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教会は 見えざる教会にすればよいではないか
教会は 目に見えない教会というかたちを採ればよいのではないか。 これを問います。
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>少々反論するなら >目に見えるかたちのある教会はすべて変えるという方向です。 さあ、どうでしょう、「すべて変える」というのは、やはり非寛容で非現実的な気がします。 (ここで理想論を語るだけに留めるというのであれば話は別ですが) キリスト教の布教を受けて建てられたという点ではヨーロッパも日本も変わりありません。 ただ、ヨーロッパの教会の歴史的な重みは、数世紀前まで主だって果たしてきた救貧という点においても、日本のそれとはとても同次元では語れないと思っているまでです。 先のサイトの5の「教会と信仰生活」にて内村鑑三に触れてありましたね。 内村鑑三の思想もbragelonneさんのご主張のいずれも、共に何らかの事情によって今ある既存の教会の扉の外にいる人々に向けたまなざしのようにも映り、、ああでも、ちょっと違うような気もしなくもないです。 >☆ なお楯突きますが 冠婚葬祭を 教会ないし宗教がおこなわなければならない謂われは いっさいない。こう考えます。 そうかもしれません。 でもどうやら楯突く相手を勘違いなさっているようです。 地元の教会で挙式の折、クリスチャンの花嫁花婿をはじめ親戚の方々にそのように諭してさしあげるべきでしょう。
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- a_hona
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教えを通して神を知る、くらいが妥当な物言いかなと思いました。 教えを信じるというのであるならば、自立しているとは言えず、教えに従属した状態を意味しうる、、か? 難しいですねえ。言葉の用法は。なまじ教えを信じるという言い回しは世間に浸透していますから。ブラジェロンヌさんの啓蒙は続きそうですね。
お礼
まぁ そういうふうな情況であり事態であるように思えます。えらそうに言うならば。 ご回答をありがとうございます。 ☆☆(No.5お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~ 9. もう少し微妙なところにも触れますが たとえば アブラハムは その世のナラワシの中で まだ一人しかいないわが子(嫡子)のイサクを 長子ゆえに初穂として いけにえというかたちで神にささげるという難題を持ちました。悩みに悩み惑い考えに考えて出した結果は あるヒラメキとして《ひとは ひとを――自分をも他人をも―― ころしはしない》でした。 9-1. やがてこのアブラハムが得た直観は モーセによって集団の規律・秩序をもたらすために法律として《なんぢ ころすなかれ》というかたちで表現され持たれました。つまり このヒラメキ内容は すでに《考える》を絡ませているからには 思想であり律法としてはオシエです。 9-2. けれども そのヒラメキの内容は 思想としてみた場合 必ずしも経験合理性において人間が分かるかたちではない。なぜ殺してはいけないかは なおナゾである。とすれば この直観は それが何であるかが分からない直感としてひらめいたものであり その淵源は 《神とわれとの――非思考の庭における――かかわり》にあると推し測られる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- a_hona
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難しいところに来ましたね。 教えの奥にある何かを感じ取るので信仰の対象になるわけですが、そのレベルでは宗教組織のヒエラルキーに関わらず、個の深い内面の世界の話となってきます。つまり、法王であれ一信徒であれ平等、同じレベルであるということです。私も信仰とは個的なものと考える方ですが、悪しき弊害はあれど弱者救済などの役割を担って来た教会をはじめとする宗教組織の全てを弾劾することはできません。そこには確かに、同じ教えを持つ人々の集団があったからこそできた業もあるからです。 しかし、不正の起こりやすい体質というのはあるでしょう。そこは明らめて糾弾されてよいと思います。 教会のヒエラルキー、なんと俗っぽいことかと感じますが、そういう事情もあるのですね。 信仰は、言葉を超えた世界であるから、教えに先立ちうるものであるとの考えには共感できます。しかし一方で、教えがそのきっかけを作っていることも事実です。教えは言葉によって成立しています。そういえば聖書のはじめに、言葉は神であった、との記述がありますね。そういう意味では、教えを信じるというのはあながち間違いではないとも見れます。