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秀吉が三法師を家来にした手口
秀吉が三法師を自分の家来にした手口はどのようなものですか? 秀吉が幼い三法師の後見人になって実権を握ったまではわかります。 実権は握っていますが名目上は秀吉は三法師の家来です。 秀吉は、いつどうやって名実ともに三法師を秀吉の下に置いたのでしょうか? 家康は大阪の陣に勝つまでは名目上は秀頼の家臣でしたよね?実力は家康の方があったにしても 秀吉は三法師に対して戦を仕掛けたという話は聞いていないので、どういう風に三法師が秀吉の家来になっていったか知りたいです
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まず質問者様のおっしゃる「秀吉が幼い三法師の後見人になって」というのが誤解なのです。 本当は三法師の後見人になったのは織田信孝です。 そしてもともと秀吉が三法師を積極的に織田家当主に推したとは考えにくいです。 こういうと「清洲会議で秀吉は三法師を当主にしたのではないのか」といわれるでしょう。 ところが秀吉は清洲会議からたった四か月後には織田信孝との対立から、三法師に代り織田信雄を織田家当主に立てています。 三法師が秀吉に刃向かう真似をしたわけではありませんから、これは明らかに秀吉にとって三法師の価値などその程度のものでしかなかったということです。 また清洲会議においても秀吉が三法師を積極的に推挙したという記録は一次資料では確認出来ません。 つまり「秀吉が清洲会議で三法師を立てた」とする通説は「桶狭間奇襲」や「長篠の鉄砲三段撃ち」などのように後世の創作である可能性を考えるべきでしょう。 従って秀吉にしてみれば、自分が天下人になってしまえば三法師は「旧主である信長の直系」という以上の存在ではなく、力関係から三法師が秀吉の下につくのは当然の結果です。
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- lv48
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E6%B0%8F 豊臣の氏を名乗って全ての者を臣下にしました。 秀吉が幼い三法師の後見人になって実権を握ったまではわかります。 ここがちょっと違う。信孝が後見人。この信孝が秀吉に敗れて織田の権威が失墜。 次の後見人、信雄も敗れて下克上完了。豊臣政権下に全て吸収される。
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なるほど ありがとうございました
- tanuki4u
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あれだけあった織田家の所領はいつ秀吉に奪われたんでしょうか? ↓ 信忠遺領は、後見人としての信孝 信雄に配分されています 1582年段階で、織田家の当主は信忠で織田家直轄領は美濃と尾張が中心となっています。 美濃は信孝 尾張は信雄 信孝を滅ぼした段階で美濃は秀吉の親派に分け与えらています。 例:池田恒興 美濃にて13万石を拝領し大垣城主 ※ 大坂あたりは秀吉領土に 秀吉は三法師の家来 ↓ 主筋とは別の権威を持ってきて有耶無耶にするのはだれもがやること。 戦国末期で言うと、津軽家とかも南部家の家来筋だったのを覆すため中央政権への工作をしています http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E7%82%BA%E4%BF%A1 上記の独立から本領安堵のあたり 西洋史でも http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%94%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%AF%84%E9%80%B2 ピピンは王位に就くためローマ教皇の支援を求め、サン=ドニ大修道院長に教皇との面会を求めた。教皇は彼に王権を認める代わりに、ランゴバルド人を打ち破ることを要求した。 以上引用
お礼
なるほど信孝と信雄で所領を分割されたのですね。三法師の所領は無し。 そして二人が仲違い。バラバラに秀吉に負けると なんとも馬鹿な兄弟ですねー 信長の遺領は無かったんですか? 別な権威で有耶無耶にできるもんなんですね。関係無いと思うんですがね。 よく使われる手なんですね ありがとうございます
- ithi
