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死刑になった魂はどうなるのですか?
死刑廃止賛成、反対の論争がこのサイトでも盛んですが、昔から気になっている事があります。 死んでも魂が残るのであれば、死刑は意味がないと思うのです。 私も心筋梗塞で死にかけた事があり、その時、体は動く事が出来なかったのですが、意識はしっかりしていました。 父の臨終をめとる事も出来ましたが、息も絶え絶えの父だったのですが、主治医は「お父さんは言葉は喋れませんが、聞き取る能力はありますので、お父さんに話しかけてあげて下さい」と私に言いました。 この二つの事例から、自分は魂の永遠を信じる者です。 つまり、死刑になった魂は、死刑の時は恐怖を味わうかもしれませんが、結局、魂は死なないので、霊体になって悪さをするのでは、と思うのです。 つまり終身刑で一生、牢屋に閉じ込めて置く方が、世の中の為になると考える次第です。 殺人の無い世の中が理想ですが、殺人が一向に無くならないのは、国家による殺人、つまり死刑という制度があるからではないでしょうか? 皆さんのご意見をお聞かせ下さい。
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haruco08です。 連投、失礼します。 先の回答に誤りがありました。 〈誤〉一連の作業も刑務官の仕事です。 *この一文、削除してお読みください。裏が取れません。 遺体の処置について、 〈正〉医官、数名の看守、看病夫によって丁寧に処置が施されます。 元・刑務官の話を掲載しているブログに記載されていました。 本人の希望があれば、短冊や両親の写真なども一緒に収められる、とのこと。 お詫びして訂正いたします。
haruco08です。 お礼のコメント、ありがとうございました。 頂いた感想の中で気になる部分がありましたので、私なりに考えてみました。 〉死刑後その家族に見放されて、供養もしてもらえないとしたら、その魂は本当に収まるべき所へ収まる事が出来るでしょうか? 〉法務省は死刑の執行はしますが、死刑囚の死後の魂の供養や浄化までは考えてないような気が致します。 そうですね。私も国や法務省にはあまり期待できないように思います。 ですが、現場の刑務官や教誨師といった方々はどうでしょうか…? 刑務官は、死刑囚が拘置された時から、ずっと顔を合わせていますよね。 いつ執行されるかと怯える姿も目にしていたと思いますし、心境が変化していく様子も間近で見ています。 その死刑囚にいよいよ刑が執行される、しかも自分が執行官に選ばれてしまったら…仕事とはいえ、私たちには想像もできないくらい複雑な心境になるだろうと思います。 執行に携わった場合には現金で手当が支給されるそうですが、業務終了後お寺に直行して、そのお金で供養をお願いする人が多いんだそうです。 teruneさんが指摘されているように、家族に見放されるケースが圧倒的に多いようですね。 事前に解剖用の献体を希望する人も少なくないようですが、そうでない場合には、刑務官が見送ることになります。 執行後の遺体は、きれいにアルコール消毒され、死装束を着せてもらって納棺されます。 そして拘置所内で葬儀の後、火葬され納骨されます。 これら一連の作業も刑務官の仕事です。 中には本気で冥福を祈ってくれる人もいるのではないでしょうか。 (ちなみに、私が暮らす東京では雑司が谷霊園の奥まった一角に、斎場と並んで法務省の納骨堂があります。 東京拘置所で執行された死刑囚は、ここに安置されています。) また、教誨師は、死刑囚が拘置中に面会できる唯一の民間人です。 ある意味、誰よりも死刑囚の心の内を知る人です。 死刑囚と向き合い、面会を重ね、そして最後の瞬間にも立ち会います。 もともと僧侶や牧師といった宗教家ですが、最後の最後まで死刑囚の魂の救済のために、この精神的に厳しい仕事に尽力します。 例え家族に見放されたとしても、最後の年月を一番近くで見守った人達が供養し、冥福を祈ってくれます。 その想いが届くなら、収まるところに収まることも、できるのではないかと思います。 死刑に関しては賛否両論、いろんな意見があっていいと思いますが、私は個人的に、現場で実際に刑の執行に携わる人たちの存在も、忘れてはいけないと思うんです。 先日、戦後の半世紀にわたって多くの死刑囚と向き合い続けた僧侶の教誨師の半生が、本に遺されていることを知りました。 『教誨師』堀川惠子(著) /講談社 面会の様子や、刑の執行の様子もリアルに綴ったノンフィクションだそうです。 かなり重い内容のようですが、私も折りをみて、ぜひ読んでみようと思っています。 私は、死刑の是非を論じられるほど多くのことを知りません。 まだまだ知らないことが、多すぎるのです。
お礼
とても参考になるご意見、有り難うございます。 本当に私も知らない事が多くあり、自分が恥ずかしくなります。身近に死刑囚がいる訳でも無く、結局心に浮かんだ事をそのまま述べているに過ぎません。 これはharuko08様も含め、今まで回答を書いて下さった方にもお願いなのですが、どんなささいな事でもいいので、気がついた事があったら短い文章で構わないので、記入して下さると有難いです。 教誨師(キョウカイシ)の存在はテレビで見た記憶がありますが、具体的には私も良く知りません。 参考の図書、私も読んでみたいと思います。 ここで忘れてならないのは、実際に刑を執行する人です。 死刑囚(犯罪者)とは言え、刑を執行する人は殺人を犯す訳ですから、かつての大戦で国家の名のもとに戦争で人を殺した兵士と何ら変わらない訳です。 西洋の処刑シーンなどでは、銃殺刑の場合、複数で射殺しますよね。 結局誰が殺したかわからなくする為ですね。 でも、全員が狙って打てば、それは全員が 殺した事になります。 一人で射殺すれば、罪の意識が大きいから複数で殺す、ただそれだけのことだと思います。 日本での刑を執行する人の事など、この本を読めばわかるかも知れませんね。この著者は他にも死刑関係の本を書いているようですので、いろいろ参考になりそうです。有り難うございます。 