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 悪しき弊害はあれど弱者救済などの役割を担って来た教会をはじめとする宗教組織の全てを弾劾することはできません。 ☆ (あ) 《悪しき弊害》を問題とし批難しているのではないのです。その弊害が 一般組織よりは宗教組織においてのほうが 権限関係の強さ・固定制において 出やすいし 出るとそれを改めようとする自浄作用がはたらきづらい。つまり 隠蔽体質が よりいっそうつよい。――こういう批判内容です。 (い) 《弱者救済》は 宗教組織とは関係しません。そういう歴史的事実が色濃いとしても そのつながりには 何ら必然的なものはありません。せいぜい自己宣伝や自己顕示欲のなせるわざであると見られます。 (う) つまり言いかえると 神を信じるという信仰と 弱者救済のイトナミとは 大いにつながっています。神のもとに互いに対等な存在として 弱者も強者もあると見ることから 思いやりを持つことは自然であるというつながりがあります。 (え) あるいは 心の奥底の信仰までを問わないとしても ふつうに倫理思想の問題として 自由・対等を信念としていれば その思想(その意味でオシエ)と弱者救済とは 必然的なつながりがあります。 (お) つまり 弱者救済は 信仰ともそして倫理思想(オシエ)ともそれぞれ必然的なつながりがあります。けれども 《オシエを信じる》という宗教とは 何のつながりもありません。と言うより 《オシエを信じる》ということに何の実態もないのです。 (か) ですから 《宗教組織を弾劾する》と言うよりは 宗教がかかげる《オシエを信じる》という看板をとがめています。 (き) 宗教組織ないし教会という制度には よい面もあるし悪い面もあるといった見方は問題ではなく そもそもその成り立ちが 現実に理解しうるものであるか? と問うています。成り立ちが マヤカシであると批判しています。 ★ そこには確かに、同じ教えを持つ人々の集団があったからこそできた業もあるからです。 ☆ つまりですね。 (く) そういった弱者救済といったワザにしても 倫理思想としての《オシエ》にもとづきおこなえると言えますし また 神を《信じる》ことに立っておこなうこともあり得ますが 《オシエを信じる》宗教によって実現されるということは 表現じたいがおかしい。と言っています。 (け) 《オシエを信じる》ということは あり得ません。おこなうことが出来ません。 ★ 教会のヒエラルキー、なんと俗っぽいことかと感じますが、そういう事情もあるのですね。 ☆ (こ) たぶん その俗っぽいことが日常のほとんどを占めており 一般の人びとや組織とおおむね同じくらいに普通である部分が 少しある。というのが 実情なのではないでしょうか。 (さ) もしそうでなければ その聖職者は ウツになったりするやまいを病んでいるのではないでしょうか。つまり内向的かつ内攻的な人は 病いに落ち入り そうでなければ《俗っぽくあくどいこと》を多かれ少なかれ犯しているのではないでしょうか。(推測で言っていますが)。 ★ そういえば聖書のはじめに、言葉は神であった、との記述がありますね。そういう意味では、教えを信じるというのはあながち間違いではないとも見れます。 ☆ ええっとですね。 (し) 《神》というコトバ これは 神本体についてそれを問い求めるための補助線です。 神本体は 分かりません。つまり 非知ですから 分かるか分からないか それが分からないナゾです。 (す) このナゾを 《言葉》だとか《光》だとか《生命》だとか・・・とさらにいくつかの補助線を用いて指し示そうとしている。ただこれだけのことですよ。 (せ) もし ★ オシエを信じる ☆ とどうしても言いたいというのであれば 《オシエをとおしてそのオシエが補助線として指し示す背後なる神本体を信じる》という意味だと言わなければなりません。
- a_hona
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教会は集会所ですか。その機能ももちろん付託されていると見ます。 ところで、宗教の悪どい部分は、支配や権力と言ったものと癒着した部分であると思います。そもそも、人が人を支配するということ自体が認められないと私は見ます。従って権力そのものを私は認めません。人は一人分、つまり自分自身のみの自由を行使するのが充分でありまたその限界でもあるでしょう。他人の自由を制限する権力は、全くもって出しゃばりなのです。権力と引き換えに課せられる責任も、一人の人間には持ち得ません。ですから、私も、教皇が支配するキリスト教のヒエラルキーについては全く無関心で、興味がありません。サン・ピエトロ寺院は立派だとは思いますが。それでも、荘厳な教会堂と、聖者の訪れた民家では、後者の方が支持を集めるとは思います。しかし今改めてみると、荘厳な教会堂が表現しようとしていることに思いを馳せれば、一概に見下すことはできず、むしろ人間精神のある高みに達しているのではないかとも見れます。
