「神道」という言葉と信仰や信心と少し分けて考えませんと話がややこしくなります。
4番の質問にも関連しますが、「神道」という言葉が専ら用いられるようになったのは室町時代以降のことです。
元々日本には天災や疫病のように人間の力では対応できない自然現象を引き起こしている不思議な力がどこかにあるという考え方がありました。
アニミズムという西欧人が考えた言葉の定義とは少し違う考え方です。
(この言葉が持つ意味とニアンスの違いが混乱を招いています)
この不可思議な力を「かみ」と呼ぶようになりました。
この「かみ」なる不可思議なものが、機嫌を損ねると、天災や疫病を人間に及ぼすと考えました。
天災や疫病が起きると、御機嫌を直して貰うために、歌舞音曲を演じたり、お供え物を貢いだりしました。
予めこちらからお祈りをして何かをしてもらうという考え方は後の時代です。
一方で、人々が死ぬと黄泉という別な世界へ行くという考え方がありましたが、やがて目に見えない「たま」という考え方がでてきて、人々が死ぬとこの「たま」が集まって一つのものとなって山に住むという考え方がでてきました。
この一つになった「たま」を祖霊と呼ぶようになり、この祖霊が里人を天災から守ってくれたり、作物が豊かに育つようにしてくれると考えるようになりました。
人々がそもそも自分達はどこからいつやってきたのかということを考えるようになりました。
そして、一番古いご先祖様を「かみ」と呼びました。
ここで「かみ」という言葉に前文で説明しました災いをコントロールする不可思議な力である「かみ」と祖先である「かみ」との二つの概念が一体化した「かみ」が概念の上で出来上がりました。
この概念に人々が死んだ後に山に住むようになった「たま」の考え方加わりました。
この三つの概念を祖先を中心にして、一つの神話として語り継がれるようになったのが出雲神話とか古事記神話と呼ばれるものです。
災いを鎮めて豊作を保証してもらうことをお願いする儀式が、統治者の一番大切な仕事とされました。
政治を「まつりごと」というのはこの為です。
このお願いをして「かみ」の返事を聞くことができる人が「みこ」と呼ばれ大切にされました。
統治者の最高位の人間は、この遠い祖先から連綿と続く血筋の人であると主張するようになりました。
その人を天皇と呼びました。
祖先の「かみ」と類似の不可思議な力を持っていると看做されました。
このような祖先を中心とした考えの他に、災いをもたらす「かみ」を中心とした考えも、山に住む祖霊を中心とした考え方も残りました。
いずれも前記の三つの概念を統合していますが、どれを主体とするのかという違いです。
室町時代に従来の「かみ」の考え方について、仏教に真似て理論化して儀式などのルールを決めました。
このときに仏教とは区別するために神道という言葉が使われるようになりました。
この理論付けも人によってさまざまです。
両部神道・伊勢神道・吉田神道・垂加神道・復古神道などといろいろ名前がついています。
以上のような経緯からご質問への回答は以下のようになります
1番
名前は後からできたもので、考え方は古くからあり、三つの考え方を統合して仏教流の理論付けをしたものが神道です。
2番
神道という言葉はありませんでしたが、元になる考え方は古くからありました。
3番
前記しました三つの考え方です。
4番
言葉と理論が成立したのは室町時代です。
5番
「神道国家」という言葉の定義がよく分かりませんので回答は保留させて頂きます。
蛇足
日本では、仏教が伝えられた当初から外来の「仏」も古来の「神」もひと纏めにして信じて信仰してきました。
これを神仏混淆とか神仏習合と呼びます。
具体的な建造物や文書としてあらわれ理論づけられたのは平安時代以降ですが、受け取り方はそれ以前からありました。
明治政府が政治的な理由と目的でこれを無理やり分離峻別しました。
文化的には日本の歴史上最悪の愚行とされています。
結果として吉野熊野や出羽三山などの修験道が途絶してしまいました。
現在関係者の方々が復元継承に努力されておられます。
これ等の結果が現在の状態です。
お寺と神社の敷地が別になったのは明治以降です。
江戸時代までは一体で運営されていました。
現在でも僧侶が神官を兼ねている地域があります。
「靖国神社」というのも実態は、本来の仏教とも神道ともかけ離れた靖国教としか表現ができない代物です。
靖国神社を中心とした英霊への尊崇に対する評価とは全く別次元の話ですので誤解なきようにお願いします。
宗教という言葉も習慣的に使われている意味と学術的に使われている意味が異なりますので注意して下さい。
習慣的に使われている意味は、元々はキリスト教に基づいた定義が元になっています。
キリスト教の定義に従えば、日本の古来からの神道は宗教という区分からは外れてしまいます。
キリスト教圏の人達に向かって「私は無宗教です」と言いますと「私はあなたが信じている神の存在を認めません」という意味にとられますので、充分に注意して下さい。
分かり難かったかと思いますので、補足をお願いします。
お礼
こんにちは。 論文、感謝です。 特に『神道(じんどう)から神道(しんとう)の成立についての比較考察』は参考になりました。 ───ざっとしか読んでいない(ポリポリ)。長いんだもの─── 「わたしと似たようなことを考える専門家がいるのだな」などと思っておりやす。 ☆昔は、「しんとう」ではなくて「ジンドウ」だったのだろうか? ◇指摘を受けるまで気づきませんでしたが、 「ジンドウ」の方が古いと考えられます。 神を「ジン」、道を「ドウ」と読むのは、漢字の読みの呉音。 「しん」、「とう」と読むのは漢音。 ほいで、 日本の漢字の音は、一般的に呉音で、こちらの方が古い読み。 神祇(ジンギ)、天神(テンジン)ざんしょ。 漢音読みは、真言(宗)と深く関係があるんですよ。 真言(宗)はお経を漢音読みするんで。 漢音は、かなり特殊な読みなんですよ。 回答、ありがとうございました。
補足
わたくしの質問に多くの回答を寄せていただき、 皆様に深く感謝の意をあらわします。 神道について考える足がかりになる論文を教えていただきましたので、 この回答をベストアンサーとして選びました。