雑司が谷霊園の事も私は知りませんでした。機会があったら訪れてみたいと思っています。こちらもお知らせ下さり、有り難うございます。 ここで私の死生観を述べたいと思います。 よく魂はこの世へ修行しに来ているとか言う人がいます。 私もその通りだと思います。 もっと言葉を変えて言えば、あの世(又は前世)で悪さをした魂がこの世という監獄へ閉じ込められているのだと、私は考えるようになりました。 それが、この世では悲惨な事や、辛く苦しい事のある理由です(そう考えるようになって、私は生きるのが楽になりました、辛く苦しい事があっても、それが人生だと思えるようになったからです)。 でも、この世が辛く苦しい事だけでは、人は生きていけないので、楽しい事も存在します。 そもそも、人は男女のSEXによって生まれてくる訳ですが、SEXは快楽以外の何物でもありません。 自殺は人生を放棄する訳ですから、脱獄と同じと考えます。 そう考えると、死刑はせっかく神様がこの世という監獄へ人間を閉じ込めたのに、その囚人(魂)を脱獄させてしまう事になります。 Amazonなどでも販売されていますが、NHKスペシャル「チベット死者の書」のDVDが発売されています。 このDVDを見ますと、チベットの老人が祈っているのですが、何を祈っているかといいますと、「神様、私を早くあの世へお戻し下さい」と祈っている訳です。私の現在の望みはただそれだけですと。 つまり、早く死にたいと祈っている訳です。 弘法大師空海が行った、即身成仏も結局この思想ではないでしょうか? (高野山奥の院には今でも弘法大師様がおられると信じられており、毎日食事を差し上げているそうです) 私の母も80歳ですが、年を取ると足腰は衰え、何をするのも一苦労となる訳です。 つまり、本人の意思で自分の古い肉体を脱ぎ捨てると言えなくはないでしょうか? 自殺も他殺もこの世からの脱獄ですから、禁じられており、許される事ではないですから、結局神様にお願いするしかない訳です。 死は決して悲しむべきものでは無く、むしろ祝うべきものだと私は思っています。 この世に産まれた時、赤ん坊は「おぎゃー、おぎゃー」と泣いていますが、この世に産まれる事が嫌だと言っているようなものではないでしょうか。 逆に死者の死に顔というのは、どれも安らかで、平穏な死に顔をしています。臨終の際、脳から麻薬物質が出で、全ての苦痛から解放されるのも、死者の顔が平穏な理由の一つです。 つまり死は人生の全過程を終了した卒業式の様なものです。 黒人霊歌の「聖者が街にやって来る」ではないですが、どんちゃん騒ぎして死者を天国へ送る民族だってある訳です。 死刑制度はその貴重な人生のカリキュラムを国家の名のもとに、終わらせてしまう事です。囚人の脱獄の手助けをする様なものです。 私の父の臨終の際も、私は父に対して「有り難う」の言葉しかありませんでした。父は全く喋れない状態でしたが、私の「有り難う」の言葉に、全く動けない父は目から涙をこぼしていました。この「有り難う」と父の涙で、父は成仏出来た(天国へ行けた)と、私は信じています。人の死とはこのようでなければならないと思っています。 死刑執行の際、死刑囚が「有り難うございました」と感謝の念で、あの世へ旅立ったのなら、それは成仏できるでしょう。しかし恨みしかなかったら。 人生の全過程を終了していないのに、人生 を終わりにされてしまうのですから。 強制退学と同じですね。 きっとあの世からは「なぜカリキュラムが終わっていないのに戻って来た」とせめられるでしょう。 「実は人を殺しまして、その罰として人生を終わらせられました」と死刑囚は言い訳をしますが、神様は 「わしがこの世へ送ったのに、送り返すとはけしからん」と怒っていると思いますが。 又、冤罪(えんざい)で無実の罪を背負わされ、死刑になったとしたら「有り難う」なんて言葉は絶対に出ないと思います。 今までの死刑で冤罪が一つも無かったなんて、誰も言えないと思います。 もし、冤罪で死刑になった魂があったとしたら、それは一体誰が責任をとるのでしょうか? このようなパターンがあるか、私は知りませんが、もし死刑囚が妊娠していたとしたら、どうなるのでしょう。死刑囚が子供を産んだ後、その母親を殺してしまう事になります。残された子供はどんな気持ちでしょうか。 こういった事を考えない人は、恐らく、ニュースも気にせず、自分の事だけ考えて生きている人なのでしょう。 私もこの質問をしてから、何人もの方の意見を伺って来ました。 しかし、霊的な観点では、私の意見に賛成して下さっても、死刑制度に関して、明確に反対と言って下さる方は今まで一人もいません。 社会のルール、人間界のルール、昔からある事。つまり長いものには巻かれろ的な考えに皆さんなってしまうのです。 私はクリスチャンではありませんが、キリスト教的考えで言えば、裁くのは神であって人間ではない筈です。 罰金とか懲役なら、私も、いた仕方ないと思います。 「汝、殺すなかれ」と聖書にあるのに(モーゼの十戒)、なぜ皆さんは殺人者だと殺される事を認めてしまうのか? 不殺生は仏教の教えでもあります。 とある宗教団体のサイトに死刑制度の事が書いてあったので、読んでみたら、やはり死刑制度は必要と書いてありました。このような事では、日本国から死刑制度や殺人事件を無くす事は未来永劫不可能でしょう。 とある方が、この世から殺人が無くなれば死刑制度も無くなるとおっしゃいましたが、私は逆だと思います。 ニワトリが先か卵が先かの理論になってしまいますが、国家が「殺人は良くない事、だから死刑制度を廃止します」と自ら手本とならない限り、殺人は決して無くならないと私は考えます。 私の身近で殺人事件が起きる訳ではないので、死刑制度があってもなくても、本当はどうでも良い事ですが、「死刑制度反対」の声を上げない限り、この国から死刑制度は絶対に無くならないし、殺人や犯罪も無くならないでしょう。 私は非常に口惜しいです。
