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日蓮の教え

  人の道という視点からこれについて少し考えてみた。 結局のところもともと邪教であったが故にカルトに乗っ取られたと考えるべきか。 あるいはもともとは邪教ではなかったがカルトに乗っ取られた結果邪教になったと見なすべきか、いずれであろーか。 やはりもともと邪教であったが故にカルトに乗っ取られたと考えるべきではないだろうか。 何故なら正しい教えであればカルトに乗っ取られる訳はないし、またカルトが正しい教えを乗っ取ろうなどと考えることもあるまい。 カルトが乗っ取って居心地が良いと感じるのは邪教以外ないからである。  

みんなの回答

回答No.11

肉食妻帯はいかんよ。仏教を逸脱しておりますがな。

hitonomichi33
質問者

お礼

  > 肉食妻帯はいかんよ。仏教を逸脱しておりますがな。 全くでございます。 ところが日蓮系カルト教祖の中には肉食妻帯をとっくの昔に通り越し、長年に渡り強姦魔として暮らしておる者もいるらしいです。  

  • titelist1
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回答No.10

「人の道」さん 人間は群れで生き延び、その群れの中に縄張りを持って生活してきました。その術として協調性と自主性を身に付けています。人間はその資質を生まれながらにして身に付けていると思っています。貴方が人の道とおっしゃっているものに近いものだと思います。そのことが出来ていない人もいますが、群れから離れたり、自立する力がないためです。宇宙を知らない子供でもその資質はすでに備わっていると思っています。不幸にもそれが出来ない人は本来の道に戻してあげれば良いのです。 「眠り猫」さん すでに書いたように法華経の境地は目線の高さにあります。悪く言えば人を見下ろす上から目線です。私はこのことが割と心地良くも感じるのです。子供のころから学級・級長で、最近まで上場会社の役員でした。出身の国立大学で化学の客員教授として仕事の合い間に教鞭も取っていました。 自分の生活が宗教に深く係わっていなので信心は弱いのですが、宗教には寛容さが必要と思っています。寛容さを失うと自殺行為になってしまいます。「眠り猫」さんは良く知るがための反発心があるようですが、寛容さも必要と思います。僧侶や教祖は生活が掛かっているのですから反論もします。人に反感を持っても疲れるだけですよ。

回答No.9

法華経の攻撃性は、 方便品第二の増長慢の比丘に対する記述を始めに、 至るところで見ることができます。 ―――法華経、よく知っていますから、わたし(ポリポリ)――― 方便品第二のお釈迦様は 「あんな高慢な奴らはいなくなってよかったんだ。これから真実の教えを説くぜ」 なんて仰っていますよ。 シャーリプトラも 「そうそう、あんな奴らいなくなった方がいいんです」 みたいなことを言っていますよ。 さらに、 「法華経を信じる者は、他の人々から攻撃される。これは法華経こそが正しい教えだからである。そして、これは法華経に予言されている」という《法難のロジック》、 これ、 日蓮を筆頭によく使いますよね~。 弾圧されればされるほど、自分は正しい、と確信する。 これが問題。 この《法難のロジック》、キリスト教で言えば、《受難・殉教のロジック》、 これは人を思考停止に至らせる、非常に危ない論理、ロジックです。 過激に走れば走るほど、自らの行いの正当性を確信させるものです そして、 このロジックの罠に自身がはまって、そこから抜け出せなくなってしまう。 祖師批判が必要なんですよ。 祖師に対する冷静で客観的な批判が。 そして、 この批判に耐えうるものでなければ、それは教えとして信じるに値しないものだ、 と、 わたしは考えますが、 如何ですかね~。 そして、 祖師たちなどの教えから離れ、 法華経を素直な心で読むことが重要だと思います。 法華経と祖師・日蓮、どっちが偉いんですかね~。 IKEDAなんかは論外ですが。

  • titelist1
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回答No.8

No.4です。  人道宗とは質問者のお考え「人の道」を茶化してつけたものです。単なる駄洒落です。 法華経はよく出来た仏典だと思っていますが、出来の悪い自分が父親に叱られているような感じがあります。このことが攻撃性と言われる原因だと思っています。父親も厳しかったです。子供の頃に勉強が分らなくて泣くと、優しく慰めるのではなく、今の内にもっと泣いておけと叱られました。

hitonomichi33
質問者

お礼

わたしはまず宗教の前に人の道があると思っております。 宗教などよりもまず人の道がなければなりません。 日蓮もその教えを乗っ取ったカルトも神や仏のことは熱心に説きますが、人の道が何たるかは何も説きません。 人の道においては神や仏などは語る必要はないと心得えます。 ただ我々がこの世界に対し謙虚であり礼儀正しくあるためには、宇宙の偉大さを知ることが最も重要であると心得ます。 そして人の道においては他力本願でもなく、自力本願でもなく、唯一つ有瑠慶本願だけが人を正しい方向に導く教えであると心得ているのです。  

