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星形要塞に入る時はどうしていたのでしょうか
星型要塞やそれを構成している要素の半月堡や凹堡に入る時、当時の人たちはどのように入っていたのですか? 現在は橋がかかっておりそこから進入できるようですが、当時も橋がかかっていたのでしょうか? もうひとつ、堀に水が張ってある場合は、半月堡や凹堡に兵器を運搬する際は船を使用したのだろうと思うのですが、水が張っていない場合はどのようにしてあそこまで運んだのでしょうか。
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>当時も橋がかかっていたのでしょうか? 架かっていました。 平時であっても無人なわけではありません。 守備兵が出入りしていました。 城郭の場合は平時は政庁の設備(役所の建物)として使われていました。 >堀に水が張ってある場合は、半月堡や凹堡に兵器を運搬する際は船を使用したのだろうと思うのですが、水が張っていない場合はどのようにしてあそこまで運んだのでしょうか。 このような無駄なことはしません。 城郭の濠というのは、敵兵を近づけないための構築物です。 家康軍が、大阪の陣の際に事前に濠を埋めたのはこのためです。 城の守備戦というのは、敵兵を追い散らすために打って出る必要があります。 自ら橋を落としてしまえば、出たくても出れなくなります。 食糧も武器も調達できなくなります。 攻める方は、なにもしなくても城内が勝手に餓死します。 秀吉がこの戦法を好んで使いました。 近くの川をせき止めて城に向かって流れ込ませるようにします。 いわゆる水攻めです。 秀吉の行った戦闘は戦闘というよりもほとんどが大土木工事です。 小田原城を落とすときも、囲んでおいて回りでドンチャン騒ぎをして遊びながら北条方が降伏してくるのを待ちました。 出城や要塞も同じです、不利になればいったん要塞を出て退却して体勢を建て直します。 これをやらないと、全滅してしまいます。 退路を断つと、守備兵が諦めない限り全員死に物狂いになってしまいます。 このため必ず退路を設けて包囲し、退路へ逃れた者を捉えるなり殺すなりしていきます。 自軍の兵を死に物狂いにさせるのが背水の陣です。 退路を断たれた兵は前の敵と戦う以外選択肢がありません。 敵も味方もこの橋を挟んで戦闘を繰り返すことになります。 このようなことから、橋の城内側には必ず堅固な備えがしてあります。 現在残されているお城で確認してみて下さい 城門は必ず橋の城側にあります。 ヨーロッパの城ではこの橋を可動式にした跳ね橋が好んで採用されました。 城郭の周囲のコーナー部分には左右が見通せるような構造の建物がたてらています。 星型要塞は規模が小さいために、この出張部分が繋がって上からみると星型に見えるだけです。
- jkpawapuro
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そんなのその要塞次第だと思いますが、片側跳ね橋かすぐ切って落とせる縄製(蔓製)の橋なら防衛上問題にはなりにくそうですね。