〉死刑になった魂はどうなるのですか? 刑を執行されるまでに、業(カルマ:ここでは行為の元になる心)を解消できなかった場合、その業を抱えたまま、一旦還るべき場所に還るのではないでしょうか? そして、来世でこの業を解消することが課題になるのだと思います。 死刑判決を受けるような殺人を犯す人は、心の奥底に激しい怒りや恨み、憎しみ、苦しみなど、常軌を逸する程の強い感情を抱え、そこに執着(固執)しています。 そのうえ、人の命を、時に自分の命すらも尊重することができません。 これが前世から持ち越されたものなのか、現世で初めて生じたものかは分かりませんが、私は、これら全てが本来は“現世で手放すべき業”であり“課題”だと考えています。 業の解消とは、執着を手放すことだと思うんです。 そして、これは死刑囚だけの問題ではありません。 加害者の家族、被害者の遺族、周りの人達も含め、それぞれがそれぞれの立場で、自分の激しい感情と向き合うことになります。 言いようのない怒りや恨み、憎しみ、苦しみ、悲しみ、そして被害者のご遺族は特有の罪悪感など、強い感情を抱えて、そこに執着(固執)することになります。 つまり、殺人事件や死刑判決といった体験をきっかけに、関係者全員が新たな業を抱えたり、未解消の業と向き合ったり、何かを学んだりするのです。 死刑囚にとっては、刑が執行されるまでの間が、現世で業を解消できる最後のチャンスです。 ある精神分析家が、重大事件を追っていくと、多くの場合は幼少期の母親との関係に行き着く、と言っていました。 残された時間で必死に自分と向き合い、犯した罪と向き合い、被害者の命も自分の命も尊いのだと気づけたら…。 執着を手放し、心からの反省と贖罪の涙を流せるなら…あるいは魂も浄化され、来世に持ち越さずに済むのかもしれません。 〉魂は死なないので、霊体になって悪さをするのでは、と思うのです。 なかには、そういう事もあるかもしれませんよね。 実際、反省や謝罪の言葉は一切無く、身勝手な暴言を残して執行された死刑囚もいたようですから…。 ただ、現世に産まれてくる際には、ある程度「人生の青写真」があると聞いたことがあります。 「死刑を体験する」ということがプログラムに組み込まれていた場合、執行された時点で学びは終了なので、やはり還るべき場所に還るのではないでしょうか。 〉殺人が一向に無くならないのは、国家による殺人、つまり死刑という制度があるからではないでしょうか? それも一つの考え方ですよね。 私は、現世での学びや業の解消に失敗した(クリアできない)か、あるいは殺人という方法で何かを学ぶ必要がある人が、殺人を犯すのではないかと思います。 死刑は、現世で生きる間に実際に犯した罪に対する刑罰ですよね。いわば現世における人間界のルール。 死刑制度そのものが、殺人が無くならない理由とは言えない気がします。 私は、行き着くところは『ゆるし(許し・赦し)』だろうと思うんです。 この『ゆるし』をマスターするために、何度も転生して様々な人生を体験するのではないかと…。 誰もが、自分をゆるし、相手をゆるし、あらゆる出来事をゆるせるなら、そこには争いや殺人は起こらないのかもしれません。
お礼
含蓄のある御回答、有り難うございます。 基本的にNO9.13、15、17、18、19、20の回答を下さったyoh001さんに近いお考えだと感じました。 何度も繰り返し、読まさせて頂きました。 心が洗われる様な文章です。 基本的にharuko08様の考えに同感致します。 死刑になった魂は収まるべき場所に収まるとのお考えには、私も一理あると思いますし、そうなって欲しいと私も願います。 ペンネームから言って女性の方とお見受け致しました。 男性、女性の観点から言って、殺人を犯す人は、男性が多い印象を持ちます。 暴力的なのは、えてして男性です。 戦争も男性の特権でした。ジャンヌ・ダルクの様な例外を除いて、戦場に立つのは男性でした。 基本的にharuko08様の考えに賛成なのですが、収まるべき所に収まる魂の観点から、死刑の魂とは直射関係ないかもしれませんが、ここで水子の霊(妊娠中絶された霊)について述べさせて頂いて宜しいでしょうか? 水子霊は幼い魂で、悪さをする力なんか無いという人もいます。 しかし、果たしてそうでしょうか? 私は戦争も死刑制度も堕胎(妊娠中絶)も同じ延長線上で考えています。 私の死刑制度反対のきっかけは、妊娠中絶が殺人との認識から始まりました。 妊娠中絶は若かりし頃は、誰もが行う当たり前の行為だと思っていました。 自分も戦後思想の影響が大きかったと思います。 しかし、ある時、橋本徹馬という思想家(宗教家)の著作を読み妊娠中絶の罪深さを知りました。 彼の著作によると、様々な霊障(不幸)は、堕胎もその原因の一つとしています。 残念ながら、彼の著作は一般書店では手に入りません。 アマゾンなどでは、一部の中古本を手に入れる事が出来るようです。 新品は「紫雲荘」という所で入手は可能です。 橋本徹馬氏はもともと政治家を志した方で、政治の世界の余りの馬鹿馬鹿しさに呆れ、宗教家になった方です。 日本とアメリカの開戦の際もなんとか開戦を避けるべく、奔走しました。 「水子地蔵寺霊験集」や「生命の医学大事典」や政治的な著作もあります。 自分は般若心経を解説した本が氏の著作では一番好きです。確か「般若心経講話」という題名だったと思います。 橋本徹馬氏が、死刑制度に反対だったのか、賛成だったのか、それとも中立的立場だったのか、氏の著作を全部読んだ訳ではないので、はっきりとはわかりません。 少なくとも、彼の一部の著作を読んだ限りでは、死刑制度について触れた箇所は無かった様に思います。 私個人的にはどの宗教団体にも属しておりません。一つの宗教に固執してしまいたくないのと、一つの宗教になったとしても、どうしても他の宗教も気になってしまうからです。(これは浮気症なのでしょうか?) 死刑制度、戦争、妊娠中絶、この3つに共通する物は殺人です。 日本の刑法では本来、堕胎は殺人罪でした。 法律的に堕胎もやむなしとなる時期が先の日本の戦争の時期と重なります(1940年との事です。1939年が第二次世界大戦の始まった年です)。 戦後のアメリカ兵との望まない妊娠などが、堕胎を法律的に認める原因の一つになったのではないでしょうか。 しかし、先日のドラマでも話題になった「赤ちゃんポスト」なども、現在はあり、生まれてくる望まない生命を抹殺するという、妊娠中絶を死刑制度と同じ、必要悪として片付けてよいものかと、疑問が残ります。 