お礼
ご回答をありがとうございます。 1. ★ 教会は集会所ですか。その機能ももちろん付託されていると見ます。 ☆ ええっとですね。こういうことです。 集会所があり そこで聖書の勉強会が開かれます。《オシエ》についてもまなびます。 ところが このオシエを神としこれを信じるという行為は あり得ない。そのための聖職者もあり得ない。こういう物言いです。 2. ★ ところで、宗教の悪どい部分は、支配や権力と言ったものと癒着した部分であると思います。 ☆ これについても 前項と同じようなことが言えます。 人びとの集まりがあり 組織が出来ます。そこでは 役割りが分担され 役割りに応じて権限関係が決められます。(むろん 責任もともないます)。 そこで組織一般についてみるなら 権限の乱用によったりして あくどいことをやる場合も出て来ます。 問題は 宗教組織とそれ以外の一般の(営利・非営利をふくめた)組織とで 別だというところにあります。 一般の組織では 権限関係が取り決められていて これにもとづきその権限の実行が それを受け身で受け留める側をもふくめて おこなわれます。一般に上位の役割りをになう人が その意志決定を――むろんその権限として――担っているわけですが これについて物言いをつけることは 割り合い自由に出来るのではないでしょうか。 2-1. 宗教組織では どうでしょう? やはり自由に物言いをつけることが出来るとしても 問題は 上位に行けば行くほど権限は 《聖化》され絶対化されていることにあります。ヒエラルキアつまり 聖職(ヒエロ)としての権限(アルキア)の階層として成り立っていることにあります。 オシエを信じるといったことが そしてそれが上位者の意向として表明され要請されることが 理屈抜きで・批判の問答無用において ただしいと信じられ実行がせまられる。ことにあります。 すなわち ひと言で言えば 組織の権限を乱用・悪用することから来るあくどい部分というのは 一般組織と宗教組織とでは おそらく天と地との違いがあるのではないか。というウタガイです。 この意味では ★ ですから、私も、教皇が支配するキリスト教のヒエラルキーについては全く無関心で、興味がありません。 ☆ という発言には 何か隠し玉や隠し味があるのでなければ 納得がいきません。 3. 前項をめぐる具体的な事例 3-1. 地位・権限を悪用する体質 ▲ (ヰキぺ:カトリック教会の性的虐待事件) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%81%AE%E6%80%A7%E7%9A%84%E8%99%90%E5%BE%85%E4%BA%8B%E4%BB%B6 § 2 経緯と影響 2010年3月、ニューヨーク・タイムズが、ベネディクト16世自身が枢機卿在任時代に司祭の虐待事件をもみ消していたという疑惑を報じたことにつき教皇側が強く反発したことから、同年3月28日にはロンドンで教皇の退位を要求する抗議デモが行われ、3月30日には、アメリカ合衆国の弁護士が、教皇が司祭による性的虐待を知りながら事件を隠匿したとして、教皇を証人として出廷させるよう裁判所に要請した。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 3-2. 不祥事の隠蔽体質 ▲(ヰキぺ:ベネディクト16世 (ローマ教皇)) ~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8D%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%8816%E4%B8%96 § 2.11 不祥事 § 2.11.2 マネーロンダリング またバチカンではマネーロンダリングが問題になっており、EUからも法の不備の指摘を受けてきた。2009年にJPモルガン・チェース銀行はミラノ支店のバチカン銀行の口座を閉鎖した。開設から短期間で口座から15億ドルものカネが他の口座に送金されており、それも毎日閉店時には残高がゼロになっていたことを疑問に思った同銀行がバチカンに回答を求めたところ返答がなかったためである。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり あくどい事が起こる問題を超えて宗教組織は その犯罪行為が隠蔽されやすいという問題があります。権限階層の問題です。オシエを信じるということから来る問題です。 4. 建築物の美 ★ 荘厳な教会堂が表現しようとしていることに思いを馳せれば、一概に見下すことはできず、むしろ人間精神のある高みに達しているのではないかとも見れます。 ☆ 芸術美は 宗教と関係しているか? おそらく建築設計者らの《信仰》とはかかわっているはずですが オシエを信じる宗教とは 何のかかわりもない。こう決めつけてよいのではないか?
