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いじめは悪いこと

高校1年生です。 宗教で800字のレポートを出されました。 「いじめは悪いこと」と中学生にもわかるように書いてくださいと言われました。 そして、宗教的視点も取り入れて書いてくださいと言われました。 実際にどんなことを書けばいいと思いますか? 宗教的視点がよくわからないので、教えて欲しいです。

みんなの回答

回答No.11

あなたの身の回りにある衣食住、あらゆる物が世界中から やって来ており、一人では生きられない。 人類は、分業化=助け合う社会生命へと進化している。 そこにおいて、誰かが高い能力を発揮するのは社会のため =全ての人のためになり、喜ぶべき事なのだ。 ところが、イジメにおいては他人を攻撃し、阻害する事で 満足感を得ようとする、個人間の競争意識が作用している。 分業化=個人の生の社会的拡張(相互依存)において、 そうした「拡張」を自覚化し、自律的に社会行動(愛= 助け合いとしての労働)をとれるだけの認識の深まりを 怠り、自己チューなまま他律的に社会行動をとらせるため の“お金や出世といった馬車馬の目の前のニンジン”を 発達させたのだ。 そうした「他律的=無意識」な社会行動は、意識的な 行動を短絡的利己にする。 それに対して社会的タガにはめるために、法規やモラル、 宗教は発達したのだ(お金がアメならこれらはムチ)。 宗教は、その発生のアニミズムにおいては、世界の起源 や死後についてなど、日常的認識で理解できないものに、 超自然な神を持ち込んで説明し、分からない事への恐れ、 届かない願いへの祈りといった事への心の安寧を得た。 それに対して、キリスト教やイスラム教、仏教といった 世界宗教が同時期に広まったのは、分業化の発達により 組織化が強化(規律の強化)&拡大(国家の発生)する 上で、宗教の持つモラル=社会行動の強制としての面が 応用されたからだ。 そうした自己チューな意識のままの他律的社会化は、認識 の深まりによる自律的社会行動(博愛による助け合い)に よる個体間の抗争の回避とは異なり、原始共産制の血族へ の肉親愛から、コミュニティへの郷土愛、組織への愛社心、 愛国心といった具合に、自己チューな意識の累積として、 その集団の外に対する一層苛烈な闘争心と、集団化される 事による更に残酷な殺戮へとエスカレートするものだ。 それは、国家間の戦争だけでなく、宗教間の対立も容易に 国家間の戦闘や内戦につながる。 むしろ、そうした外国との対立によって愛国心は高まり、 他宗教への攻撃によって信心は深まるのだ。 イジメも、特定の個人を攻撃する事で集団の絆を確認する 意味があり、その背景には先述のように自己チューなまま 歯車化(点取り競争&受験競争)される、個人間での競争 意識がある。 宗教も、他宗教への攻撃によって強化される点(仲間だけ の固執)で、イジメの一種だと言える。 イジメが悪い事なら、宗教も悪い事だ。