妊娠中絶の問題は、死刑制度の問題と共通点があると感じています。 現在の日本はある意味とても平和で、街を歩いていても、殺人事件にお目にかかる事は、全くといって無いでしょう。 しかし、裁判官制度により、殺人事件の判決を下さねばならない状況に誰もがなる可能性が出てきました。 もし、私が裁判官制度に参加し、殺人事件の担当になったら、死刑の判決は下さないと思います。 それは私の信条だからです。 死刑によって物事の根本的解決にはならないと思っているからです。 あと、haruko08さんの文章を読んで、気付かされたのは、死刑囚にも家族があると言う事です。 死刑囚にはその父親や母親があり、兄弟姉妹や、場合によっては、配偶者や子供もいるかも知れない。 終身刑にしろ、死刑にしろ、身内の辛さ悲しさもある訳です。 例えば、身内で死刑囚が出たとします。死刑なって遺骨になった死刑囚をその家族は先祖代々の墓に入れる事が出来るかという問題もあります。仏壇の位牌も同じように考えられます。 もし、死刑後その家族に見放されて、供養もしてもらえないとしたら、その魂は本当に収まるべき所へ収まる事が出来るでしょうか? 家族が供養しない場合、国家が代わりに死者の冥福を祈り、死刑囚の魂の 供養をしてくれるなら、私も死刑制度に関して、少しは考え直してもいいと思っています。 しかし、法務省は死刑の執行はしますが、死刑囚の死後の魂の供養や浄化までは考えてないような気が致します。 以前のお礼にも書きましたが、死刑執行後、その魂が天国へ行ったのでは、刑の意味が無いとも思います。 このあたりの実例をご存知の方がいらっしゃいましたら是非教えて頂きたいと思っています。 haruko08様の最後の記述「許し」についてですが、私も全くその通りだと思います。そもそも人を許す事が出来れば、殺人事件など起きないと思いたいですが、実際恨みによる殺人でない事件もあるのは残念です。 例えば、金品目的で見ず知らずの人を殺す場合などです。 警備員なども、実際日本で殺されています。 これらの事件は恨みによる犯行とは言えません。 私は幸せな事に、人を殺したいと思ったことはありません。でも、人を憎んだ事はあります。 神道的考えならば、人は神の分霊(ワケミタマ)という事になります。この考えならば、殺人も戦争も堕胎も、本来なら起こらない筈ですが、実際は起っています。 最後に先日、死刑囚の妻が最審査請求をして棄却された飯塚事件(もう死刑は執行されています)の場合、死刑判決から死刑執行まで、わずか2年であり、この期間は余りに短いのではないかとの意見をラジオで聞きましたので、ここに記載しておきます。 人を許す。それは人生の永遠の課題です。 haruko08様の文章を読んで、自分なりの感想を述べさせて頂きました。 今まで、お礼の文章はすぐに記載し、スラスラと書けたのですが、今回はなかなか文章が浮かばず、水子霊という、直接死刑と関係ない話になってしまいました。あと、お礼が遅くなった事をお詫び致します。 含蓄のあるご回答、有難うございました。
- yoh001
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> フランス革命で国王が処刑されますよね。 あれって国王自体が多くの犯罪者を処刑したから、復讐されたと考えられませんか? その通りですね。 > 日本であれば、死刑のゴーサインを出した法務大臣は、 生まれ変わりの中で、殺される可能性が高くなると言う事ですよね? 死刑に処された人間は、自分が人を殺したにも関わらず、 死刑の許可をした裁判官や法務大臣を恨む可能性がありますね。 > 日本の政局が安定しないのも、死刑制度があるからと言えませんか? 日本は天皇制だからまだ、いいですけど、韓国なんかは大統領が任期が終わると犯罪者にされたり、 確か自殺もしてませんでしたっけ?(違っていたらゴメンナサイ)。 はい、そういうことも大いに言えますね。 > 国家の安定の為にも、死刑制度は廃止した方が良いのではないでしょうか? ええ、死刑制度がない世界に私も住みたいです。 ・・・しかし、悲しいかな、今もなお死刑制度が存在するのは、 地球上にまだ、過去世や今生で かつて殺人を犯したけれども、まだ殺される経験をしていない人、 すなわち業(ごう)が崩壊していない人 が存在するからです。 宇宙には 己が発したものは己に還帰する という大法則があります。これは全ての魂に適用される大法則です。 すなわち殺人においては、 殺した者は殺される。 ということです。 その殺人の業を持つ人がいなくなった時、 必然的にこの世から殺人や死刑制度はなくなる、ということです。 ところが、殺人の業を持つ人がこの世にいる限り、死刑制度を廃止したところで、 その殺人の業を持つ人を殺す人が必然的に出てくるということです。
お礼
「殺した者は殺される」ですか……。 殺人のカルマを持つ者は、いずれ殺される運命にあるのだから、新たな殺人のカルマを作らない為に、国家が殺人(死刑)を代行してもよいという理屈になりますね。 この質問の「国家の安定」という事には、言及されていただけませんでしたね。 yoh001さんは、殺人がある限り、この世から死刑制度はなくならない。殺人が無い世の中になった時、死刑制度も必然的になくなるという立場とお見受け致しました。 でも、実際、死刑制度を無くした国も存在する訳で、そのあたりはどのようにお考えになっているのでしょうか? また、隣国のように、殺人を犯していない政治犯などが死刑になっている事例もあります。 あと素朴な疑問として、1人殺した場合は1回殺されれば、10人殺した場合は10回殺されなければ、カルマは解消されないという事になるのでしょうか? 1人殺しても、100人殺しても、死刑は1回限りですよね? どうせ死刑になるんだから、沢山殺してしまえという考えにはならないのですか? 死刑によって殺人のカルマが解消されるのは良いですが、以上のような疑問が残ります。 私は死刑が最高刑であることに疑問を持っている訳で、霊的観点からも、死刑以外の刑罰は考えられないのでしょうか?
