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アーティスト
アーティストとは自己満足のために作品を造る人のことだとして、大衆ウケを狙う人はアーティストではないとします。 となるとアーティストの作品は他人には理解しえないと思います。 どう思いますか。
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- moto_koukousei
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花鳥風月や自然現象を眺めても、似たような理解をし似たような感情を持ったということがあります。 もちろん、全く違う理解をし感情をもつ場合もあります。 テレビや映画、アニメでは、通常人間や動物が登場し何らかの筋で動き、そこにドラマのようなものを出現させます。 制作者の意図がどのようなものであれ、成人100人の鑑賞者が同じ感覚を感じることはないです。おそらく、10以上の異なったタイプの感覚を得、評価をします。 学校の先生が生徒に理解させることを目的に授業を行っても、まともに理解する生徒の他に、全く誤解曲解する生徒もいます。 映画や音楽でも、視聴者の理解は様々でひとつの方向を示しません。 雲の形を見て色々のものに見立てるのは多いですし、高名な小説家でも、壁のシミをみて感慨に耽ることもあります。 http://okwave.jp/qa/q3526371.html となると、大衆受けをねらって作品を作っても一顧もされないこともあるし、自己満足で詩歌作陶しても高い評価を専門家から受けることもあるのは当然です。 作家の存命中はほとんど評価が得られず、忘れ去られたというよりも知られることもなく生涯を終えたが、死去後時期が立ってから、高名な評論家や鑑賞者の激賞を受けて一挙に普及し、広く社会で賞賛されるようになる作品もあります。 自分にはとても理解できない作品があったり、駄作、幼児的作品と思えるものが世評を受けていたり、自分が高い評価を与え比類なきほどに素晴らしいと思うマイナーな作品もあります。 「他人には理解し得ない作品」というのはとても珍しいでしょう。 文字で書く文芸作品の場合には、その文字が読めない、文章として読むことが出来ないというような場合は他人には理解し得ないということはあるでしょう。 しかし、工芸品のようなもの、映像作品、音響的作品の場合は、理解者の数の多少ということはあっても、どんなに独善的、孤立的、超越的、破壊的であったにしても、他人には理解しえないことはないと思います。 逆に、任意の成人1000人のうち800人もが理解するような作品というのはないのではないかと思います。どんなに狂信的に受け入れられる場合でも、任意の成人1000人のうち400人もの人が似たような理解をするということもあり得ないと思います。 高校入試の長文読解問題を対象にした場合でも、その高校に入学して2年間学びこれから大学入試にチャレンジしようとしている生徒でも、100人の長文文章理解、鑑賞のポイント評価は、様々に分かれていると思います。 内発的動機で作品を作ろうと頑張っている人の場合、それがどのような分野であり、目指しているものがなんであろぅと、他人が頑張っているそれなりのレベルになった作品には、それが自分の目指している方向とは違っていても、結構素晴らしさが感じられることは多いと思います。 自分が内発的動機で頑張るタイプではない場合には、自分にフィットするように作られた作品でないと楽しめないということはあるでしょう。 内発的動機で頑張るタイプではない多くの人は、外部的刺激や評価流行を気にすることが多く、そういう人々のウケをねらうのを「大衆ウケを狙う」と称するなら、そうした大衆ウケネライの作品をどうにも好めない人も、100人の成人中10人はいると思います。
>アーティストとは自己満足のために作品を造る人のことだとして、 かもしれませんが、何かを表現して人に伝えたい人もいるんじゃないでしょうか。 人に伝えたい、誰かに表現を見てもらいたいと思わなければ、発表しなくたって良いのですから。 >となるとアーティストの作品は他人には理解しえないと思います。 伝わるものと伝わらないものがあるし、それは作品と鑑賞者との相性もあると思います。 評論家は言葉でその作品の評価をしますが、一般の鑑賞者は、「わけがわからないが何か好き」「なんだか惹かれる」というのもあります。 作った人の考えとは全然違う、見る側の勝手な感想かもしれませんが、何か感じるものがある、と。 人間が作るものですから、他の人間に響くこともあると思います。 同時代の人には理解されないこともありますが。ゴッホとか。 ゴーギャンも貧乏だったのでしょう。
- itukakitamiti7
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自己満足と社会からの評価は表裏一体だと思います。 強い自己満足を欲する人イコール家庭的な愛に不足している人。 代償として、社会的な愛で心の欠損部を補わなければならない。 世に名をとどろかせる偉人には、健康的な発育に必要な家庭的な愛の欠落に悩む者に満ち溢れています。 宗教ではイエス、シャカ、ムハンマド、 芸術ではダビンチ、ミケランジェロ、 音楽ではバッハ、ベートーベン、 文学では洋の東西問わずほぼ9割などなど。 彼らはほぼ、私生児、片親などの孤独、かつ複雑な環境での幼少期を過ごしています。 親からの愛が期待出来ない以上、代償として彼らは大衆(社会的な)理解を得る事により、欠落した母性愛などを深層心理は補おうとします。 大衆受けしつつ、更には名声を得られるような物の創作のみが生きる目的となります。 彼らは同時代の大衆には理解できないような作品こそが、次の文化を創造する事を信じていますし、そこに高次の価値観を感じています。 自分への社会的な愛がいかに高まるか、これのみに邁進しますからその評価は死後であろうが構わない、問題は評価が高いか低いかのみですから。 率直に申し上げます。 それ程に、人にとっての愛とは重く、それを失う事は当人を狂気に追い込むまでの大きな損失、喪失であると言う事なのでしょう。
究極的にはそうですね。他人に理解してもらおうと思ってないですから。例えば、有名な画家にルノアールという方がいますが、取材を受けた時、記者から『今回の絵はどんな意味があるのですか?』と聞かれて、『それは君達のほうがよく知ってることなのでは?』と皮肉ったって話がありますが、ルノアールから見れば、記者たちがあれこれ絵について書くことが的外れで嫌気が差していたってことでしょうね。まあセンター試験の現代文の答えに、出典として使われた筆者がクレームをつけたって話もありますし(笑)理解しえないものだと思います。また、大衆ウケするものは、理解する必要はないかもね。感じられるように作られているでしょうから。私は、こういう人もアーティストだと思いますけれど。 アートというのは、古代ギリシャでは『徳のある行為』を意味していたのですよ。昔の壁画のようなものは、アートとは考えられていません。