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柳生十兵衛の作った短歌の意味
江戸時代の剣豪、柳生十兵衛は晩年に「月の抄」という著作を書いていますが、その中で次のような短歌を詠んでいるそうです。 「たずねゆく道のあるじや夜の杖 つくにぞいらね月のいづれば」 この短歌の意味についてご教示下さると幸いです。私は古文の知識がなく、特に後半がよくわかりません。 質問の背景としては、柳生十兵衛が公儀隠密として暗躍したかどうかについては賛否両論があります。上記の短歌はどこか哀調を帯びていると思われますが、十兵衛隠密説を暗示しているのではないかと推測しております。 以上よろしくお願いいたします。
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「つくにぞいらね」の「ぞ」は「係り結び」でしてそのあとの「いらぬ」というところを連体形の「いらね」に変えてあるわけですね。連体形はそのあとに体言が来るはずの言い方なのに、何時までたっても体言が来ないので不安な心理状態に陥るわけですね。それで強調することになるわけですが、なにぶん50年前に習ったことで、全然自信がありません。しかしそうすると「入らね」(雲に入ってください、という意味であって、自分の部屋に招き入れるのではないですね)は依頼しているわけですから、もちろん連体形ではないですわね。 それから書いてくださった下の句は正確なんでしょうか? むかしの人は濁点をよく省略しましたのでね。濁点をぜんぶ無くして読んでみることも必要かと思います。 それから隠密というのは剣を使わないお仕事ですね。私の感じとしては、剣を使うほうが人生の裏街道で、本来人間のいきかたの本道は剣なんて使わないものだと思っています。 だから「無刀取り」も剣を極めていったら人を傷つけない方法にたどり着いたということですね。 それで公儀隠密というのは情報を収集したり伝えたりする仕事ですから、今で言うSEみたいなもので、剣や暗闇を必要としない人間本来の道だと思います。 この歌も喜びの心を表しているように感じるのですけど、いかがなものでしょうか。
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- void2000
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#1です。 NHKの「宮本武蔵」で石舟斎が武蔵に「無刀取り」をやってみせる場面がありました。石舟斎は藤田まことだったのでびっくりしましたが。 徳川家康とのはなしも聞いたことがあります。家康は剣の極意を国つくりに生かしたのですね。 このように剣の極意が剣以外のものの極意にも通じるということで、剣と言わずに杖といったのだと思います。つまり歌に普遍性を持たせたのですね。だから未熟な状態つまり#2のかたおっしゃられる暗中模索状態で杖を振り回しているのを「夜の杖」といったり、物事が見えてくることを「月の出ずれば」などと言ったのですね。 だから求めるものは剣道だけではなく、杖は剣に限るわけでもないと思います。もっともっと広い意味を持っているようですね。
お礼
なるほど!歌の普遍性ですか! 非常に納得いたしました。 「もっともっと広い意味」こそ(柳生)新陰流のめざすものだったのでしょうね。だから、杖なわけですか。柳生宗矩、柳生石舟斎、上泉信綱の考え方の系譜ですね。 いずれにせよ、人生の裏街道を歩む哀調感といったもの(十兵衛隠密説を暗示するようなもの)とは無関係のようですね。 たびたびのご回答、感謝いたします。 P.S. 藤田まことの石舟斎は、私も違和感がありました。中村主水のとぼけたイメージ が強すぎました。
補足
素人ながら念のため古語辞典を引いてみたのですが、「いらね」とは「入らね」、つまり「(月が)入って下さい」とは解釈できないでしょうか。 「月が出ているようであれば、月よ、隠れてくれ(沈んでくれ)」という意味とすれば、暗闇を必要としている。つまり、隠密として忍びの道を暗中模索しているとも解釈できるように思われるのですが、いかがでしょうか。 蒸し返すようで申し訳ありませんが、どうしても気になるもので書かせていただきました。
- vipula
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十兵衛が詠んだという前提なしに、歌そのものの逐語的な意味を取れば、 真っ暗な夜道を進むには、中心になるのは杖である。 しかし、月が出て明るくなれば、つえをつく必要はなくなる。 ということでしょう。 「杖=剣」ということと、柳生十兵衛が詠んだということを合わせれば、おのずと、1の方の解釈が出来ると思います。 夜道は、いまだ得ていないものを暗中模索している様子の譬喩ではないでしょうか。
お礼
なるほど!ありがとうございます。 逐語的な意味は非常に参考になりました。 解釈の道筋を解説下さってありがとうございます。 暗中模索の剣が夜の杖ということですね。非常に納得いたしました。 ご配慮、感謝いたします。
- void2000
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歌の意味をそそまま読むならば、 「剣道の極意をたずねて行くとき、最初の頃の主役は杖(剣)である。しかし段々と分かってくると(月が出てきて剣の道がはっきり見えてくると)杖(つまり剣は)要らなくなる」という意味でしょうね。 質問にあるような、この歌に隠密としての何かを託したかどうかはわかりませんが、剣が要らなくなるというのは力よりも人間関係とか政治的な方法によって目的を達することができるようになる、と聞こえますね。 自信はありませんが・・・
お礼
おぉー、なるほど! そういう意味なのですか!意外でしたが非常に納得いたしました。ありがとうございます。 というのは、ご存知かもしれませんが、「月の抄」は柳生新陰流の口伝目録二百三十余録を集録し解読した力作ですので、ご回答のような剣道の極意を詠んだものという解釈はぴったりと思います。 また、「剣が要らなくなる」というのは、柳生十兵衛の祖父である柳生石舟斎が編み出した「無刀取り」の極意と思われます。 関ヶ原の合戦前夜、柳生石舟斎は徳川家康に呼び出されます。石舟斎は素手で徳川家康と立ち合い、家康が打ちかかってくる刀を見事に奪い取ってしまったと言われています。この「無刀取り」は当時の家康の考え方に大きく影響を与えたとする説もあるようです。つまり、秀吉が亡くなった後、無益な戦いを極力さけてどのように泰平の世を築くか、と家康は苦慮していたとする説です。 ところで、念のため確認させていただきたいのですが、「たずねゆく道」が「剣道」であるという解釈は、「杖」が「剣」であるという解釈によるわけですよね。それ以外に何か根拠はあるのでしょうか。というのは、「夜の杖」という言い方がちょっと気になっております。 いずれにせよ、ご回答下さって大変感謝しております。ありがとうございました。
お礼
たびたびのご回答、感謝いたします。 なるほど、連体形による強調なのですか。 下の句の正確さですが、この句の存在は永岡慶之助氏の長編小説「柳生十兵衛」で知りました。この中で書かれている句としては間違いありません。ただし「月之抄」の原文についてはわかりません。ちなみに永岡氏は上記小説の中でこの句の感想として、青春時代を西国隠密に過ごした十兵衛の虚無にもかよう心事が低く暗い旋律をかなでているようだ、と述べています。 SEみたいなものですか。なるほど、システム分析などは確かに諜報活動の変形といえますね。そういう意味では殺人剣の道よりは、はるかに人間的かもしれませんね。