回答No.7

 こんばんは。  もう書く気がそがれる。  自己催眠の壁が 思考をさえぎっている。  非思考の庭は 思考する・しないとは何の関係もなく チカラとしてはたらくという想定だと何度も言って来ている。  あたまがはたらかなくなっている証拠です。  つまり 日蓮も S 学会も 聞く耳を持たないという状態へと自己催眠をつづけている。というもの。  また 寄ってみる。

hitonomichi33
質問者

お礼

  > 非思考の庭は 思考する・しないとは何の関係もなく チカラとしてはたらくという想定だと何度も言って来ている。 非思考の庭に入るにはどうすればよいだろうか。 一番手っ取り早い方法はヤクである。 麻薬、覚せい剤、マリファナなどを打つのである。 すると脳内の思考回路は遮断され、一時的にではあるが非思考の庭に入ることはできます。 また荒修行を行う方法もあります。 更にカルトが用いる洗脳という方法もよく用いられる。 これらについては既にテレビや新聞などのマスメディアから詳しく報じられているので分かると思います。 結局非思考の庭とは以上述べた様々な方法を用いて脳内神経を痛めつけ破壊することにより辿り着くことのできる心の居場所と考えればよいのです。  

回答No.6

ちょっとNO5に補足。 NO4さんが最後に 「釈尊の苦難の生き方と日蓮の苦難の人生が重なって見えるからです。」 と書いているでしょう。 法華経や法華経を信じる人たちは、 法華経を信じる人は弾圧を受けるのだ、 というロジックを使う。 そして、 そうした予言をしている法華経はやはり正しい、 と確信し、その信仰を深くする。 NO5に書いたとおりでしょっ。 キリスト教が弱小だった時にも、 これと似たようなことがあったんだけれど。 キリスト教を布教する→弾圧を受ける→イエスの受難と自身を重ね合わせる→キリストは正しい→信仰を深くする→キリスト教をさらに熱心に布教する→さらに激しい弾圧を受ける→自分が磔にされる→その姿を見たキリスト者は、さらに信仰を深める→布教する→弾圧→ というループを繰り返す・・・。 そして、この受難者は《聖人》と呼ばれる。 ちなみに、 《人道宗》などは存在しません。 存在するのは、《アルケ~教》、《アルケ~の道》でございます。

回答No.5

現在は政治的な弾圧を受けていないので、 日蓮の教えは邪教ではなくなった。 しかし、かつては邪教とみなされ、政治的な弾圧の対象になり続けた。 急進的な一部の人々は政府の転覆などをはかったこともあるので、 悪名高き「オウム真理教」と大差ないと批判されても仕方がないであろう。 しかも、 日蓮系の教えの根本となる法華経というお経を作った集団も、 法華経の本文を見る限り、 古代インドで何度も激しい宗教的な弾圧を受けた形跡がある。 お経を作ったのが、そもそもカルト的集団だからな~。 したがって、 日蓮系の諸集団は、法華経のもつカルト的遺伝子を引き継いでいる、 ということもできる。 日蓮を始めに、日蓮教の信者がカルト的なのは、法華経というお経がカルト的面を色濃く有しているからでさぁ~。 法華経は、 これを信じないやつは一番ひどい地獄に落ちる、 運よく犬に生まれ変わったとしても、ひどい皮膚病を持っていて人からぶたれる、 人間に生まれ変わったとしても、さまざまな身体的障害を有して生まれ、仏教に触れることがかなわない と脅す。 そして、 このお経を信じろ、 と迫る。 法華経の無限の功徳をとき、 さらに入信を迫る。 カルトの入信の手口そのまんま(笑い)。 法華経という経典が、そもそもカルト的な経典なんでさぁ~。 だから、 無反省で熱心な法華経信者ほど、排他的で、カルト的になってしまう。 その意味で、 日蓮は自身が言うとおり《日本一の法華経行者》であった(ニコニコ)。 時の政府や人々から、迫害や弾圧を受ければ受けれるほど、 法華経とそれを信じる自分こそ正しい、 ということを確信させる、麻薬のようなお経なんで、 法華経は。 わたしは、これでも、かつて、 この哲学カテのとある質問の中で、 法華経の有するこの排他的一面を取り除こうと、 何度も努めたんですよ。 法華経の融和的な一文などを盛んに引っ張り出し、 少しでもましなものにしようと努力したんです。 精一杯、努力したんです。 「このように考えられたら如何ですか?」とサジェスチョンしたんです。 そしたら、 日蓮系のお坊さんやS学会のエライ人(?)から、 「お前は間違っている」 と怒られた。 で、 わたしは、匙を投げた。

