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教会は 見えざる教会にすればよいではないか
教会は 目に見えない教会というかたちを採ればよいのではないか。 これを問います。
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noname#190974
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noname#190974
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noname#190974
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お礼
ええっとですね。この主題ないし問題は 理論的に整理できているものです。そう考えているものです。 まづは ご回答をありがとうございます。 すなわち 結論としては もし宗教が オシエを信じることを基本の活動としてかかげているとすれば それは 実質も実態もあり得ない誤解の上に成り立っている。というものです。したがって 教会は その活動の一環ですから おかしい。という物言いです。基本的に・根本的にマチガイとして 現象しているのではないか。と言っています。 1. 世に 世界観を成す思想はあります。特には倫理を説いた思想としての《オシエ》もあります。 2. 思想ないしオシエは 人間が《考える》ものです。経験合理性にもとづき 特には排中律を活用して 論理的に――または非論理的にさえ人間にとって総合的全体的な――合理性なる内容を問い求めるイトナミです。 3. この世には ナゾもあります。そして いづれは人間によって知られるであろうという未知としてのナゾではなく・また既知であるが なおその認識内容は 相対的で有限である(変更されうる)という意味でのナゾでもなく・さらには これは人間には知り得ないと知ったという不可知としてのナゾでもなく ――という意味は けっきょく経験事象としてのナゾではなく―― そうではなく それが人間に知り得るか知り得ないかが知り得ないというナゾがあります。これは 《非知》であり 《非経験の場》と呼ぶべき領域としてのナゾです。 4. 《非経験の場》なるナゾは ひとは それをそのまま受け容れる(かまたは 退けるかする)ものです。退ける場合も この非経験の場なるナゾに触れた・かかわったという経験を持ったことになります。つまり この《受け容れる》行為が 考えるではあり得ないところの《信じる》です。(《絶対》と人間との関係では そういうことになります。人間がこれを否定しても 絶対は何の痛痒も感じません)。 5. 《信じる》行為には そのナゾを信じない(受け容れない)としてかかわった・つまり信じたという場合もあります。なぜ《信じた》になるかと言えば 《退けた》という意志行為によって そのナゾとわれとのかかわりを持ったからです。 6. この非経験の場なるナゾが 神のことです。したがって 言いかえると 神は 信じる(受け容れる)にしろ信じない(こばむ)にしろ そのナゾとおのれ(人間)との関係が成り立つという絶対の世界(非世界)であると想定されます。 7. これらの前提に立って言えることは 次です。 非経験の場なるナゾ:神・・・・・信じる(信仰) 経験事象なるナゾ:オシエ・・・・考える(思想) 8. すなわち 世界にはいろんな名の神があるけれど いづれの神にせよ神(もしくは 無い神)を受け容れる信じるという行為(信仰)もあれば 思想やオシエを考えるというイトナミもある。そのとき この世に《オシエを信じる》という行為は ほんとうには ない。これです。 9. もう少し微妙なところにも触れますが たとえば アブラハムは その世のナラワシの中で まだ一人しかいないわが子(嫡子)のイサクを 長子ゆえに初穂として いけにえというかたちで神にささげるという難題を持ちました。悩みに悩み惑い考えに考えて出した結果は あるヒラメキとして《ひとは ひとを――自分をも他人をも―― ころしはしない》でした。 9-1. やがてこのアブラハムが得た直観は モーセによって集団の規律・秩序をもたらすために法律として《なんぢ ころすなかれ》というかたちで表現され持たれました。つまり このヒラメキ内容は すでに《考える》を絡ませているからには 思想であり律法としてはオシエです。 