- 0fool0
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>いくらか中身のある対話ができればよいというコンタンです。 すでにほかのご回答においてそれは出来ていますよ。 ほらね。 対話しかしていない。 井戸端会議をしたいのならば、他者をなじる様なテーマを出すべきではないです。
お礼
わたしの中では 対話 = 井戸端会議 です。 ★ 他者をなじるようなテーマ ☆ 表題でひとをなじるといけないという意味ですか? つまり やり取りの中で・その情報交換をする過程では 互いに自由に批判しあってもよい。でしょうか。 なじると批判するとは 差が紙一重でしょうか。 ご回答をありがとうございます。
どうぞbragelonneさんのお好きなように。 三寒四温の折、お体ご自愛ください。
お礼
ありがとうございます。 いまや 春ですね。(と まだ言えないところもありますが)。 春告げ鳥と自称していたことがあったものですから ひときわ反応がつよいです。 春を告げつつ 何もしないたたかいを闘っていたなら いつかは山の上でも身を乗り出して踊り始めて来るでしょう。 ひとこと余計でした。 ご回答をありがとうございます。
- 0fool0
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>おおそうだか いやいや その必要はない いまのままでよいか これでは問ではなく、ただのアンケート。 貴方は誰かに言われて、容易く己を変える人間ではないでしょう。 ならばこの問い掛け(意見の収集)が、貴方にもたらす価値を考えなければいけません。 多数決をしたい訳ではありますまい。 他人がどうだったら、己はどうするでもないでしょう。 もし、この質問を貴方が「良」とするならば、私の愚見も何の意味も成さないでしょう。
お礼
☆☆(No.2お礼欄) ~~~~~~~~~~~ 回答は おおそうだか いやいや その必要はない いまのままでよいかになると思います。 その理由をめぐって いくらか中身のある対話ができればよいというコンタンです。 どうでしょう? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つまり ☆☆ その理由をめぐって いくらか中身のある対話ができればよいというコンタンです。 ☆ ですよ。 すでにほかのご回答においてそれは出来ていますよ。 ご回答をありがとうございます。
- a_hona
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私は逆に、目に見えない教会、つまり精神的なものが、外的に形を現したものが教会ではないのかと考えたのですが。 ですから人がそこで精神生活をおくるのは自然なことのように映ります。餅は餅屋ですね。 以前私は、教会堂は人間の(精神の)形をしているのではないかと考えたこともありました。 洞穴で修行する時代から、お堂を建ててそこで祈るようになった、のかな、本質的には変わらないように思います。 心の居場所を求めて、洞穴に入った人と、教会堂で祈る人と、特に外的に、特別な場所を必要としない人などいろいろ居るのでしょうが。特別な場所を必要としない人は、何かしら世界に自分の居場所というものを感じているので、そうなのかなと思います。そういえばブラジェロンヌさんは、思考の緑野とか、感性の原野とか、あとは、非思考の庭ですか、精神構造を外のフィールドに喩えることがありますが、そういう意味では、ご自身の精神構造と、外の世界の構造とを比類している事によって居場所を見出してるのかなと思いました。ですが下記の方も仰るように、皆が皆そのようであるべきかというと、それを強要するのは無理というものでしょう。 興味深いのは、もし(目に見えざる)教会が、ブラジェロンヌさんの心のなかでは何かの位置を占めているのならば、それはどういうものかということです。 星空のようなものですかねぇ。そうならばロマンティックですね。ちなみに私の心的世界は星空や夜の海、といった形容です。キリスト教の清廉としたイメージも好きです。キリスト教的に喩えるなら、私にとって(目に見えざる)教会とは道のことであり、自分自身の居場所のようなものです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 とりあえず No.5でのやり取りをごらんください。 少し時間をもらってそのあと 応答してまいります。(補足欄にて)。
補足