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.4

私の家の宗派は日蓮宗なのですが、仏教を理解しようとの気持ちで宗派にはこだわりません。創価学会や立正佼成会や霊友会のことをカルトと決め付けて非難されていますが、私にはそのような気持ちはありません。宗教と政治は切り離せないものだと思っています。日蓮宗の人の中にはこれを非難する人もおりますが、このような人は他宗派も非難しています。 実は日蓮も他宗派を熱心さのあまり非難しています。念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説と暴言を吐いています。その一方で念仏への対抗心でお題目を唱えさせます。 日蓮は賤民と言われた漁師の子で、上級階級への反発心も強かったのです。自分の教えに自分の名前を付けるのですから恐れ入ります。あの空海ですら空海宗とは言わなかったのです。人の道さんも人道宗と言えないのですから、負けてますよね。 日蓮は健康な両親の元で育ったので教えに明るさがあるのです。この世はすべて空しいなどとは言わないのです。日蓮宗が現世ご利益と言われる所以です。幼少期に武士であった父を殺された法然のような暗さが無いのです。親鸞は公家の子です。 「立正安国論」のような政治的過激思想も前述3教団の根拠にもなっているのです。仏教が多くの宗派に分かれたように日蓮宗も多くの門流に分裂しています。各種仏典の存在と同じで「妙法蓮華経」の解釈にもいろいろあるのでしょう。 親から引きついだ日蓮宗ですが、反発する気持ちはありません。釈尊の苦難の生き方と日蓮の苦難の人生が重なって見えるからです。

hitonomichi33
質問者

お礼

  ありがとうございます。 >宗教と政治は切り離せないものだと思っています。 これについては政教分離という理念が存在します。 そして政教分離の理念に従い、政治と宗教は分離すべきものであると考えるのが一般常識的な考え方であると見做されています。 >実は日蓮も他宗派を熱心さのあまり非難しています。念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説と暴言を吐いています。その一方で念仏への対抗心でお題目を唱えさせます。   一つの疑問。 もしも宗教が他の宗教を卑しめたり避難したりすることが当たり前になったとしたら、この世の中は一体どんな世界になるでしょうか。 仏界に近づくでしょうか、地獄界に近づくでしょうか、いずれでしょうか。 それともそのようなことは宗教の感知することではないのでしょうか。  

回答No.3

 こんにちは。  あなたは ただ自己催眠をかけているに過ぎない。  と分かった。  窮地に落ち入ったときにだけれど それが いつも本籍地になっている。  この催眠から自由にならないなら 思考が・ふつうの思考が ままならない。  思考が停止した時点で 話し合いが成らない。  過去の話し合いの蓄積も みな泡と成って消えてゆくみたい。   statuvolism; artificial somnambulism  日蓮も そんなもんだ。  

hitonomichi33
質問者

お礼

  こんにちは。 >あなたは ただ自己催眠をかけているに過ぎない。 自己催眠にかかった人間は疑問なんて持ちません。 >思考が停止した時点で 話し合いが成らない。 思考が停止したら非思考の庭に引きこもっているんではないでしょうか。 私は非思考の庭に引きこもりたいとは思ってません。 >過去の話し合いの蓄積も みな泡と成って消えてゆくみたい。 泡と成って消えていった訳ではありません。 その話し合いによって、わたしはあなたの頭の中、思考方法などがおよそ分かったのです。 人はそれぞれ脳みその構造が違うってことが分かった。 だから非思考の庭が必要な人もいれば、必要でない人もいる。 皆が同じことを考える必要もないってことです。 今はこのような心境でいます。    

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.2

そういうのは、人に任せたほうが、いいかも?

hitonomichi33
質問者

お礼

  ここは哲学カテなんだから通り一遍の話はしておかないとね。  

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