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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:大名の婚礼はいつ頃から、なぜ昼間に行われるように。)

大名の婚礼はなぜ昼間に行われるようになったのか?

このQ&Aのポイント
  • 江戸時代のある時期から、大名の婚礼が夜ではなく昼間に行われるようになった。
  • 先例を重んじる江戸時代の武家社会において、縁組する両大名家が昼間の挙式に合意することは勇気がいることだった。
  • 具体的な大名家の記録があるかは不明。

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  • dayone
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回答No.2

WEB上では『加賀藩史料』が手近ゆえ、 参勤交代制度化前後~宝永年間頃(※2編~5編)の間を 各巻末の索引を参照して調べてみましたところ、 出輿・入輿の何れかの時刻表記があるものは、下記のとおりでした。 〇『加賀藩史料.第2編/石黒文吉/昭和4-17』 <359/512>(711頁) ・十二月五日。德川家光の養女大姫前田光高に入輿す。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123742/361 <361/512>(715頁) 〔竹園雜記〕 寛永十(1633)年子十二月五日午の刻、御前様御輿入相済候。… ※当時、光高公十八歳、姫君七歳、これでは、いわゆる大人の関係は望めませんね^^ ・九月二十日。前田利常の女満姫、廣島侯淺野光晟に嫁す。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123742/383 <383/512>(759頁) 〔天寛日記〕 (※寛永十二<1635>年)九月二十日 一、午後刻松平肥前守息女松平安藝守所嫁娶有之。… 〇『加賀藩史料.第3編/同上/同上』 ・七月廿六日。前田綱紀保科正之の女を娶る。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123761/277 <277/525>(547頁) 〔壬申雜篇〕… 一、(※萬治元<1658>年七月)廿六日御入輿、未明に下女五十餘人來、   四つ時分に女中卅七人乗物にて來り、午之刻御輿入、… 〇『加賀藩史料.第5編/同上/同上』 ・十一月廿一日。前田綱紀の女節姫、淺野吉長に入輿す。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123792/236 <236/519>(465頁) 〔政隣記〕 (※元禄十二<1699>年)十一月廿一日…、…。午上刻御出輿、… ・四月廿六日。前田綱紀の女豐姫、前田孝資に嫁す。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123792/379 <379/519>(750頁) 〔政隣記〕 (※寶永四<1707>年)四月廿一日…、廿六日巳刻より…、申上刻御出輿。… ・四月六日。前田綱紀の女敬姫因幡侯池田吉明に嫁す。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123792/401 <401/519>(794頁) 〔政隣記〕 (※寶永五<1708>年)四月六日…、申刻御出輿。… ・十一月十八日。德川綱吉の養女松姫前田吉德に來嫁す。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123792/408 <408/519>(809頁) 〔政隣記〕 (※寶永五<1708>年十一月)同十八日快天、御入輿晝八半時。… 以上は数少ない断片情報に過ぎませんが、 「つい延寶あたりのところまでは必ず夜で、」(※後述)のフレーズは、 少なくとも徳川将軍家・加賀藩には当て嵌まらない様子も伺え、 果たして入輿の時刻にこだわりがあったのかすら疑問が残ります。 続きまして、 kouki-koureisya 様が既に御存知の内容も多く含まれると思いますが… 〇『故実叢書.貞丈雑記(伊勢貞丈)/今泉定介編/吉川弘文館/明32-39』 ※貞丈が1763~1784(宝暦13~天明4)に記した草稿を岡田光大らが校訂、1843(天保14)刊行。 貞丈雜記卷之一 <19/51>(22頁) 一 婚禮は夜する物也…(中略)…然るに今大名などの婚禮専ら午の中刻などを用ふる事 古法にそむきたる事也 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771945/19 上記は欄外注記に「江家次第婿取次第」とありますように、 関白藤原師通が博識の誉れ高い大江匡房に依頼して天永二(1111)年成立した 朝廷の儀式・行事の解説書『江家次第/大江匡房』からの一部援用でもあり、 文言前段は公家の婿通婚時代のお話、後段の漢字「婚」云々も古の中国のお話、 何れも情報としては正しいとしても、武家の嫁入婚にそのまま当て嵌めて 「古法にそむきたる事」とする伊勢貞丈は時代錯誤と言えなくもありませんね^^ あと、冒頭の事例からは、徳川将軍家や大藩たる加賀藩には「夜入輿」が当て嵌め辛い結果、 下記「・夜から晝への推移」の信憑性となりますと何とも・・・ではありますが、 〇『江戸の生活/三田村鳶魚/大東出版社(大東名著選20)/昭和16』 「武家の婚姻」<9~31/170>(3~46頁) ・夜から晝への推移 <18・19/170>(20~22頁) それから婚禮といふことですが、これも江戸では享保頃になりますと、 在來は大抵夜分のものであつたのが、晝の方が多くなつて居ります。 