- yoh001
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> 地獄霊の復讐で殺人を犯した死刑囚が死刑になると、地獄で地獄霊が待ち受けているのですか? 少し勘違いがあるのではないかと思います。 これは、図に書いて因果関係を考察してみると解かり易いと思いますが・・。 ここで図を描くのは面倒ですので、よろしければご自分でお願いします。 ある地獄霊をAとします。 その地獄霊に背後から唆されて殺人を犯し、死刑に処された者をBとします。 そのBが殺した者をCとします。BはCを殺した罪で国法によって死刑になったわけです。 Aは霊界の地獄界にいるわけですが、前の世の地上で人間として生活をしていた時にCに殺されたのです。 それをとても恨んでいて、何とか地上にいるCに復讐したいと思うわけです。 それで、Cに関係している人間で利用出来そうな人間を物色します。 そして選んだのがBです。ですので、AはBに対して恩義は感じても恨むはずがありません。 BはCを殺したのですから、恨まれるとするならCによって・・、となるわけですが、 死刑になったことによって、おそらくCの恨みも緩和し、許す気持ちにもなるのではないでしょうか。 ですので、Bが死刑になって霊界にゆき、 もしそこでAに会ったとするなら(会わないような気がしますが・・) AはBに「よくやってくれた」とお礼を言うのではないでしょうか!? しかしもし、Bが警察に捕まらず、死刑にならず事件が迷宮入りしてしまったとして、 Bはどこかで病死でもして地上生を終えたとします。 Cの人格にもよるのですが、この場合CはBに対して強い恨みを抱いていたとします。 将来、Bが地上に転生した時にCが霊界にいる場合、 CはまたAのような立場をとるかも知れないわけです。 CはBの近くのDを使ってBを殺させようと思うかも知れません。 個々の人間の精神性が向上しない限り、 このような悪循環は人を変え、あるいは場所を変えて、尽きることがないのでしょう。 ずいぶん昔には、仇討ち、というようなことが認められていた時代もありました。 今は、死刑という国法によって代替することにより、 殺された者(受刑者)が恨む対象(特定の人)を持たないようにしているとも言えます。 そういう意味では社会も進化してきたわけです。 私は死刑制度に賛成でも反対でもありませんが・・、 なぜなら、 どんな制度も法律も、その社会を構成している人間の集合意識がそれ表現しているからです。 もちろん、人々から恨みの心が消え、死刑制度がない、・・もっともっと進んで警察もいらない、 そんな夢のような社会にどんどん近づいていってほしいです。 日本人の集合意識が向上するに従って、現象である死刑制度も消えてゆくわけです。 その集合意識を高めるにも、teruneさんの問題提起はとても役立つと私は思います。 そして、一人ひとり自分自身の意識を高めることが日本の社会を向上させてゆき、 より良い社会を造ることに貢献することになるのだと思います。
お礼
ひとつ質問して宜しいでしょうか? yoh001さんの今回の回答、よく理解出来ます。 過去に殺された人が復讐の意味で、第三者を通して殺害するのであれば、死刑(殺人)を行っている国家自体が、殺害される事はないですか? この意味わかりますか? 例えば革命などです。 フランス革命で国王が処刑されますよね。あれって国王自体が多くの犯罪者を処刑したから、復讐されたと考えられませんか? 日本であれば、死刑のゴーサインを出した法務大臣は、生まれ変わりの中で、殺される可能性が高くなると言う事ですよね? 日本の政局が安定しないのも、死刑制度があるからと言えませんか? 日本は天皇制だからまだ、いいですけど、韓国なんかは大統領が任期が終わると犯罪者にされたり、確か自殺もしてませんでしたっけ?(違っていたらゴメンナサイ)。 国家の安定の為にも、死刑制度は廃止した方が良いのではないでしょうか?
- yoh001
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No.17です。 お節介かも知れませんが、やはり少しだけコメントさせて下さい。 激怒して殺人等を起こした者の背後に地獄霊の復讐が有る場合が多い。 地上へ転生した人間は、転生の際に忘却の幕にとざされて前々の世の記憶を喪失しているが、 (この場合、前の世が霊界で、前々の世はこの世にあたる。) 前世で赦せない怨恨をいだく地獄霊は、地上の記憶そのままであるため、 復讐の機会を待っている。 地球社会においては単に殺害された被害者を不憫と思い、 手を下した加害者を赦せない者としているが、 その加害者は背後の邪霊や地獄霊にそそのかされて犯す場合が多い。 また被害者はかつての加害者である場合が多いことを知るべきである。 また、この加害者は後の世に被害者となるかも知れないことを想うべきである。 これは実に憐れな姿である。 ですので、このような地獄霊に憑依されないためにも、 怒りとか憎しみとか嫉みなどのネガティブな心を起こさないよう、 強く、正しく、明るく生きるように心の鍛錬が必要なわけです。 また、近年は、地球の霊界も浄まりつつあり、 このような怨恨の地獄霊もずいぶんと減ってきているらしいです。
お礼
昔は息子が父親を金属バットで殺害する事件なんかもありましたね。 裁判員裁判で殺人事件などの担当になると、殺害シーンの再現などもあるようで、気分が悪くなる裁判員の方もいると聞きます。 yoh001さんが、死刑反対なのか、死刑賛成なのか今ひとつわからないと感じています。 仰る内容も私にはとても理解出来ますし、このような内容は私も何かの本で読んだ記憶があります。 地獄霊の復讐で殺人を犯した死刑囚が死刑になると、地獄で地獄霊が待ち受けているのですか? とても恐ろしいです。 「宇宙学」に関しては「宇宙学とはどんな学問(宗教)ですか?」という質問をしてみたいと思っています。
- yoh001
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No15のyoh001です。 「マトリックス」で示唆に富んでいるのは一番初めのものです。 シリーズで鑑賞する必要はないと思いましたので、お伝えしておきます。
お礼
わざわざ有り難うございます。 「マトリックス」見てみます。
- jack-a3
