強調説には依然しっくりこない部分がありまして、 1.ある部分(この場合2重否定)を強調するのにわざわざ表現の中間に強調語を入れていること。しかもそれが終止形(連体形?)となっていること。さらに前回hakobuluさんの指摘「なから」という未然形に接続する形である点、も未解決のような気が。。 2.「ざる」が具体的に何をどういう風に強調しているのかという説明がしにくいこと。既出の解説では「なから」という「なし」を強調しているとするか、もしくは「ざる」はとにかく強調表現だからどこに入れてどう使ってもそれでOK、という風に説明するのが関の山だからです。 以上が今の、改善された、私の解釈です。 ところで、この解釈を使えば、「異ならざるべからず」も説明可能です。
補足
>正しいかる事は永久に正しいからざるべからず これは…… 含蓄と突っ込みどころが幾重にも含まれていそうで触るのも恐れ多いような気がします
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
#1です。補足です。 >>初見の方は、本質問で私が書いている内容がそれらしいからといって、それだけを読んで納得して欲しくないということを断っておきます。 はじめの、拝見しました。その上で#1を書きましたので、、、
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
#1です。補足です。 >>意味につきましては、qa/8757695で回答者全員の同意も得られており、問題ありません。 >>3重に否定されているように見える文法構造をどう捉えて実用されているのか、という辺りがこの質問の焦点です。 失礼しました。僕は意味が分かればそれでいいので、、、
お礼
ありがとうございます。
補足
再度、他の方の補足欄を借りて私の質問文の補足をさせていただきます。(SPS700さん、すいません(汗;)) 初見の人はまず前のスレの質問回答を読んでから回答して欲しいです。 http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8757695.html というのは、本質問内の私の解釈は、ネットで調べて主に出てくる解釈(2重否定)とは違い、さらに詳しい前スレqa/8757695.htmlの本流(意味的に3重に否定されているわけではない)とも違うからです。 初見の方は、本質問で私が書いている内容がそれらしいからといって、それだけを読んで納得して欲しくないということを断っておきます。
- Nebusoku3
- ベストアンサー率38% (1465/3824)
>意味ではなくむしろ文法そして当時の人がこの言い回しを使っていた時の考え方の方です。 まず、意味から入ってみたいのですが、 なからざるべからず ● 「なからざる」 と 「べからず」 の組み合わせと思います。 ● 更にその昔、 「なからざる」 は 「なから」 と 「ざる」 の組み合わせであったことが伺えます。 文が書かれた時期が 「なからざる」 と 「べからず」 の組み合わとの意識であった場合、何の抵抗も無く、 現代風に 「無いことがあっては いけないよ」 と使っていたし、取れたと思います。 また、 文が 「なからざるべく」 となったら 現代風には 「有ってはだめだよ」 でしょうね。 ご存知のようにまわりくどい言い回しの場合は 意味の強調と威厳を狙っているので 江戸時代の高札には良く使われた様ですね。(べからず 言葉) 武田節 の 「妻子につつがあらざるや」 も、 やや難解ですね(意味は難解ではないですね) ~ざる と言った言葉に何やらくせが、あるように見受けられます。 「妻子に」 「つつが」 「あら」 「ざる」 「や」 妻子に 変ったことが おきて いない だろう か? (元気でいるだろうか) 文法という問題よりも、当時の人々の用途や受け取り方に関しては 簡単に 「そのようなことはやめてね」 というのを 「そのようなことを することが あってはいけません」 と言ったように 単に町の人々に 威厳のある雰囲気の言葉で 示しただけのものと思います。 威厳、威圧、なんとなく 漢語、論語などからきた知識人の雰囲気をもたせるのが一番の目的。 と言うより漢文を日本語に直すときに、そんな形になってしまうのでは。
お礼
ありがとうございます。 「漢語、論語などからきた」影響があるというようなことはqa/8757695.htmlの方で既に他の方に説明いただいておりましたが、 >町の人々に 威厳のある雰囲気の言葉で 示しただけ >威厳、威圧、 >知識人の雰囲気をもたせるのが一番の目的 等は新出であり、勉強になりました。
補足
