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降伏使節団・河辺中将機の「緑十字」
昭和20年8月19日、沖縄伊江島飛行場に向けて飛び立った一式陸上攻撃機2機は、2機ともすべて真白に塗装され日の丸も消され、日の丸のあった位置に「緑十字」を入れています。 これは、米軍に撃墜されないように指定されたものだそうです。 なぜ「緑十字」に決まったのですか。 この例以前に緑十字のマークを付けた飛行機や船はありましたか。 米軍(連合国軍)が緑十字を指定したのであれば、欧米から見て緑十字には、どのような意味があるのですか。 よろしくお願いします。
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戦争状態にあっても航行の安全が保証された船がありました。一つは言うまでもなく国際条約に基づく病院船で、もう一つは安導券を付与された船(Vessels furnished with a safe-conduct or a licence)です。第二次世界大戦でも、安導券をを付与された船には交換船と救恤品輸送船(以下救恤船と略称)がありました。交換船というのは開戦後に敵地にとり残された外交官や民間人をお互いに交換し 本国へ還送するのに用いられる船で、救恤船は敵国から依頼を受け捕虜へ慰問品を届ける船を指します。 病院船は赤十字と緑十字。交換船と救恤品輸送船は白十字と緑十字を船体に記しました。 ジュネーブ協定により、非武装かつ軍需物資・戦闘要員を乗せない条件で、事前に航路を敵国に通知し、 識別のため安全旗である緑十字を記した人道輸送のための船舶飛行機は、攻撃対象にしないことに なっていました。 降伏交渉に当たった河辺中将の一式陸攻も安全通行を保証させるため 武装をおろし、神風特攻を警戒していた米軍機にも交戦意思なしと わからせるため、米軍は、安導券を認め、緑十字をいれさせました。。 大東亜戦争中、日米交換船が二回(第一次:浅間丸・Conte Verde、第二次:帝亞丸)、日英交換船が一回(鎌倉丸、龍田丸)仕立てられました。また、救恤船は3回(白山丸・星丸・阿波丸)仕立てられました。これらは病院船とは異なり、相互の政府の合意に基づき一航海毎に仕立てられ、航海の予定もあらかじめ定められておりました。因みに連合国側が仕立てた日米交換船は第一次、第二次ともGripsholm、日英交換船はEl Nil、City of Paris、City of Canterburyでした。なおConte Verdeはイタリア船、帝亞丸はフランス船を傭船したものです 阿波丸は、米潜水艦に撃沈され、国際法違反と言われましたが、 米軍は暗号解読と航空偵察により、日本軍が国際法に反し、大量の軍需物資と健康な軍人多数 を阿波丸に載せたことを探知していたためとも、いわれてます。
お礼
詳しいご回答ありがとうございます。 よく解りました。すっきりしました。 >病院船は赤十字と緑十字。交換船と救恤品輸送船は白十字と緑十字を船体に記しました。 病院船は赤十字マークだけだと思っていました。 「安導券」は、初めて知りました。