9-2. けれども そのヒラメキの内容は 思想としてみた場合 必ずしも経験合理性において人間が分かるかたちではない。なぜ殺してはいけないかは なおナゾである。とすれば この直観は それが何であるかが分からない直感としてひらめいたものであり その淵源は 《神とわれとの――非思考の庭における――かかわり》にあると推し測られる。 10. つまり こうである。 (あ) アブラハムにおいて まづいづれかの時に成った《神とわれとの関係――わが心なる非思考の庭――》が 動態としてある。これが 《信仰》である。 (い) この信仰という動態において かれは直感を持つ。その混沌たるイメージの中から 論理的な内容を――直観として――得る。それが 《ひとは ひとをころさない》という命題である。 (う) すなわち ヒラメキが 思想となった。そしてさらに《なんぢ ころすなかれ》なる倫理思想となれば オシエに成りうる。 (え) これらの一連の過程にかんしてそこから ふたつの要素が取り出される。ひとは《神を信じる》という要素と《思想・オシエを考える》という要素とであり これらふたつは 互いに中身が別である。つながっているとしても 互いに別のふたつのコトである。 (お) すなわち従って ひとは《オシエを信じる》ことは ない。あり得ない。矛盾している。せいぜい つよくそれがただしいと思う(あるいは 時には思い込む)といった中身を 文学的表現(単なる強調表現)として 言い表わすに過ぎない。 11. ところがここで 世にある一般に組織を持った宗教は 《オシエを信じる》という看板をかかげている。オシエを神としている。あやまっている。 12. 教会は この組織宗教の一環として成り立っている。ありえない。 ★ さあ、どうでしょう、「〔目に見える教会を〕すべて変える」というのは、やはり非寛容で非現実的な気がします。 ☆ 《変えないで 矛盾をふくむあやまちを見過ごす》ほうが 相手に対して失礼でありつめたい心であり 愛に欠ける行為である。これです。 ★ (ここで理想論を語るだけに留めるというのであれば話は別ですが) ☆ 理想論でも何でもないことを るる説明したつもりです。いま現在をも含めてこれまでの歴史が 全部と言ってよいほど この宗教というナラワシとしては あやまっていたのです。 ★ 歴史的な重み〔のある行為としての〕救貧 ☆ この活動は 基本的に 宗教とは何の関係もありません。宗教組織がおこなうのは 趣味であり自己宣伝です。 オシエにはかかわっていることでしょうが 《信じるべきオシエ》とは何の関係もありません。考えるべき思想とはかかわります。ですから 《宗教》とはいっさいのかかわりを 本来持ちません。 あるいは個人の信仰とも 間接的に かかわっていますが 《オシエを信じる》宗教というのは ただのマボロシでありマヤカシであるのですから かかわりません。これまでの歴史においてこのマボロシが大手を振って町をあるいていた。というだけのことです。 この問いの中身は ふつうに自然の状態にもどそうという提案であるに過ぎません。 ★ 内村鑑三 ☆ は――推測していただいたように―― あまり褒めたクリスチャンではないと理解しています。儀式にこだわって――つまりたとえば 一般的な言い方として・対立する相手が差し出す《踏み絵》というかたちにこだわって(つまり何でしたか 《不敬罪》にかかわる儀礼でしたかのその儀礼行為にこだわって)―― 信仰の中身を台無しにしたのではないか。こう思います。 かたちないし偶像としての踏み絵などは 何万回でも踏めばよいのです。非思考の庭とは何の関係もありませんから。 ★ 冠婚葬祭 ☆ とのかかわりは 教会が自己解体して行けば 独りでに 解決します。 こういった人生の節目の儀式は 無宗教において人びとがみんなで集まってふつうに自然に考えたかたちや内容としておこなえば どれほどあたたかくたのしい行事であることかと思います。手作りがいいでしょう。(手作りの延長としての事業会社があってもよいでしょうが)。 問題は ことほどかように 単純なるジョウシキ問題だと見ますが どうでしょう。
補足
みなさんとのあいだで きわめてたのしく 有益なやり取りが出来たのではないかと思っています。 (申し訳ないですが 基本的なまとめを書き込めたということもあり このやり取りを BA としました)。 さらに次の問い求めにすすみたいと考えます。 ありがとうございます。