noname#207067
noname#207067
回答No.10

高校生のレポートには相応しくないから あまり書きたくないけれど、解脱という思想があります。 なんらかの基準で善悪を判断して、いじめを悪いことにしても、 宗教は善悪を超越しようとするのです。 下記にウパニシャッドというインドの古い書物を紹介しています。 要するにインターネットで外国人だとか地主だとか曹洞宗の学者だとか新聞記者だとかが 悪口を言ってきても、諦めるしかないのです。 ですから、宗教を批判するという視点もあるかと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 長いので誤字・脱字あるかもしれません。 ウパニシャッド ―翻訳および解説― 湯田豊 大東出版社 ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド 122ページから124ページ 第4章4・22 まことに、この大いなる、まだ生まれていない自己、これは、もろもろの生気において 認識から成っている。心臓の内部のこの虚空、そこに一切の支配者として、一切の主として、一切の君主として、 それは横たわっている。それは良い行為によってより大きくもならないし、悪い行為によってもより小さくもならない。 これは一切の支配者である、これは生き物の君主である、これは生きものの保護者である。これは、 こらの世界が混じり合わないように、これらを引き離す、土手である。 このものを、バラモンはヴェーダの読誦によって、祭祀によって、布施によって、禁欲によって、断食によって 知ることを欲する。まさに、このものを知り、彼は沈黙する隠者になる。まさに、このものを世界として求めながら、 放浪の禁欲主義者たちは放浪する。 ”この自己がわれわれのものであり、これが、われわれの世界である。われわれにとって 子孫は何の役に立つであろうか?”と考え、まことに、これを知っている古代の人々は子孫を欲しなかった。 彼らは息子に対する欲求、財産に対すをる欲求、および世界に対する欲求を捨てて乞食として放浪する生活を送った。 なぜなら、息子に対する欲求は財産に対する欲求であるからである。財産に対する欲求は世界に対する欲求であるからである。 なぜなら、これらの二つはまさに欲求であるからである。 これが、そうではない、そうではない、と言われる自己である。それは把握され得ない。なぜならそれは把握され得ない からである。それは破壊され得ない。なぜなら、それは破壊され得ないからである。それは無執着である。 なぜなら、それは執着しないからである。それは繋縛されず、揺らめかない。それは傷つけられない。 ”それゆえに、わたしは悪いことをした”、”それゆえに、わたしは良いことをした”というこれら二つ [の思い]は、まさにこの自己を超えない。むしろ、この自己が、まさに、これらの二つを超える。 なされたこと、あるいは、なされていないことは、この人を苦しめない。(57) 4・23 同一のことは、この讃歌によって言われている―― これは、あるバラモンの永遠の偉大さである。彼は行為によって増すこともなく、より小さくもならない。 これの足跡を人は知るべきである。それを知って、彼は悪い行為によって汚されない。 それゆえに、このように知っている人は静穏になり、自制し、活動を休止し、忍耐強く、精神を集中するようになり、 まさに自己自身(ātman)の中に(ātman)を見る。彼は一切を自己として見る。 悪は彼を超えない。彼は一切の悪を越える。悪は彼を焼かない。彼は一切の悪を焼く。悪を離れ、塵を離れ、疑惑を離れ、 彼はバラモンになる。 「これが、ブラフマンの世界である、大王よ!お前は、この世界に到達せしめられた」とヤージュニャヴァルキヤは言った。 「わたしは尊敬すべき人にヴィデーハ国、および同時にわたしさえも、隷属させるために与える」 [とジャナカ国王は言った] ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 註釈 (57)ここでもまた、善良のかなたにあることがウパニシャッドの理想として知られている。ウパニシャッドにおいて 重要なのは善悪の行為ではなく、アートマンという名の本来的自己を認識する行為[ウパーサナー]である。 モラルは超えられるべき何かあるものである。 631ページ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (4)特殊用語集 mokṣa [モークシャ] カルマンおよび輪廻からの解放。解脱。精神的解放 mukti [ムクティ] →mokṣa 703ページ

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.9

>宗教的視点がよくわからないので、教えて欲しいです。 おそらくは、すでに学んでいるのでこう言う問題が出るのだと思います。 学んだことを復習して、自分なりに考えてみることが大切だと思います。 でなければ、「君は一体何を学んできたのかね?」と言われてしまうほどの 頓珍漢な答え方になる可能性が大きいです。 ここの人達は、あなたの受けた授業を受けていません。 つまりは授業内容を全く無視した答えばかり書くことが多くなります。 それでは授業を受けたことに意味がない回答になります。 そして問題を出した先生の意味も無くなるでしょう。 自分で考えて、自分で答えを探すことに一番の意味があるのですから。 人に答えを出してもらって、それに便乗するのは自ら考えることを放棄し 自分で考える力を持つ大人になってもらいたいと言う指導と逆行します。 回答の内容より、回答に至る過程の方が大切なのです。 復習して、よく考えてみることをやってみてください。 アホアホな大人にならぬよう、願っています。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.8

仲間内で消耗し合う事に、意味が在りますか? ちっぽけな自尊心の充足以外の意味が存在するとは思えません。 現在の中学生の知的レベルを、社会がどの様に解釈しているかは知りませんので、理想の答えを教授する事は私には適いません。 しかし原因の解決も出来ないレベルの人間が、答えを教え子から得ようと言うのも、噴飯モノですねW 「いじめは悪いこと」 其れを教える為の教育なのに・・・ 貴方に限りない哀悼と同情の意を捧げます・・・・ 教師には、幼児の時から教育しなければいけない問題を、文学として教えても無意味だとは理解出来ないのでしょうね。

  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.7

普通の人間は直感的に暴力は良くない、とか弱い人間を理由もなくいじめるのは悪いことだと分かっているのですが、そういったレポートの宿題が出るということは、そういった善悪が分からない、あるいはそういった行為がある意味快楽につながることが分かってしまった人間(時別な一部の中学生?)に対して説得力のある論文を書く必要が生じているということなのでしょう。 そういうことなら、確かに「宗教的視点」が必要になってくるかもしれません。宗教というのは、誰にも文句のつけようのない絶対者(神)を基準において、それに皆を有無を言わさずに恭順させることと考えていいと思います。最近読んだ(最中ですが)内田樹というひとの教育論では、学校でもどこでもですが、人を教えるということは、必ずそういった観点が必要だ、ということが書かれてあります。人を教える、ということはその人をある意味全人的に恭順させることであり、そのためには教師は絶対的な存在でなければならないということです。 少なくとも「いじめは悪いことだ」とあくたれ坊主に納得させるには、確実にそういった絶対的な基準を示して、その子供を心から恭順させる必要があると思います。 がんばってください。

