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99人が悪人で1人だけが聖人
100人の住民の内、99人が悪人で1人だけが聖人だとして、この聖人が、99人の悪人に感化されて、悪人になる可能性が非常に高いでしょうか。 この1人の聖人が、99人の悪人が住む場所以外にいけないとしてですがね。
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精神力、なんて言葉が有るように人の心にも強弱が有って、「聖人」ともなればそれ相当の精神的鍛練が出来てる筈なので、悪人にはならないと思います。 さらに云えば、ならないと云うよりも成れない、と言うべきかも知れません。 何故かと云えば、「聖人」の心は好ましい方の心が強く大きく育っていて、好ましくない方の心を受け付けないからです。 理性に於いても、ですが、情的に拒否反応を起こしてしまう筈だからです。 悪の心は悪に馴染み、善の心は善に親しむものです。 とは言っても、悟る前の「聖人」であるならばそれなりの苦を感じるかも知れません。
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- 畑 茂夫(@Flareon)
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前提となる数値が間違っている。 99人が欲望のままである事を善とする善人で、一人の反逆者が欲望を悪とする悪人だ。 99人が聖人なのだ。
- atomonados
- ベストアンサー率31% (55/174)
>100人の住民の内、99人が悪人で1人だけが聖人だとして、この聖人が、99人の悪人に感化されて、悪人になる可能性が非常に高いでしょうか。 かなり低いと思います。 聖に対しては俗。1人の聖人に対して99人は俗人。俗人というのは平均的ということ。 その俗悪な人たちの多くは、人格の100の側面の1つか2つ悪いところがある程度。 例えば、○○をまったくしないとか。それだけの悪人。何の問題もない。
- amaguappa
- ベストアンサー率36% (140/385)
悪を為さしめる歪んだ論理を持たず、悪人の言葉が通じず、悪人の喜びはむしろ苦痛で、 悪人の怒りや悲しみはむしろ道理や真理の発露で、 悪の知恵はむしろ愚か、 先の先や横の横で損なわれる尊いものが見通せるから、優先することがちがう、 道を間違えないが、悪人とそもそも間が違う。 もし悪の伝播や連鎖を阻止する力がなければ、命あっては白痴、命をとられれば無惨な被害者、 もし悪人99人の命を左右する強大な力があれば、悪人99人を抑止または成敗する君主、 もし悪の伝播や連鎖を阻止する力があって、99人の命を左右する力がなければ処刑の身。
- yuniko99
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99人も悪人がいるところで聖人が暮らしていたら・・・ 生きてはいないかもしれません キリスト教がどうかわかりませんが イエスは残酷な殺され方をしました イエスもソクラテスも聖人を通したから殺されたのです 感化される聖人も居るかもしれません 老荘とかだったら 悪人の中で上手く生きていけるかもしれませんが 感化されるのとは違うかもしれませんが。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
- ベストアンサー率29% (231/773)
回答は分からないので書けません。 あれこれつぶやくだけ になります。 聖人と悪人を分けているのは誰なのか。 聖と悪の境目はどこなのか。 聖人が正しくて悪人は間違いなのか。 聖人と悪人の違いを ◇1.聖人だけが知っている場合 ◇2.悪人だけが知っている場合 ◇3.どちらも知っている場合 ◇4.どちらも知らない場合 さらに、 ▽1.悪人が認められ賞賛される場合 ▽2.聖人が認められ賞賛される場合 ▽3.どちらも飢えている場合 ▽4.どちらも満ちている場合 いろいろ考えられると思います。 聖と悪を超えた場合、というのも ありえなくはないんぢゃないかな。 少しだけ回答らしいことを書くとすると、 聖人が「己のみ正しい」と信じ切り、 「神よ他の99人を懲らしめたまえ」 と唱えるとき、 その聖人と彼の神のなかに 悪が吹き込まれるんぢゃないかな。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
悪人同士の社会において、聖人はルールを 守らない悪人です。 聖人を聖人たらしめているのは、信仰者の多さ によります。 つまり「100人のうち1人が聖人」という設定が 間違っています。 おそらく99人に聞けば、99人のうち1人を聖人 だと指すでしょう。
99人が聖人で一人が悪の場合もあります。
- kurinal
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>「どちらかがどちらかを変えるという設定ならあらゆる可能性が考えられます。」
- kanto-i
- ベストアンサー率30% (180/596)
本当に聖人と言えるならば、悪には感化されないと思います。 100人で住んでいるということは、何がしかの秩序は有る訳ですから 秩序が存在するところには、善に感化される要素が必ず有ります。 体が健全であれば自立手段を模索し、役に立ちながら道を探すでしょう。 体が健全では無く、自立が不可能だとして生かされてるとしたら その人達も善の種は持ち合わせています。 利害で集団を組織していたとしても、協力が必要と分かって居れば それはそれで突破口は、あると思います。 協力は、相手を慮ることが必要となるからです。 愛や善が根底に少しも無い集団は、基本集団形成が成せないか 非常に脆い集団ですので、必ず崩壊します。 生き延びるのに、集団で助け合う利益は誰でも享受したいと 思う訳ですから、最終的には聖人に傾いて行くでしょう。 100人が100人とも聖人にならなくても 折り合いをつけられる形には、なるようになると思います。 聖人と名が付けられる程の人なら、何がしかの道を自ら模索し 必ずや行動に移して行くと思います。 99人の相手が内部に持つ悪の割合が多くても、相手を許し模索できると思う次第です。 今の私達が生きてる状況と、さほど変わり無しでしょうかね。 100人の方が密なので、仲良くなれそうですが。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 これは やはり定義のもんだいが先行します。 《悪人》が もしソクラテスの無知の知ではありませんが みづからが悪人であると自覚している場合 この場合には 聖人は たぶん安泰でしょう。 ただし 当面は 悪人たちは それまでどおり わるいことをおこない続けるでしょう。 つまり考えられる将来にわたっての期間は どちらも感化されずに過ごしていくことでしょう。 悪人がみづからのことを自覚していない場合。現在の韓国人みたいなものではないでしょうか。こわいと思います。 九十九人は あとの一人にも 世の中が一色に染まるようにはたらきかけるはずです。 《感化》は ときが満ちたときに あらわれるかも知れません。
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