そうですね。今回のご回答は かなり良心的な人びとにウケル内容だと思います。と――まづは ご回答をありがとうございます―― ショウジキ話をしるしてまいります。あたまに二文字がつくとしても。 ★ キリスト教的に喩えるなら、私にとって(目に見えざる)教会とは道のことであり、自分自身の居場所のようなものです。 ☆ 一般受けする内容だと思います。 あるいは同じ趣旨になりますが: ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 興味深いのは、もし(目に見えざる)教会が、ブラジェロンヌさんの心のなかでは何かの位置を占めているのならば、それはどういうものかということです。 星空のようなものですかねぇ。そうならばロマンティックですね。ちなみに私の心的世界は星空や夜の海、といった形容です。キリスト教の清廉としたイメージも好きです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここら辺も クリーンヒットでしょうね。 ただし 言っときますが――No.5でもやり取りしていますが―― じつは ★ キリスト教 ☆ というのは ほんとうには あり得ません。言葉の矛盾です。 あるのは キリスト信仰か または 聖書の倫理思想や世界観かです。 後者についても その内容をオシエとするだけなら だいじょうぶなわけです。 だめなのは そのオシエを――キリスト教と言うようにして――信じるべき教義もしくは神とすることです。それを ヒエラルキア組織において《実践する》宗教 これが 悪の元凶です。 むろん 仏教もしかり イスラーム(帰依を意味する言葉で 或る種の言い方として 《あまえ》)と言えばいいものを わざわざ イスラム教と言ったりするのもしかりです。(《聖なるアマエ》なら 言わば《非思考の庭》なる動態のこととして捉えることが出来ます)。 オシエは ぜんぜん関係ない。または オシエであったとしても そのオシエが指し示す神を信じるのであって オシエを信じるわけではない。 《キリスト教》という言い方は まさに《マルクス教》と言うのと同じようなものです。マルクスの思想については 《考える》ものであり それと同じように聖書の思想は やはり考えるものです。 マルクスの思想を奉じるひとは だいたい《無い神》を信じるところの《無神論》としての信徒です。 つまり 《無い神》を信じつつ マルクスの史的唯物論なる思想について考えるわけです。 キリストの神を信じつつ 聖書に書かれたオシエないし思想についてはこれを考えるのです。 《キリスト教を信じる》などというのは きびしく言えば精神錯乱に落ち入ったものの言い方をしているわけです。ありえないことを内容として表現しています。 イメージとして ひとつに 聖なるアマエ と出しましたが もうひとつイメージとしては こうです。つまり: 心なき 身にも あはれは 知られけり 鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ ★ 私は逆に、目に見えない教会、つまり精神的なものが、外的に形を現したものが教会ではないのかと考えたのですが。 ☆ これにつきましても 問題は 《教会》と言ったときには 《オシエを信じる》といったマヤカシのマボロシがついてまわりますから やっかいです。 いっそのこと村の鎮守の森を成す神社のような――ような です――寄り合いが出来る場なら よいかと感じます。そういうイメージです。身と心とを分けません。ただふつうに自然に人びとがあつまって来るその場です。コミュニティセンターと言うんでしょうか。 ★ 心の居場所 ☆ というときにも 身と心とを分けません。身と心とから成る自然本性としての存在 そういうワタシたちが 自由にあつまる場のことです。独りでいても あつまっている感じがするとよいかも知れません。 ★ 餅は餅屋ですね。 ☆ というまでの段階には達しなくてよいと考えます。素人たちが 互いに自由にあつまる場を設計しみなで建てる。そういう寄り合いの場がよいのではないか。餅屋がつくった餅でなくてもよいのではないか。と。 ★ 教会堂で祈る人 ☆ いえいえ。祈るときは このときばかりは 独りでです。誰もいないところでです。そう決まっています。その姿をひとに見せる必要はないし 見せるのはおかしい。 ★ そういえばブラジェロンヌさんは、思考の緑野とか、感性の原野とか、あとは、非思考の庭ですか、精神構造を外のフィールドに喩えることがありますが、 ☆ 人間の存在についての自然本性の中身を分析して示すことがあるわけですが けれどもふつうに《居場所》というときには ふつうに身と心とを分けないでそのままの姿で 仲間とあつまる場。《自由の庭》といった家が それぞれの町にあるといいでしょうね。 ★ 興味深いのは、もし(目に見えざる)教会が、ブラジェロンヌさんの心のなかでは何かの位置を占めているのならば、それはどういうものかということです。 ☆ この趣旨を主題として・つまり問い求めの課題として みなさんに質問をしてみるのもよいかも知れません。いいアイディアが寄せられるかも分かりません。 こんな感じです。
- dropyork
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論語にある。「考えをいじっても仕様がない」と。 用い方を誤ると価値なし、害がある。違いますか。 聖書を探求するという行いはそれは価値があるが、2歩以降はおもちゃ扱い。 好きなようにしている。自己がすばらしいと思っている。 バカはよく分からない。申し訳ない。