回答No.6

>宗教的視点も取り入れて書いてくださいと言われました。 >宗教的視点がよくわからないので、教えて欲しいです。 その条件、おかしいと思うが仕方が無い。 あまり度直球に考えず、自分の信念的な意味の「信仰や宗教」と言う観点で書いたらよいのでは?「法律違反で捕まらないからよいと言う問題ではない。何故ならそれは人の最低限の~」みたいな、法律で犯罪じゃないからいじめは良い、悪いの問題ではない。と言う否定で、肯定は自分の信念や信仰、あるいは宗教的理由で肯定する。 これを、「宗教的視点」と言う意味なんじゃないかと思いましたが、その出題者に聞かないと分りません。 はっきり言って、度直球に考えても厳しいです。例えば、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と言う言葉、日本人はこの言葉の意味や歴史背景を無視して、文字だけを読んで文字通り解釈するが、それは間違い。本当はこの言葉はそう言う意味じゃない。いじめを否定する理由にも使えない。 と言う事で、度直球に考えると、いじめを否定する宗教の教えはかなり少ないと思う。 かなりの、宗教的知識がないと答えられない気がします。なので、「宗教視点・・・うーん」っと、あまり直球で考えないで、自分が思った事書けばよいかと思います。

回答No.5

宗教の時間があるというのですから、 宗教系の高校なんでしょうかね。 隣人愛の観点から書いてみるといいんじゃないでしょうか。 ここなど、参考になると思います。 http://www.believers.org/jp/jbel208.htm 特に、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」なんて如何がでしょう。 あるいは、 宗教ではないかもしれませんが、孔子の言葉に 「おのれの欲せざるところを人に施すことなかれ」 というのもあります。 http://kotowaza.avaloky.com/pv_fre21_01.html 自分がされて嫌だと思うことは、他の人も同じように嫌だと思う。 この筋にそって書いてみてはいかがでしょうか。 さらに、 「すべての人は皆平等なのだ」 ───キリスト教的な表現をするならば、すべての人は神の前で平等なのだ、とか─── まで発展させられば、申し分ないのだろうけれど(ポリポリ)。 まっ、そういうことで。

noname#209756
noname#209756
回答No.4

いじめって危害をあたえてますよね。 共同体を維持するため異物を排除したり、椅子取りゲーム感覚でマイナスなことです。 また宗教といっても、日本人でも仏教を信じる人もいれば、キリスト教を信じる人もいます。人によって、道徳体系が違ったりして、そこが法律を作るときに一つのポイントにもなるようです。 裁判官は法律でさばきますね。人がさばくのは機械的に判断できないからだそうです。 害悪の中で、法律に違反していたら犯罪になります。 難しい話ですが、ロールズの「正義の状況」などそういう論点と聞いてます。 正義論は哲学で、一つの議論になります。

noname#221368
noname#221368
回答No.3

 宗教的視点ですか。何故そういう条件が付いたかわかりませんが、それは、あなたが通ってる高校がそうだからなのですか?。しかも800字っては、けっこうつらいね。  宗教があろうとなかろうと、それを信じようとそうであるまいと、「いじめは悪いこと」なのは明らかです。  思いの丈(たけ)を、そのまま書けば良いと思います。

回答No.2

 こんにちは。  二点 考える材料を書き込みます。  ひとにとって《わるい》ことというのは その人の意志を踏みにじることです。  心をないがしろにすることです。これが 基本です。  誰れもが 意志の自由にもとづき生きているからです。この自由が互いにひとしいので 平等という考えが 無条件にみとめられています。  宗教ですが これは 基本的に言って オシエです。  どういうことかと言えば たとえば《わたしは ひとを――他人をにしても自分をにしても――無きがごとくにすることは しない。いのちのかぎりでこの行き方を守りたい》という人がいたとき そうだとしても・それにもかかわらず 《なんぢ ころすなかれ》という規範――オシエですね――をあなたは受け容れなさい それによって生きるようにしなさいと教えからかす手合い。これが 宗教です。早く言えば 底無しの阿呆です。  意志の自由は おそらく 信教・良心の自由から来ていると思われます。つまりは 個人一人ひとりの《信仰》です。それゆえ 一人ひとりの自由意志がとうとばれます。  信仰も ひとは人をころさないと言い 宗教は なんぢ ころすなかれと説く。同じではないか? と言う人がいますが 同じではありません。  宗教なるオシエは 信仰なる蝉の抜け殻です。蝉本体こそが 飛んだり鳴いたりして生きますが 抜け殻は 死んだ骸(むくろ)でしかありません。抜け殻を大事にしなさいと説くのは ほかの人たちより上に立ちたいという欲望から来ています。また お金儲けという目的もあります。  宗教的視点というのは 上から目線のことです。しかも余分なことを説教したいというやからの集まりです。  なお こういう内容であれば 学校教育では 確実に零点なのですが。・・・

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