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No14です。いくつかツッコミ&補足。 まずは質問者さんの記述に矛盾というか、不整合があるのが気になるのでツッコミです。 「生まれ変わり」を認める場合、死んだ後の魂は生まれ変わった人の肉体に憑依することになります。すると「霊体になって悪さする」ということはあり得ない、ということになりますが、その辺の整合性はどう考えているのでしょう? 次に「生まれ変わったとしても魂の性質(?)は引き継がれるので、悪人はまた悪人としての人生を歩む」という説について。 人間には持って生まれた性質があり、それは変わらないとするなら、質問者さんが言われるような「罪者に脳手術を行い、善良な市民に生まれ変わらせる」ということは不可能だということになると思うのですが、いかがでしょう?だって、もし脳をイジって性格が変わるなら、魂は脳の中にあることになります。でも脳は肉体の死によって活動を停止します。だったら魂は肉体の死によって消滅するのでは? このように、科学が高度に発達した現在においては、精神世界においても現実世界や科学的事象との整合性が求められ、それに答えられる論理がないとなかなか理解を得られません。現在の宗教はみなこれに苦しんでいるといっても過言ではありません。 続いて質問者さんの追記について。 質問者さんの「罪者に脳手術を行い、善良な市民に生まれ変わらせる」案について。 残念ながら現在科学では「脳のどこをどう操作すると性格がどう変化するか」ということは明確には分かってません。今はうつ病の患者ですら治せないのです。 ですが、もし脳科学がもっと発達し、脳と性格や人格の関係が解明され、更正方法が確立された時、刑罰として脳操作が行われる世界になる可能性はないとは言えません。ただし悪用されると思想操作にも繋がることであり、世論の理解が得られるにはなかなか大変だろうな、とは思います。またこういった世界がどのようなことになるかはSF小説などで思考実験が行われています。それこそドラえもんでも描かれてます。 日本人の死生観について。 質問者さんは日本において死刑制度が支持されているのは唯物史観(唯物論の誤りですよね?)によると主張されますが、果たしてそうでしょうか?私は「悪いことした人は死後に地獄に落ちる」という仏教的宗教観と、「加害者が相応の罰を受けないと被害者が浮かばれない」という神道的宗教観によるものではないか、と思えますがいかがでしょう?本当に唯物論に沿って考えるなら、加害者がどのような裁きを受けようが、被害者である死者は戻ってこないので、加害者に対し死刑を望むことは無意味である、という方向に思考が進むのではないか、と思うのです。ですが日本の国民感情はそうなってません。逆に言えば多くの日本人は仏教や神道の考えが刷り込まれている、と言えませんか? あとはいくつか補足。 キリスト教における精霊や悪霊は、神に近い存在であり、人間とは別のステージの生き物です。つまり我々が死んだからといって悪霊になることはあり得ません。 神道では「恨みを持って死んだ人が怨霊になる」と書きましたが、ここでいう「恨みを持って死んだ人」というのは、非業の死を迎えた人のことを指しており、犯罪の加害者というよりは被害者側が怨霊になるのです。たとえば菅原道真とか。 で、これら被害者の魂を鎮魂するために加害者への厳罰を求める、という側面があるのだろうと感じます。 死刑囚が内職をした対価は本人に支払われると書きましたが、普通の懲役刑を受けた囚人も労役の対価は本人に支給されます(その額は月額数千円程度ですが) 懲役刑の囚人は労役に応じた対価を出所時に渡され、それが出所後の生活の元手になります。一方死刑囚は自分で稼いだお金の使い道がないように思えますが、そのお金で書籍や身の回りの品物を買うようです。死刑囚は自分がいつ死ぬか分からないという状況に直面した時、宗教に帰依する方が少なくないようです。ある意味では終身刑を与えるよりは更正することがあるのかも知れません。
お礼
「生まれ変わりを認める場合、死んだ後の魂は生まれ変わった人の肉体に憑依することになります。すると「霊体になって悪さする」ということはあり得ない、ということになりますが、その辺の整合性はどう考えているのでしょう?」 とのご質問ですが、何回読み返してもご質問の趣旨が理解出来ません。申し訳ありません。 憑依するとは、霊が生きた人間に乗り移る事ですよね。そういった場合もあるかも知れませんが、それだけではないと私は考えています。 「霊が悪さする」という表現はちょっと飛躍し過ぎと反省しております。 私の考えは、とある殺人事件があったとします。その殺人事件は単なる偶然で起こったのかという事を考えて見ましょうという事です。 例えば、過去の死刑になった霊魂などの影響(間接的にでも)はないかということです。 これで、ご理解いただけますか? 第二に、脳の外科手術によって性格は変えられても、魂の気質?までは変えられない件について。 これは非常に難しい問題だとおもいます。回答者様のご意見も理解出来ます。 もし、脳の外科手術によって性格が変えられ、それが魂の変革にも繋がるとしたら画期的な事です。魂の存在自体、科学的に証明されていない現在は難しいですね。整形手術をすると性格まで変わると言われますが。 死刑一辺倒の現在の制度に一石を投じる 意味で記載致しました。 今後の課題にしたいと思います。 第三に追記についてで「いまはうつ病の患者さえ治せないのです」の記述は回答者様の完全な誤りだと思います。 私自身も心筋梗塞の後、生きる意味を見いだせなくて「死にたい」と思うようになり完全なうつ病になりました。しかし診療内科を受診し、現在は死にたいと思う事は無くなりました。 現在の向精神薬の技術も馬鹿にならないと思います。「やる気が起きない」と言えば、精神科の先生はやる気が起きる薬を処方してくれるのですから。 あと、さらに裏付ける根拠として、以前、NHK特集でうつ病治療の最前線を放映していました。 確かアメリカの治療法だと思いますが、うつ病患者の頭蓋骨に機械を押し付け、機械を作動させます。「パンパンパンパン」と激しい音がして、恐らく患者の脳を刺激(叩いている?)しているのだと思います。その治療を繰り返すと、患者の表情は変わっていて、明らかに治療の効果はあるようです。この治療が日本で認可されているかは定かではありません。 日本人の死生観についてですが、明治維新で大日本帝国憲法とか刑法とか、西洋の法律を結局輸入したと、私は思っていて、その中に日本的アレンジはあったとは思いますが、結局、当時、科学万能であった事は間違いないと思います。 廃仏毀釈(ハイブツキシャク)という運動も起こります。 私はこの廃仏毀釈という運動が曲者だと思っています。 秩父の寺院で実際首のない石仏を見ました。 日本で廃仏毀釈の運動が無かったら、明治維新以後の日本の歩む道も違っていたと思っています。 西洋の刑法は、成り立ちとか詳しくありませんが、死刑執行後の魂は神の裁きにゆだねるということではと考えます。 