つい延寶あたりのところまでは必ず夜で、早い輿入は暮六ツと申しますから、 只今の午後六時、それから五ツ(午後八時)四ツ(午後十時)九ツ(午後十二時)といふ風に いろ\/あつて、ぐつと遅いのになると、八ツ(午前二時)などといふのもあつた。 それが享保度には晝になつてしまつたのです。… http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1460041/18 ・婚禮式は武家の創始 <19・20/170>(22~24頁) 天文(※1532-1555)年中に松永久秀が、その主人である三好長慶の長男義長の乳母を娶り、 その内縁により執權となつて勢力を張るに至つた。 さうした下心から景氣づけの爲に婚禮を盛大にやつた。 それから武家に晝間の婚禮といふものが出來たのだ、といふ説もあります。 或は又文祿三(※1594)年、毛利秀元が妻を娶る時に、秀吉が今度の祝言には 日本はじめての結構美麗を盡さうと云はれた。 それには夜ではいかんから、日中に輿入をして、 行列を諸人に見物させたがいゝといふことで、 秀吉自身櫓を構へて行列を見物し、その前で輿の受渡しをさせた。 これは白晝でありまして、日本ではじめての祝言と云はれて居ります。… http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1460041/19 上記の「・婚禮式は武家の創始」の両説とか、 下記の「二代秀忠の娘・和子の入内の時」などと併せて考えますと メタボンのブログ>江戸 結婚 3 武家の婚礼・道具 http://ameblo.jp/1480sn/entry-11587996591.html 江戸時代は、婚礼は夜が普通でしたが例外として昼行われた例がある。 二代秀忠の娘・和子の入内の時である。 元和元年(1620)御水尾後宮に入内した時は、敢て、白昼に行い、 将軍家の威光を見せつけるものであった。 「景氣づけの爲に婚禮を盛大に」「行列を諸人に見物させたがいゝ」 「将軍家の威光を見せつけるもの」なども、 入輿・輿渡などが昼間に行われる理由の一つになるかもしれません。 ほかにも、公家の婿通婚とか、相手の家格などに制限が無かった頃の武家の嫁入等であれば、 極端に言えば何れも身一つで良かったものが、やがて家格制限などの要因も生じたことで、 花嫁が3歳とか7歳の場面も多くなって夜型にすべき意味合いも薄れる場合も増えたり、 また婚礼に際し調度品の増加に伴う行列の長蛇化(例えば寛永十二年十二月十二日には、 数量制限の武家諸法度等もあったりもしますが)、他藩との競い合いなどなど、 あるいは幕府からの「酒乱酔に及ぶべからざる事」など、諸々の要因が重なった結果、 入輿などが昼間に行われるに至ったと考えられ、 ・『古事類苑.礼式部6/神宮司庁古事類苑出版事務所編/神宮司庁/明29-大3』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897803 などからのヒントを求め目を通してみましたが、 残念ながら私には一つの理由には絞り込めませんでした(><) 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 これはもう…びっくりです!! よくぞここまで調べて下さいました。 まさに目から鱗で、大変よく解りました。 まず、『貞丈雜記』は鵜呑みにしてはいけないこと、骨身にしみて分かりました。 浅野候の話も『貞丈雜記』から仕入れた可能性が高いこと、そしてこの聞き取りを記した三田村鳶魚の『江戸の生活』にある「武家の婚姻」の話も元は『貞丈雜記』であるということ。 >何れも情報としては正しいとしても、武家の嫁入婚にそのまま当て嵌めて >「古法にそむきたる事」とする伊勢貞丈は時代錯誤と言えなくもありませんね^^ 確かにそうですね。 結論は、婚礼は夜でも昼でも構わない、なんらの規制もなければ礼法としての慣習もない、ということですね。 「前田利常の女満姫、廣島侯淺野光晟に嫁す。」「七月廿六日。前田綱紀保科正之の女を娶る。」 これらの例から浅野家も保科家も昼間の婚礼に同意していることが分かります。 昼間の婚礼といっても、「前田綱紀保科正之の女を娶る」例では、 (※萬治元<1658>年七月)廿六日御入輿、未明に下女五十餘人來、   四つ時分に女中卅七人乗物にて來り、午之刻御輿入、 ということで、未明から大忙しだったことでしょう。 私は、婚礼を昼間に行うようになったのは、夜はかがり火を焚くので防火の面で禁止されたのかな、と思っていました。 また、明りを必要とするので費用もかかるので将軍家が率先して昼間にしたのでは、と思っていました。 >「景氣づけの爲に婚禮を盛大に」「行列を諸人に見物させたがいゝ」 >「将軍家の威光を見せつけるもの」なども、入輿・輿渡などが昼間に行われる理由の一つになるかもしれません。 そうだと思います。いろんな理由があって当然ですね。 >二代秀忠の娘・和子の入内の時である。 >元和元年(1620)御水尾後宮に入内した時は、敢て、白昼に行い、 >将軍家の威光を見せつけるものであった。 これとは逆の例もあります。 明暦3年(1657)天皇家に最も近い親類である伏見宮家の浅宮(顕子)と4代家綱の婚礼も昼間(午刻御輿入)に行われていますが、このときは、酒井忠清、阿部忠秋が諸役人に「御輿入のことは深く御隠密遊ばされているので、沙汰しないように」と伝えています。 (文春新書、山本博文「徳川将軍家の結婚」) その理由を筆者は、もはや実質的に日本の王となった将軍家にとって、結婚は、ただその地位に恥ずかしくない相手を迎えればよいだけのことであった、と述べています。 それにしても幕初から婚礼は、昼間から行われていたということがよく分かりました。 お陰さまですっきりしました。感謝の気持ちでいっぱいです。