qa/8757695.htmlのやりとりの、私の質問、そして各回答の補足欄お礼欄を見ていただけると、質問の意図と経緯がお分かりになるかとおもいますが、たとえばqa/8757695.htmlのNo1回答のお礼欄に書いてあるのは、「~なからざるべからず」という表現の文法において、3重に否定している構造と見ることも可能だとするのなら、「無いの否定の否定」つまり「否定」といった意味合いで現代に文章を作ってもOKなのか否か、という疑問が根底にあります。 これは今回例示した「ぞっとしない」の国語問題ともまた関係してくることであり、「ぞっとしない」を文法的に分解して意味を再構築すると「怖くない」の意味での使用にも文法上は耐えられるということになりますが、実際の意味(元の用法)は違い、さらにいえば、元の用法における「ぞっとしない」の文法と意味の再構築の仕方(特に否定表現の当て方の意味的方向性)は、誤用の場合のそれと微妙に違うがゆえに、違う意味を持っているという事が言えるかと思います。 同様のことが「~なからざるべからず」でも問題になってくるわけでして、意味と昔の使い方が分かっているのなら文法はそれほど問題ではない、ということにはならないのです。 ですから、本質問において、文法面もとても重要なのです。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
永井荷風 一夕を例に取ると、「およそ小説と称するものその高尚難解なると通俗平易なるとの別なく共に世態人情の観察細微を極むるものなからざるべからず。」は、世態人情の観察は細微を極むるものであってしかるべきだ、という意味です。 僕も賛成です。
お礼
また、質問文に言葉足らずだと思われる箇所が見つかったのでこの欄で補足させていただきます。 >「~なからざるべからず」は、ある点において「ぞっとしない」と類似の構造をとっている この意味するところは、どちらも否定表現が反対や対極の用途で使用されているのではなくて、それとは別の用途で使われているということです。機能的には否定なのですが、その否定の当て方が反対や対極とは違うということです。 「ぞっとしない」はぞっとすることがなくて期待はずれだという方向で否定表現を用いており、「なからざるべからず」は、ないことはない、などというどっちつかずな状態ではなくてあって当然なのだ、という風に当てているという意味です。
補足
皆さんにお尋ねしているのは、意味ではなくむしろ文法そして当時の人がこの言い回しを使っていた時の考え方の方です。 前の質問と回答をご覧いただくと、その辺分かりやすくなるかと思います。 qa/8757695.html 意味につきましては、qa/8757695で回答者全員の同意も得られており、問題ありません。 3重に否定されているように見える文法構造をどう捉えて実用されているのか、という辺りがこの質問の焦点です。
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お礼
ありがとうございます。 私(の質問文)への反論ではなくwind-sky-windさんへの反論ですね。 私の質問文における意味がかならずしもwind-sky-windさんの示している意味と同じとは限らないので、これについての直接のコメントは書きません。 ですが、私が質問文で書いた内容の補足説明はしておいた方がよさそうです。 「およそ小説と称するものその高尚難解なると通俗平易なるとの別なく共に世態人情の観察細微を極むるものなからざるべからず。」 これを読み上げる時に念頭に置いていた意味を 「だいたいの小説は世態人情の観察細微を極めるものであろうが」+「だいたいそうだろうなんて曖昧なことでは駄目で、小説とはそうであるべきなのだ」 のように私は新たに考えたわけです。もちろん、それはNo5のお礼欄を書くまでの話であり、今は私自身この解釈には不備があるように思えます。しかし、部分的な肯定を否定することで義務として肯定(絶対的な肯定)するという行為があるというのは理解できるかと思います。 上記の念頭に置いていた意味の文章が理解できるということはそういうことでしょう。 ですが、それよりも重要なのは、否定にもいろいろ方向があるということです。これが質問文の一番のポイントです。 それを「ぞっとする」の例で主張していたわけです。 現代の日常会話でもそういう齟齬はあるでしょう?誰かの発言に対し、他の人がリアクションした時に、「違う違う!そういう意味じゃない。」という齟齬が。 そういうことも考慮しなければならないという気づきがあったということです。 少々駄文になったでしょうか。 wind-sky-windさんのhakobuluさんへの返答も見てみたいです。