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偶像崇拝に対するアルケーの神の戒め
「わたしはあなたがた皆に言っておいたはずである。 万物の根源、宇宙の法則であるアルケーを除いて如何なる神も存在しないと。 それで何故あなたがたは十字架を作ってこれを拝んだりするのか。 またお題目なるものを紙に書き、これをご本尊などと称して拝んだりするのか。 それで、あなたがたは神をいったい誰とくらべ、どんな像と比較しようとするのか。 あなたがたは知らなかったのか?あなたがたは聞かなかったのか?はじめから、あなたがたに伝えられなかったのか?地の基をおいた時から、あなたがたは悟らなかったのか?」 あなたがたが行っている偶像崇拝に対しアルケーの神はこのように戒めています。 あなたがたはそれでも偶像を拝むのですか。
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- 0fool0
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まぁ、良いんですが・・・ 君の言い方は「俺だけが知っていて、俺、すげぇ!」 ・・と、言っているだけなのですよね・・
- kurinal
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>「あなたがた皆」 ?
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
人の道さま、こんばんは。 >「あなたがたはそれでも偶像を拝むのですか。」 そういうことも、あるようですね。
- NemurinekoNya
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こんにちは。 わたしは、 神仏の像や、神の宿りとされる石ころや鏡を拝むことに対しては、 必ずしも反対じゃないんですよ。 祈りの形、形式として、それはあってもいいと思います。 形が何ももないと、入りにくいので。 そして、 その祈りの形は尊重すべきだとも思っています。 ただ、 神仏の像や、石ころ、鏡を神さまそのものと考え、 それを拝むことはおかしい、と思う。 ですから、 ブラゲロの言葉で言えば、 《補助線》としてならば、神仏などの像はあってもいいと思います。 大体、 アルケーや宇宙の法則という言葉も《補助線》だしね。 《アルケ~本願》もね。 この言葉や観念に捕らわれると、 それは、形を有さない、新たな偶像を作ることになる。 これも一種の偶像崇拝なんですよ。 広義の偶像崇拝であり、あらたな偶像を作ること。 まっ、そういうことで。
お礼
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