お礼
★ 違いますか。 ☆ 違います。 どう違うかは たとえば回答 No.3でのやり取りを見てみてください。 まづは ご回答をありがとうございます。 ★ 2歩以降はおもちゃ扱い。 ☆ 二歩というのが 分からないのですが。・・・ このような内容については 批判にすらまだ成っていないのですから 次のように問い返すとよいかも知れません。 ★ 聖書を探求するという行いはそれは価値があるが ☆ とおっしゃいますが いったいどういう価値がありますか? それともそのことは自明なのでしょうか? ★ 自己がすばらしいと思っている。 ☆ ここを見ると どうも心の奥底では そのとおりだという賛成票であるようです。ありがとう。 実現するといいですね。
こんにちは。 初期キリスト教時代以来の教会の歴史をふまえ、今後見えざるかたちは有り得るかとか、針を戻し過去に見習うべきかとか、そういったことを話し合いたいとお思いなのでしょうか。 http://www.ozawa-katsuhiko.com/10christ_hikari/christ_hikari_text/christ_hikari01.html 私は十代の頃、無宗教と公言していたせいもあって、友人とその家族にクリスマスのミサに誘われたことがあります。 フランスとスイスでしたが、後者はカルヴァンの流れを汲む山間の小さな教会で、とても清廉潔白な空間だったことを今でもおぼえています。 当時に比べ、今ではまた一段といわゆる教会離れが進んでいるみたいですね。 ただ、もし見えざる教会のありようを模索するにしても、洗礼を含め冠婚葬祭をはじめ属する信徒の方々の共同体的役割がある以上は、既存のものを解体すべきとまではとても言い難いものがあるように思われます。 その地域とのかかわりの問題ですね。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ★ 初期キリスト教時代以来の教会の歴史をふまえ、今後見えざるかたちは有り得るかとか、針を戻し過去に見習うべきかとか、そういったことを話し合いたいとお思いなのでしょうか。 ☆ 問いそのものに即してその内容をさらに具体的に述べるとすれば こうなります。 すなわち 現在《教会》と呼ぶ集会が 宗教組織としてあるわけですが これを《見えざる教会》として衣替えするのは どうか? と問うています。この額面どおりの意味です。 その単純さを活かして少々反論するなら 一定の具体的な教会が ★ とても清廉潔白な空間 ☆ であるかどうかにかかわらず 目に見えるかたちのある教会はすべて変えるという方向です。 さらに嫌味のつよい言い方をすれば ★ 当時に比べ、今ではまた一段といわゆる教会離れが進んでいるみたいですね。 ☆ という傾向や思潮とも少し違って 次のような方向にあります。すなわち いまある教会は 目に見えないかたちに変え いま教会離れをおこしている場合には それでも《目に見えざる教会のもとに こころが あつまる》かたちを採るということ。です。そういう質問になっています。 ★ 洗礼を含め冠婚葬祭をはじめ属する信徒の方々の共同体的役割がある ☆ なお楯突きますが 冠婚葬祭を 教会ないし宗教がおこなわなければならない謂われは いっさいない。こう考えます。 先日テレビで 筑波山の蝦蟇の油売りが いまでもいると知りました。腕を刀で斬って血を流す芸当を受け継いでいるようです。血が止まるだけではなく 傷が瞬く間に直るというのは ウソだそうです。それでも《伝統》であって 伝統は守らなければならないという考えの人びとがいるようです。その程度は 残っても数に入りません。 ★ 既存のものを解体すべきとまではとても言い難いものがあるように思われます。 ☆ これは 《自己解体》です。 ● 小澤 克彦(岐阜大学・名誉教授):10.キリスト教の光と影 - 1. 初期キリスト教の異端 ☆ について考えるところを述べます。 まづ ● ここでは「信仰」の立場ではなく「思想史」的に扱っている ☆ という前提だそうです。言いかえると もし《信仰》という観点から扱うならば たとえば一つの議論として いまこの質問・《教会は 見えざる教会にすればよいではないか》といった主題になるのではないかと考えています。 ● 初期時代のキリスト教会派の立場の大枠 ☆ についてコメントをします。 ● 1. パウロ主義 ☆ これは パウロ自身が言った・主張したということはいっさいありません。 アポロ派だパウロ派だというのはあり得ないと言っています。 ▲ (パウロ:コリント前書 1:1-18) ~~~~~~~~ 1:10 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。 皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それでも後世において 《パウロ主義 ないし パウロ派》の分派活動が現われました。これが 信仰の次元と問題ではなくなり 思想やオシエ(これも思想)を信じるというマチガイを侵し続けている宗教という分野において出来た社会運動であるはずです。 宗教(組織宗教)とは 群れたがりが群れたもので なぜ群れるかと言えば そのヒエラルキア組織における階層権限にもとづき 支配欲によって支配された人間がその欲望を満たしたいという集まりです。また おまけに金儲けがついて来るようです。 ● 2. グノーシス主義 ☆ これは 結論のみを述べますが 善悪の互いに対立すふたつの神を立てる・もしくは 神々のあいだに権限やチカラの差を持った神をそれぞれ規定して立てている。これは すでに《神の名をそのまま受け容れる信じるという行為》の対象ではなくなり 人間が理性において考えその内容をも具体的に規定した神(神々)となっている。 たしかに論者が言うようにこれは 《信仰》の問題ではなく 《思想史》の分野で扱われているというそのとおりのことだと見られます。 ● 3. マニ教 ☆ これは その《信徒》になると きわめてしつこい論理を駆使するようになるようなのですが はっきりと善悪二元論そのものです。 善神が一元でそれと相対立する悪神が もう一元だとすると――つまり そう言っているのですから―― 元ないし神は 絶対であるからには それでは善神と悪神と対立するとき いったいどちらが勝つのかと問わなければならなくなります。《矛盾》のたとえのようなことになります。 どっちが勝手もおかしいでしょうし 仮りに引き分けだったとすれば けっきょく二元ではなく やはり一元論でなくてはならないということになります。 一元の中に――たとえば主宰神ブラフマンのもとに 破壊の神シワと創造ないし維持の神ヰシュヌとのさらに二神がいても おかしくないように―― いくら分身としての神々がいると見ても それはそれで ゆるされるということだと思います。 ● 4. ユダヤ教主義 ~~~~~~~~~~~ 結果的に「キリスト教正統派」となった共同体の立場であり、今日にまで続いてくるキリスト教の基本的立場となります。 ここでは、イエスが救世主キリストであることは「ユダヤ教聖書に予告」されているとします。従ってイエスの神とユダヤ教の神は全く無矛盾的であり、ただユダヤ教徒の誤解の解釈があったに過ぎず、ユダヤ教の神とはイエスの神にほかならないとします。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このようにわたしも理解していますが これを《ユダヤ主義》と言うとは知りませんでした。語弊があるように思います。イエスを神の子キリストとは認めない派だなと受け取ってしまうと思われます。 あとはですね。たとえば ● イエスこそ「メシア・救い主(キリスト)」であったとして共同体を結成し伝道を開始します。 ☆ というように あくまで《思想史》の立ち場からの歴史理解であると考えます。 つまり《信仰》の立ち場に立ったものではないということですが それは 信仰としては 《キリスト》を 《救い主》と言ったりすることは ほとんど関係ないと見られるからです。《神の子であり みづからも神であるキリスト》と見るはずです。 このあと精読して必要があると思ったら あらためて批評をしたいと思いますが この質問での小澤論文の扱いとしては もう割愛したいと思います。 すなわち 信仰の立ち場からは 《思想史》が《宗教》の会派をていねいに扱っているとしてもその歴史にはさして重要性を見い出しません。なぜなら 《会派》の問題であるなら まさに《目に見えざるかたちの教会》を――イエス・キリストに従うパウロにならって―― ここで提唱するわけだからです。 信仰を看板にかかげるなら 宗教は 自己解体すべきです。看板倒れですから。 思想運動や文化活動をするというのなら 信仰という看板をおろして 地道におこなっていくべきでしょう。 よって 目に見えるかたちのある教会や会派は 要らない。と結論づけます。
- 0fool0
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文字数が減ったのは良です。 しかし内容はもっとブラッシュアップを。 答を得たいならば問いにも責が問われます。
お礼
そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。 ひととおり質問をめぐる事情について No.1でのやり取りに書きました。それを参照していただきたいと思います。 つまり クリスチアニズムの問題ですが その《教会は 目に見えない教会というかたちを採ればよいのではないか》。――これが 問いです。 回答は おおそうだか いやいや その必要はない いまのままでよいかになると思います。 その理由をめぐって いくらか中身のある対話ができればよいというコンタンです。 どうでしょう?
