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宗教の教えの通りに生きたらこの世ではどうなりますか?

誤解のないようにお願いします。私は両宗教を心から信じております。 ただ疑問があるので、多くの方のご意見を伺いたいのです。 キリスト教や仏教の教えの通りに生きるのは、天国に貯金をするとのことです。 大変素晴らしいことですが、現実社会でのことを考えてみた場合… 例えば教えを完全に実行したとして、 「右の頬を打たれれば左の頬を向けよ」「下着を取らんとする者には 上着もあげよ」とか全てその通りにすれば、この世では、 身包みはがれてしまいませんか? 天国に行くためにこのような行動をとると、現実社会では生きて いけない、あるいは生きづらいのでしょうか。つまり、一番分りやすい例として、 人々を救うために生きられたキリスト様は処刑されました。 この世では一番不幸な結果になられたわけですよね。 だとすると、一番大きな愛を施したら一番大きな幸せがお返しにくるというような ことがよく言われますが、逆ではないですか? 変な話、世の中で成功してる人って、表向きには 正義の味方を装っていても、実際はグレーなこともたくさんしてて、 二枚舌みないな人が多いです。某電話会社とか、政治との癒着が 疑わしくて海外線に比べて不当に高額な運賃の航空系企業とか… つまり、一方では「愛とか正義」とか言いながら、法に触れない ぎりぎりのゾーンで儲けたりして「うまく世渡り」してる人らが この世での成功してるように思えます。 「愛」だけでは生きていけないのがこの世で「金」が同じくらい必要 ですよね。つまり後者は「弱肉強食」「商売という名の殺し合い」という 人もいます。「愛」とはほど遠いですよね。 ということは、宗教の教えで「愛こそすべて」的に生きていたら 身包み剥がれてしまうか、成功できない、あるいは成功しにくいってことになりませんか? 宗教というのは、例えば出家するとかの人でなければ、参考程度とか 座右の書のようにしたほうがいいということなのでしょうか。

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noname#105938
noname#105938
回答No.6

「死」は確かに次の生命への、ある意味では通過地点です。 基本的に今の基本的にもてはやされている宗教は 「死後の世界のために今生きている現在、イイコトをしておきなさい」と言うのが通例です。 でもそれは、実は大きな間違いでだから日本の社会は「自殺」が諸外国に比べてとっても多いのはそのせいのようです。 今生きている現在、幸せにならなければ「イイコト」もしようがないのです。 ええと、質問者様の考える神教や仏教を純粋に維持して、教えどうりに生きていたら質問どうり生きてはいられません。 世の中を捨てて、出家するか厭世するしかありません。 「愛」を掲げて「汝の敵を愛せ」という神教がなぜ、カトリック、イエズスなどに別れて、十字軍や悲惨な宗教戦争を起こしたのでしょう。 実は空想ばかりの身がない、実用性のない教えだと言うことがわかりますよね。現に神教は「教え」どうこうよりボランティアやヨーロッパの美しい教会の結婚式場で稼いでいる、宗教としての本質は失われているようです。 人間は生きるためには少しは汚れることもあります。 それは仕方のないことです。しかしそれを認め今現在、生きている私たちが幸福によりよく生きることを教えてくれるのは法華経です。 いろんな曼荼羅やお経はたくさんあるのですが、それ法華経ができる以前の教えなので今の生きている私たちに合わせてお釈迦様が説いてくれているのはただ一つなのです。 宗教に少々興味のあるようでしたら、研鑽するのも手ですよ。

kileine
質問者

お礼

法華経ですか。。。今度ぜひ調べて勉強します。 すごく興味あります。とても参考になるアドバイス、 どうもありがとうございました。感謝いたします。

その他の回答 (5)

  • morinosa11
  • ベストアンサー率15% (199/1253)
回答No.5

こんばんは。 真摯に疑問に感じておられるようですので「私なり」の感想を書かせて頂きます。因みに私はキリスト教では有りません。仏教徒です。 >「右の頬を打たれれば左の頬を向けよ」「下着を取らんとする者には 上着もあげよ」とか全てその通りにすれば、この世では、 身包みはがれてしまいませんか? そんなことは有りません。 心の底から相手のことを思い行動を起こせば、必ず別のところから (奪われた下着や上着以上の)下着や上着が別のところからあたえられます。愛は充ち満ちていて充満してますから。 >人々を救うために生きられたキリスト様は処刑されました。 この世では一番不幸な結果になられたわけですよね。 一般の人が見ればキリストの死は「悲惨」に見えるかもしれませんが それは「一般の人」が見た目だからです。 キリストは悲惨な死に方をしたように見えますが、ご本人は御自分の死に方を「悲惨」とは思っておられなかったと思います。 彼には肉体の死は死ではないからです。 また私たちに肉体を超えた尊い愛があることを教えておられるのだと思います。 >だとすると、一番大きな愛を施したら一番大きな幸せがお返しにくるというような ことがよく言われますが、逆ではないですか?   私はキリスト教ではないので間違ってるかも知れませんが、 キリストの磔は「人はこのようにして死んでいくもの(肉体)ではなく、肉体を超えた「愛」である、、、、と教えておられるのではないでしょうか? >変な話、世の中で成功してる人って、表向きには 正義の味方を装っていても、実際はグレーなこともたくさんしてて、 二枚舌みないな人が多いです。某電話会社とか、政治との癒着が 疑わしくて海外線に比べて不当に高額な運賃の航空系企業とか… これは質問者さんの「成功した人」という見方が間違ってるのだと思います。お金を儲けることが「成功した人」では有りません。 (世間一般の目でみれば成功した人かもしれませんが) >愛だけでは生きていけないのがこの世で「金」が同じくらい必要 ですよね。つまり後者は「弱肉強食」「商売という名の殺し合い」という 人もいます。「愛」とはほど遠いですよね。 ということは、宗教の教えで「愛こそすべて」的に生きていたら 身包み剥がれてしまうか、成功できない、あるいは成功しにくいってことになりませんか? 質問者さんの「愛」の概念が違ってます。 表面的な愛で考えると質問者さんのような考えも出てくるかも知れませんが、本当の「真の愛」キリストが説く愛は このようなケチな愛では有りません。 真の愛は充ち満ちています。 また、そこには不幸は現れて来ません。 一見 奪われたように見えるかもしれませんが真の愛があった場合 奪われたもの以上のものが与えられます。 しかし、だからといって質問者さんのような考えが根本に有る場合、 「愛が充ち満ちてるなら下着も上着も奪われても平気だ」と安直に 油断をすると、根本にある  (全てその通りにすれば、この世では、 身包みはがれてしまいませんか?)という思い通りのことが 現れてまいります。 信じるなら100%信じ「きる」ことが重要です。 この世は「自分が思った通りに現れる世界」ですから。

