趣味として小説を書く者として、質問者さんの疑問を解いてさし上げたいのですが、
A:「作者はそれなりに気合を込めて工夫して書き出しを完成する」 という言葉の意味と、
B:「一見、さりげないようでも、作者はそれなりに気合や工夫を込めている」 という言葉の意味
の違いがわかりません。Aがわかっていらっしゃる質問者さんなら、Bもわかっていらっしゃるのでは?
小説にしろ、落語や漫才などの演芸にしろ、あるいは先生の授業にしろ、「つかみ」が大切です。
どうすれば最初の一言二言、行動で、相手(読者、聴衆、生徒ら)の気持ちをグッと自分に引きつけられるのか、誰でも一生懸命考えて、それを表現します。
本なら閉じてしまえばオシマイ。演芸や授業なら眠ってしまえばオシマイですから。
途中は・・・ 小説で言えば、始まってしまえば自動的に話が進む状況にもなり得ます。漫画家などはよく「顛末は僕にもわからない。勝手に主人公が動き出す」とか言います。
でも、最初の「つかみ」の部分は作者の責任。力の見せ所なんです。
よく言われる見本は、川端康成の「雪国」の冒頭ですね。単に「時間を追って事実」を書いているわけではないのです。
読者は「国境」という言葉、「長いトンネル」という言葉で、今自分がいる現実と切り離されて、小説の世界に没入する「心構え」ができ、「そこは雪国だった」で、暗いトンネルを抜けて雪国のまぶしさに出逢うことが具体的にイメージできて、小説に没入してしまう、というわけです。
読者をして、そういう心理状態にさせてしまうために、作者は自分の経験・知識・能力を絞るのです。
『書き出しに、工夫を込める』とは、そういう努力をすることだと言えば、わかっていただけるでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。