被害者の遺族の感情についてですが、自分の親族を殺害した人が、この世に生きているのを許せないという気持ちは十分わかります。 しかし、酒鬼薔薇聖徒は当時少年だった為、死刑になる事はなく、その遺族に手紙を出し、その手紙を遺族も欲しているとの報道をみると、もし酒鬼薔薇が死刑になっていたら、その遺族はさらに悲しみの度合いが増していたのではと思うのです。 自分の息子はこの世にいない。さらに殺害した人もこの世にいない。そこに残るのは虚しさだけではないでしょうか? 何故、酒鬼薔薇の手紙を遺族は欲するか? これは私の推測ですが、自分の息子がこの世にいない悲しみを酒鬼薔薇の手紙が多少なりとも消してくれるとも言えませんか? 自分の息子と酒鬼薔薇を重ねることも考えられます。 憎しみが愛に変わる事はありませんか? 遺族が死刑を望むならそれはいたしかたのない事です。しかし、遺族が許すと言った時、死刑囚はその瞬間、心を入れ替えて新たな人生を歩む、自分の罪深さと向き合いながら生きてゆく、そういった事も必要ではないでしょうか? 裁判官や裁判員が死刑かそうでないか決める時の判断基準はいったい何なのでしょうか? 殺した人数だったり、その殺害の動機、殺害方法、残虐性、被告の性格や反省の度合いといった所でしょうか? 遺族の気持ちはその中に含まれるのでしょうか?裁判に詳しい方がおられましたら教えて頂きたいものです。 キリスト教の精霊や悪霊の概念は、私も承知しております。キリスト教ではそうですが、方や神道では人間が死んで神になっております。 そんなあやふやな宗教の概念では困りますね。 キリスト教の概念と西洋の死刑制度の関係には興味があります。 死刑になるから宗教に帰依するですか。そういう場合もあるのですね。 死期が迫ると戒名を取るのと似ていますね。 でも、終身刑でも、自分の罪深さから宗教に帰依する場合もあると思います。 宗教は生きる為に必要な物だと思います。 「レイルウェイ運命の旅路」という映画をみました。2014年4月19日より全国ロードショー。「戦場にかける橋」と同じ、第二次世界大戦のクワイ河での話です。 イギリス人の主人公が日本の捕虜になり酷い拷問を受けます。その拷問を受けた時の日本人の通訳を偶然発見し、最初は殺害しようとしますが、結局許し、二人の友情は死ぬまで続くという話です。この話は実話だそうです。 何が言いたいかというと、憎しみは憎しみしか産まない、例え自分の肉親を殺されたとしても、許す遺族は存在すると思いますし、許せない遺族も存在するでしょう。 死刑にするかしないかは、その遺族が判断しても良いような感じを持ちました。
- yoh001
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teruneさんは映画もよく観られているようですので、 「マトリックス」も観られたことと思います。 私はそのバイオレンスな部分を除くと、 真理に関するとても示唆に富む内容が散りばめられていると思います。 その中で、モーフィアスがネオにたぶん、 「扉の前までは案内した。私の役目はここまで。これ以降は自分で扉を開ろ。」 というようなことを言ったと思います。 開ける開けないはネオの自由意志に委ねられたわけです。 私宛に書かれた多くのご質問も、「宇宙学」を学べば自分で全て解かることですので、 だいぶ時間はかかりますが、そうされることをお勧めします。
お礼
まず、ご回答者様がこれで3回目のご回答である事を今初めて知りました。 篤く御礼申し上げます。 私も何回も同じ質問に回答する事がありますが、その場合NO.9ですがとか、前振りしてから記述します。 そうすると同じ方の回答だと、分かり易いです。 「宇宙学」というキーワードから「宇宙学」の記述をされた方だと察しは付きました。 しかし、それ以前にも回答をされている方だとはわかりませんでした。 しかし、3回も回答を寄せて下さるという事は、この問題に関して、熱心である事が伺がわれます。 また、私の意見に賛同されている方だと。 本日、袴田死刑囚の48年振りの釈放のニュースが入ってきました。 これも、単なる偶然と言えばそれまでですが、私などは霊界の意志の現れではとか、勝手に解釈してしまうので、霊界も実は死刑に反対なのではと勝手に思ってしまいます。 しかし、今回の袴田死刑囚の釈放は死刑廃止論議に一石を投じるのは、間違いないと思います。 残念ながら、私は「マトリックス」シリーズをちゃんと見ていないのです。部分的にしか拝見しておりません。同じ監督の最新作「クラウドワークス」は鑑賞して、えらく感動しましたが。 回答者様の言おうとしている事は理解出来ます。 なぜ、霊は見えないか?。一部の人には見えているようだが。 それでは、霊の方ではこの世の世界は見えるのか?という疑問もおきます。 「マトリックス」シリーズを見れば、少しは疑問が解決出来るかもですね。時間がある時、「マトリックス」シリーズも見るようにします。 自分は好奇心の塊で、自分から好奇心を取ったら、生きていないのではと思う程です。 しかし、この世の中には知られてはいけない事柄があって隠してあるのだが、それを私は「パンドラの箱」のように開けようとしているのかも知れません。 今回、この質問をしたのは、私の好奇心も原因の一つですが、死刑廃止問題に一石を投じたかったからです。 袴田死刑囚のニュースがこの時期に飛び込んで来たのも、何か偶然ではないような気がしています。 このまま袴田死刑囚が死刑になっていたらと思うとゾッとします。また、袴田さんは恐らくこの世を恨む、怨霊になっていたかも知れません。 パンドラの箱を開けた以上、前へ進むしか道はありません。 「死刑廃止論者に死刑を」なんて質問もありました。まず、死刑を廃止して、なにか不都合があったら、またその時、その対策を考えればいいと思います。 今回も2件の方の回答が削除されてしまいました。どちらかというと、私の意見に反対の立場だった記憶があります。 「宇宙学」に関しては、今回初めて知ったので、少し考えさせて下さい。 以前、とあるサイトで質問したら、とある宗教団体の連絡先を教えられ、研修会の参加を勧められましたが、結局行きませんでした。 このサイトでも「宇宙学」の質問があるかと思って調べてみましたが、ありませんでした。 とりあえず、ご回答有り難うございました。
- jack-a3
