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太平洋戦争期の日本に武士道は残っていましたか?
最近、太平洋戦争だけではなく戦争だけではなく幕末にも興味を持つようになったのですが、 そこでふと思ったことで、太平洋戦争ごろの武士道といわれるものには生きて虜囚の辱を受けずといった言葉に代表されるように潔い死にざまが重要視されています。 しかし、幕末の長州征伐や戊辰戦争を見てみると、幕府やために決死の覚悟で戦いはすれどそのあと自決している人自体は多くはないです。 こうやってみると戦時下の日本の武士道は本質を履き違えた、もしくはいいように利用するためのエセ武士道だったのでは? やはり明治維新以降の日本に武士道はなかったのでしょうか?
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少々勘違いなさっている様ですが、明治の前半あたりは、日本史の中でも最大級の、パラダイムシフトが起きた時期です。 従い、旧体制の象徴たる武士道精神も、例外ではないどころか、日本史上で最も蔑まれ、迫害された時期ですよ。 会津の白虎隊とか西南戦争の西郷隆盛などが象徴的ですが、倒幕軍やら明治政府は、旧態依然の武士道精神の掃討に明け暮れてますし。 政策面でも四民平等に関連し、廃刀令,断髪令などを発し、武士道精神は目の敵にされているのです。 明治政府が武士道を徹底的に迫害した(抹殺しようとしたと言っても良いくらい)にも関わらず、「それでも我が国には、武士道精神が根強く残留した」と言う方が正確です。 鎌倉時代以降、長らく武家社会が続いたせいか、あるいは武家社会と言うものが、日本人の特性に合致した結果、武家社会が永続したのかは判りませんが、いずれにせよ武士道精神を、完全に消し去ることは出来ず、断念した形です。 一方、軍制も必死に近代化を推し進めましたが、そもそも武士と言うのが軍人であり、幹部は武家出身者だし、武士道も一種の軍学ですから、軍部には武士道精神が特に色濃く残留したのです。 その甲斐(軍制の近代化+精神論)があって、日清,日露と戦争に立て続けに勝利し、その中では乃木希典大将を軍神化するなど、旧態依然なことも行ってます。 明治の後半あたりからは、政府も安定化し、旧体制を迫害する必要性も減じ、精神論的な武士道は見直されたり、近代化と共存し得る概念になったとも言えます。 とは言え、第二次世界大戦に至っては、正規兵,志願兵に加え、徴兵まで行いましたから、軍部における精神論など、一般人に徹底しているワケもないし、全軍における共通概念なども存在しません。 従い、むしろ武士道精神などは徹底していないゆえ、わざわざ「生きて虜囚の辱を受けず」などと訓示せねばならなかったのです。 ここら辺りは、「日本の武士道は本質を履き違えた、もしくはいいように利用するため」とは言えそうです。 しかし、太田実中将の「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と言う電文は、国民にまで広く武士道精神が行き届いていたことを想到させます。 あるいは、戦争の記念館などに足を運べば、特攻隊の若いパイロットの遺書などを目にすることが出来ますが、私は涙を禁じ得ませんでした。 これらを「武士道」と言う言葉以外で、何と表現して良いのか、私には的確に語る術がありません。
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- k-josui
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そも「武士道とはなんぞや」という事になりませんか? たまたま検索してヒットしたページですが、一服の清涼剤を飲んだようなすがすがしい気持ちになりました。 http://www.geocities.jp/rhqkx280/newtokyo/newtokyo10.html このページでは回答になりませんか?
お礼
新渡戸稲造さんの武士道はいろいろと知れるいい本ですよね。ありがとうございました。
- k1_5563234
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工藤 俊作少佐は太平洋戦争時にスラバヤ沖海戦(当時「雷」艦長)にて武士道をもって敵海軍兵士を422名を救助したという事実がありますよ。 以前、元英国海軍中尉のサム・フォール氏が海上自衛隊を訪問したという話が、「アンビリバボー」で紹介されていましたよ。
お礼
工藤俊作少佐の話はとてもすごいですよね、しかもその後何も語らずという部分に男らしさを感じます。ありがとうございました。
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お礼
「それでも我が国には、武士道精神が根強く残留した」こういう言葉を聞くと本当にうれしいです。やっぱり武士道精神は不撓不屈ですね。ありがとうございました。