noname#140111
noname#140111
回答No.4

キリストは処刑されたからこそ、その名を後世に残しました。 悲劇的な最後を遂げた人ほど強烈な印象として人の心に残ります。 キリストは神に使わされた宣伝係ですから・・・彼はどうしても権力者によって迫害され殺されねばなりませんでした。 そして、死からの「復活」という奇跡によって神の力を絶対的なものにしたのです。 つまり、どんな迫害に会おうと権力には決して屈しないキリスト教徒の精神のよりどころがそこにあると思います。 で・・・・あなたは天国に行くために神の教えを実行するのですか? 私は、宗教の教えは「人類の知恵」だと思っています。 個人が天国に行くための方法ではなく、人類が破滅しないための、人間同士の争いのストッパーになるものだと考えます。 ご存知のように、 人類の歴史は他者との争いの繰り返しです。 自分の民族を守るため、国の利益を広げるために人々はずっと闘ってきました。 これは東西問わずどの国でも同じことです。 そしてその結果、多くの憎しみが生まれました。 人は憎しみに駆られるとどこまでも残忍になれる生き物です。 怨恨がらみの殺人は残酷なものが多いでしょう? 拷問や報復のための大量虐殺・・・他の動物では考えられないことです。 「愛」を説く宗教は、まさにこの人間同士の憎しみあいをいさめるためのストッパーだと思います。 宗教が存在しなければ人間はお互いを殺しあって滅びてしまうでしょう。 私が若い頃には、アメリカとソ連のにらみ合いが続いて、あわや核戦争か?ということもありました。 今では考えられませんが、当時は第3次世界大戦が起こるんじゃないかと本気で信じてたんですよ・・・ 人間は善の塊ではありません。 ですから、愛のために自らを捨てることはなかなかできるものではないし、神はそれを要求してないと思います。 ただ、誰の心にもちゃんと神の言うところの愛が存在し、何が正しいかを教える存在として機能している。 それは疑うところのない事実です。 迷った時にはその声に従えと、そう教えているような気がしてなりません。 つまり宗教とは、人間がこの先もずっとこの地上で生きて存在するためにあるのではないでしょうか。

kileine
質問者

お礼

人間同士の争いのストッパーということですね。 大変よく分りやすく思いました。同様な考え方の方が 大多数だと思いますが、とても参考になりました。 アドバイス頂きまして、どうもありがとうございました。

  • juin21
  • ベストアンサー率48% (88/182)
回答No.3

難しいですね。私は無神論者なので何とも言えませんが。そうした教えをストレートに受け取り行動する方ばかりではなく、一度ご自分の心の中で噛み砕いたものを支えにして行動されている方もいらっしゃるのではないでしょうか。 出家=プロの宗教家を目指すとは、おかしな言い方かもしれませんが。質問者さまは、こうした教えはそれを目指す一部の方々が消化でき、且つダイレクトに実践されているのであり、ご自身を含め一般の信者さまは、のめり込むことなくサラりと受け止めておくべきか?で、お悩みなのですね? 質問者さまがこの信仰を始められてから、どれぐらい経たれておいでなのかは存知あげませんが。信仰へのスタンスをここで改めてしっかりと、ご自身で位置づけをなさり、把握しておく時期を迎えられたことで生じている戸惑いのようにも感じられました。 知識不足で恐縮ですが。ハンムラビ法典でしたでしょうか、「目には目を、歯には歯を」の教えは。この言葉が今、急に脳裏をかすめ…。混沌と、人々の心が枯渇している今の世を往くにあたり、この言葉は鋭く刺さってくるような気がしまして。。。。。回答になっていず、誠に申し訳ございません。

kileine
質問者

お礼

アドバイス頂きましてどうもありがとうございました。 参考になりました。感謝いたします。

  • shizumo
  • ベストアンサー率12% (159/1285)
回答No.2

当然そうなりますね。 しかし、全ての人が宗教の教え通り行動するとそうなりません。 宗教の教えの通りに ふつうは盲信するといいます。

kileine
質問者

お礼

アドバイスありがとうございました。 参考になりました。

noname#121042
noname#121042
回答No.1

何と言うか・・長くなってしまいそうなので、最後だけお答えします。 宗教は自分を知るヒントです。時には癒しや心の拠り所にもなりますが、本質は自己分析のツールです。 宗教をどう位置づけるかも質問者様が決める事です。 まず宗教を勉強してみて下さい。学問としてではなく、実際に説教や法話を聞いて触れることで、質問者様の質問は解決します。 望まれた回答でなくてすみません。

kileine
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 自己分析のためのツールですね。。。よく理解できました。 ありがとうございました。

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