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subetenoaruji さん、こんばんわ。 天正11年、柴田勝家や織田信孝を滅ぼし、天正12年織田信雄と徳川家康の連合軍と小牧長久手で戦い、和睦しますが、天正18年小田原北条攻めのときに改易してしまいます。 つまり、織田家の有力な一族の力をそぎ落としたのです。おそらく、天正12年の大納言任官あたりだと思います。このあたりで下剋上が完成するのは天正14年ころでしょうか? 天正16年には秀信は元服し、従四位下侍従に任官しますが、この段階で後陽成天皇を聚楽第に行幸の時の列席メンバーに入っていますが、秀吉の主人ではなくなっていますよ。序列はかなり低いところから考えるともうこの時点では下剋上は完成していますね。つまり家臣に転落しているのです。 詳細は下記のURLを参照ください。 織田秀信 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E7%A7%80%E4%BF%A1 豊臣秀吉 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
お礼
なにか気づいたら家臣になってたって感じですね ありがとうございました
- ithi
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subetenoarujiさん、こんにちわ。 秀吉が幼い三法師の後見人になって実権を握ったまではわかります。 実権は握っていますが名目上は秀吉は三法師の家来です。 秀吉は、いつどうやって名実ともに三法師を秀吉の下に置いたのでしょうか 清州会議以降は三法師を担いで名目上の旗頭にしていましたが、小牧長久手の戦い以降織田家の内紛がなくなったので、この段階で旗頭から降ろしたと思います。それは秀吉の官位が織田家の人々の官位を追い越し、実力名実ともに天下の盟主足りえるようになったからです。そして、成長する秀信をいつまでも旗頭にしておくことは内乱のもとになるので、織田家嫡流の名跡だけ継がせたのでしょう。 家康は大阪の陣に勝つまでは名目上は秀頼の家臣でしたよね?実力は家康の方があったにしても いいえ、1603年に征夷大将軍になったので、名目上も家康のほうが上になりました。 詳細は下記のURLを参照してください。 織田秀信 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E7%A7%80%E4%BF%A1 豊臣秀吉 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
お礼
あーなるほど官位が上回ったんですね。 でもそれは対外的なもので 官位が上でも三法師と秀吉が主君と家来な関係なのは同じではないのですか? 官位の上下と主君と家来の関係は別でしょう? いったい、いつ三法師ははっきり秀吉に臣従したのでしょうか? 三法師は子供なので秀吉に政務はお任せでも織田家の所領は三法師のものでしょう? 秀吉が後見人をしているあいだに織田家の所領は全て秀吉に掠め取られてしまって、三法師が大きくなった時には秀吉を家来にしておくことができなかったのでしょうか?
- tanuki4u
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1577年 信忠 従三位に昇叙し、左近衛中将に転任 1578年 信長 1月6日 正二位 1582年 秀吉 従五位下左近衛少将(『公卿補任』) 1583年 秀吉 従四位下参議 1584年 秀吉 従三位権大納言 1585年 秀吉 従一位関白宣下、内大臣如元 1588年 秀信9歳で岐阜に入って元服し三郎秀信と名乗り、従四位下行侍従に叙位・任官した。 織田弾正家では信長の正二位がこの時代における極官。 実力で官位を取ってこれる実績を作る前に、秀吉のほうが上に行っていた。 対織田家対策としてではなく、家臣団の平和時における序列を明確化、「目に見える形で示す」ために、秀吉は家臣団の官位付を行っていました。 そのため秀頼にも 慶長2年(1597年)9月27日、従三位に叙し、左近衛権中将に任ず。 慶長3年(1598年)4月20日、従二位に叙し、権中納言に任ず(中将から参議を経ずに直接中納言に任ずるのは、羽柴家が摂関家であることを明示している)。 慶長6年(1601年)3月27日、権大納言に任ず。 慶長7年(1602年)1月6日、正二位に叙す。 というような官位につけており、原理的には (秀吉)>家康>秀頼>秀忠 という序列ができています。 家康が没すれば、 秀頼>秀忠 という序列が成立し、家康のスタンスで考えれば家康後を考えれば、秀頼を排除しなければこの序列が生き続ける危険性が有ります。なので物理的に排除するしか無かった。 秀吉の官位制度は、豊臣家を守るためのものだったが、最後は毒になった。
お礼
なるほど官位が上回ったんですね。 でも官職が上でも秀吉は三法師の家来では? あれだけあった織田家の所領はいつ秀吉に奪われたんでしょうか? ありがとうございました
お礼
なるほど!!知らないことばかりでした 三法師を押したのが資料の裏付けが怪しいこととは知りませんでした ありがとうございます