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他の方も書いてますが、質問者さんの「死んでも魂は残る説」が正しいとして。 死刑を執行されて死んだ場合と、終身刑で寿命を迎えて死んだ場合とで、どちらも魂が残るのは一緒だということになりますよね?だったら終身刑にしたところで「霊体になって悪さをする」のは一緒じゃないですか? そりゃ死ぬまで時間がかかるから、悪さをし始めるまでに時間がかかるかも知れませんが、魂だけの存在になってからは無限の(?)時間があるから、あまり意味があるとは思えません。 だったらさっさと死刑にした方がコストが掛からなくてよい、という考え方や、あるいは「死んだら魂は消滅する説」が正しいかも知れないからさっさと死刑にしよう、という考え方があるのは認めていただけますか? で、今の日本はそういう考え方をする人が多い、ということだと思います。 ちなみに質問者さんは日本における死刑囚の扱いについて誤解をなさってます。 日本では死刑囚は刑務所にいません。拘置所にいます。 刑務所は裁判で確定した刑罰に基づいて服役する場所。拘置所は刑罰が確定するまで抑留される場所。死刑囚は「死刑」という刑罰自体は確定してますが、その刑罰の実行を待っている状態なので、拘置所に入ってます。死刑執行場は拘置所の中にあります。 そして拘置所にいる人たちには労役はありませんので、死刑囚は労働していません。希望すれば民間業者から委託された内職くらいはできるそうですが、その対価は彼ら自身に支払われます。彼らは税金で生活し、内職でお小遣いを稼いでいるのです。(もちろん、法律を変更すれば、死刑囚も刑務所に入って貰って労役を科すことはできますが) さて。 「死んだら魂はどうなるか?」という問題は、宗教的な立場によってさまざまな答えがあります。 科学的には「肉体が死ぬと精神(心)も死ぬ。魂は存在しない」という立場です。 キリスト教では、死者の魂は死者の肉体と共に留まり続け、何時の日か訪れる「審判の日」に肉体と共に復活する、という立場です。(だから土葬する) イスラム教もキリスト教に似ており、裁きを下すのがアラーの神である、という点だけ違います。 仏教は意外かも知れませんが霊魂の存在を否定しており、この世界で「魂」のみが存在することはあり得ないという立場です。(死後は三途の川の向こう側で49日かけて閻魔様の裁きを受け、生前の罪に応じて次に生まれ変わる世界が変わる、という考え方) 神道では「魂」のみ存在を認め、この世に恨みを持って死んだ人は悪霊、怨霊になるという立場ですが、その恨みを汲み取って供養してやれば怨霊も神になる、という考えです。 このように、世界のメジャーな宗教では「魂」のみがその辺に存在するという主張をしていません。原始的、アミニズムな宗教観でのみ語られる概念です。日本の神道がギリギリその範囲な感じです。 過去世界中にさまざな宗教が生まれ、その中から生き残ったメジャーな宗教において魂のが単独で存在しないという考え方に行き着いている、ということは注目すべきです。 これは、どんな宗教であっても、その宗教の世界感や神との関係を哲学的、理論的に論理武装していくと、魂が消滅も輪廻もせずにその辺に漂うことは認めることができなくなるのではないか、と感じます。 ですので、質問者さんの死生観を宗教として理論化、体系化し、それが説得力を持つと認められれば、かなり画期的なことです。がんばってください。
お礼
理論整然とした文章で非常に感銘を受けました。 有り難うございます。 まず最初の死刑も終身刑も死ねば同じですが、生まれ変わりがあるとして、死刑で死の恐怖を味あわせればいいのか、それともじっくり終身刑で考える期間を与えるのがいいのか、私自身も悩みます。 生まれ変わりがあるとして、生まれ変わる際、前世の記憶は消されてしまう訳なので(幼少期は覚えている人もいるようです。しかし成長とともに忘れてしまう)、結局、殺人を犯した魂は再び殺人を犯す可能性はあるのではないでしょうか? 死刑か終身刑の二者択一になってしまっておりますが、映画「時計じかけのオレンジ」のように、犯罪者に脳手術を行い、善良な市民に生まれ変わらせる事は、現代の脳医学では可能だと思います。 それは国家として、許される事でしょうか? 日本に死刑制度があるのは、明治維新で西洋の刑法を取り入れた為であり、江戸時代ならうち首獄門や島流しの刑などもあった訳ですよね。その時代の刑事罰にも興味があります。 本来、日本人は神道や仏教など、宗教的な民族だったと思います。 それが、何故、人間死んだらそれでおしまいという唯物史観に変化してしまったのでしょう? 現在の死刑制度は唯物史観でないと、理論が成り立ちませんよね。 西洋のキリスト教と何か関係があるのでしょうか? 死刑囚がこの世に祟るとは、明治時代の人は考えなかったのでしようか? 靖国神社に死者の御霊を祀る思想はあるのに。 日本における死刑囚の扱いの誤解の御指摘は「そうなんだ」と納得致しました。 でも、働いたお金が死刑囚の物になるのは何故なんでしょうね。 考えるとおかしな制度って、現在の日本にいろいろありそうですね。 最後の世界三大宗教の死生観ですが、大変参考になります。 私も一時期、プロテスタントのキリスト教会に通った事があるのですが、その教会の牧師さんは「悪霊も天使も、そこいら中にいる」と発言されていました。私は目には見えないが、悪霊も天使もこの世に深く関わっていると理解しました。 キリスト教は土葬との事ですが、日本では土葬に出来るのですか?四ツ谷のキリスト教の書店では十字架の飾られたお仏壇(位牌付き)が売られていました。日本人はなんでも混合するのが好きな民族なんだと思いました。 復活の日に死者が蘇るというのは、現代では非常に非科学的ですね。もう朽ち果てて骨だけの死体がほとんどでは?リーインカーネーションは認めない訳ですし。 仏教も釈迦の教えというより、釈迦の入滅後かなりの年月がたっての教義であり、日本の仏教はさらにそれから年月がたっています。 宗教も大切ですが、私が興味があるのは真実や現実です。 また、人生の体験の中で培って来たものもあります。 父の臨終は感動的でした。当たり前ですが、本当に心臓が止まるんです。今まで何の力が心臓を動かしていたんだろうと思いました。 新しい生命の誕生も感動的ですよね。 霊魂の存在云々は他の質問にもありますので、ここでは省きますが、お墓の概念も樹木葬など、最近変わりつつあり、過去の因習にとらわれない、新たな試みが宗教の世界でも起こりつつあるのではと感じています。 死刑制度も脳死の概念と同じく、霊魂の概念も含め宗教者や霊的能力のある方も加え、議論して良いのではないでしょうか?
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お礼
ご丁寧に有り難うございます。 NO22のお礼で書き忘れた事を追記させて頂きます。 もし、霊的な真実が世間一般の常識になれば、この世から殺人は無くなると思います。 なぜなら、殺人は肉体を殺す事であって、その魂(霊)までは殺せないからです。 肉体の死をもってすべてが無に帰するという、唯物思想こそ、殺人の元凶ではないかと考えます。