その他の回答 (1)

noname#224207
noname#224207
回答No.1

>いつ頃から、なぜ、昼間に挙式するようになったのですか。 わかりません。 現在の結婚式のようなものはありませんから、挙式という言葉はあたらないかと思います。 おそろしく形式ばった披露宴とでも考えられた方がよろしいかと思います。 >また、具体的に大名家の記録があれば教えて下さい。 大名家ではありませんが将軍家のものがあります。 將軍姫岩の婚礼の変遷と文弛期御守殿入周 - 学習院 glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/1010/1/shigaku_... 上記サイトの「表二 婚礼当日の供揃時刻と着用物」の供揃の時刻は4時~5時になっています。 >・・・今大名などの婚礼専ら午の中刻などを用いる事、・・・ 大名家の婚礼は最重要の式典です。 相当に大がかりで数々の儀式としての行動がとられました。 貞丈翁はどの部分をもって婚礼と称したのですかね~ 午の中刻には何が行われていたのでしょうかね~ 尚ご参考までに下記のようなサイトもあります。 第88回 武士の婚礼 - 歴史人公式ホームページ|歴史人 www.rekishijin.jp/rekishijinblog/nagai/13-1030/ 日本結婚史 www.town1.jp/dousuru/kankon/nihon/nihon2.htm

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 学習院大「將軍姫君の婚礼の変遷と文化期御守殿入用」は大変参考になりました。 ただ惜しいことに、吉宗の代(享保)以降の供揃時刻は5時または4時と分かるのですが、綱吉の代(貞享、元禄、宝永)の供揃時刻は記載ないので分かりません。 従来から続いてきた当たり前のことは書かないだろうと勝手に解釈すれば、竹姫の婚礼(享保14年12月)は、昼間に行われたからこそ供揃時刻を記録に残したのかも知れません。 「貞丈雑記」は、「1763年(宝暦13)1月以後日々筆のまにまに書き記した雑録」だそうですから、宝暦の頃には大名家の婚礼は昼間に行われるようになっていた、と推測できます。 >貞丈翁はどの部分をもって婚礼と称したのですかね~ 「輿入れ」した時刻だと思います。  最後の広島藩主・浅野長勲候は三田村鳶魚翁に  「江戸では享保頃になると昼の方が多くなってきた。つい延宝あたりの頃では必ず夜で早い輿入れは暮れ六つ、それから五つ四つ九つというふうにいろいろあってぐっと遅いのになると八つ(午前2時)というのもあった。」と語っています。 享保頃とは170年以上も昔のことであり、しかも広島藩の事実を語っているわけではないのでこのまま信じるわけにはいきませんが、竹姫の婚礼も享保ですから吉宗の「改革」と何か関係がありそうです。