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お礼
ええっとですね。この主題ないし問題は 理論的に整理できているものです。そう考えているものです。 まづは ご回答をありがとうございます。 すなわち 結論としては もし宗教が オシエを信じることを基本の活動としてかかげているとすれば それは 実質も実態もあり得ない誤解の上に成り立っている。というものです。したがって 教会は その活動の一環ですから おかしい。という物言いです。基本的に・根本的にマチガイとして 現象しているのではないか。と言っています。 1. 世に 世界観を成す思想はあります。特には倫理を説いた思想としての《オシエ》もあります。 2. 思想ないしオシエは 人間が《考える》ものです。経験合理性にもとづき 特には排中律を活用して 論理的に――または非論理的にさえ人間にとって総合的全体的な――合理性なる内容を問い求めるイトナミです。 3. この世には ナゾもあります。そして いづれは人間によって知られるであろうという未知としてのナゾではなく・また既知であるが なおその認識内容は 相対的で有限である(変更されうる)という意味でのナゾでもなく・さらには これは人間には知り得ないと知ったという不可知としてのナゾでもなく ――という意味は けっきょく経験事象としてのナゾではなく―― そうではなく それが人間に知り得るか知り得ないかが知り得ないというナゾがあります。これは 《非知》であり 《非経験の場》と呼ぶべき領域としてのナゾです。 4. 《非経験の場》なるナゾは ひとは それをそのまま受け容れる(かまたは 退けるかする)ものです。退ける場合も この非経験の場なるナゾに触れた・かかわったという経験を持ったことになります。つまり この《受け容れる》行為が 考えるではあり得ないところの《信じる》です。(《絶対》と人間との関係では そういうことになります。人間がこれを否定しても 絶対は何の痛痒も感じません)。 5. 《信じる》行為には そのナゾを信じない(受け容れない)としてかかわった・つまり信じたという場合もあります。なぜ《信じた》になるかと言えば 《退けた》という意志行為によって そのナゾとわれとのかかわりを持ったからです。 6. この非経験の場なるナゾが 神のことです。したがって 言いかえると 神は 信じる(受け容れる)にしろ信じない(こばむ)にしろ そのナゾとおのれ(人間)との関係が成り立つという絶対の世界(非世界)であると想定されます。 7. これらの前提に立って言えることは 次です。 非経験の場なるナゾ:神・・・・・信じる(信仰) 経験事象なるナゾ:オシエ・・・・考える(思想) 8. すなわち 世界にはいろんな名の神があるけれど いづれの神にせよ神(もしくは 無い神)を受け容れる信じるという行為(信仰)もあれば 思想やオシエを考えるというイトナミもある。そのとき この世に《オシエを信じる》という行為は ほんとうには ない。これです。 9. もう少し微妙なところにも触れますが たとえば アブラハムは その世のナラワシの中で まだ一人しかいないわが子(嫡子)のイサクを 長子ゆえに初穂として いけにえというかたちで神にささげるという難題を持ちました。悩みに悩み惑い考えに考えて出した結果は あるヒラメキとして《ひとは ひとを――自分をも他人をも―― ころしはしない》でした。 9-1. やがてこのアブラハムが得た直観は モーセによって集団の規律・秩序をもたらすために法律として《なんぢ ころすなかれ》というかたちで表現され持たれました。つまり このヒラメキ内容は すでに《考える》を絡ませているからには 思想であり律法としてはオシエです。 9-2. けれども そのヒラメキの内容は 思想としてみた場合 必ずしも経験合理性において人間が分かるかたちではない。なぜ殺してはいけないかは なおナゾである。とすれば この直観は それが何であるかが分からない直感としてひらめいたものであり その淵源は 《神とわれとの――非思考の庭における――かかわり》にあると推し測られる。 10. つまり こうである。 (あ) アブラハムにおいて まづいづれかの時に成った《神とわれとの関係――わが心なる非思考の庭――》が 動態としてある。これが 《信仰》である。 (い) この信仰という動態において かれは直感を持つ。その混沌たるイメージの中から 論理的な内容を――直観として――得る。それが 《ひとは ひとをころさない》という命題である。 (う) すなわち ヒラメキが 思想となった。そしてさらに《なんぢ ころすなかれ》なる倫理思想となれば オシエに成りうる。 (え) これらの一連の過程にかんしてそこから ふたつの要素が取り出される。ひとは《神を信じる》という要素と《思想・オシエを考える》という要素とであり これらふたつは 互いに中身が別である。つながっているとしても 互いに別のふたつのコトである。 (お) すなわち従って ひとは《オシエを信じる》ことは ない。あり得ない。矛盾している。せいぜい つよくそれがただしいと思う(あるいは 時には思い込む)といった中身を 文学的表現(単なる強調表現)として 言い表わすに過ぎない。 11. ところがここで 世にある一般に組織を持った宗教は 《オシエを信じる》という看板をかかげている。オシエを神としている。あやまっている。 12. 教会は この組織宗教の一環として成り立っている。ありえない。 ★ さあ、どうでしょう、「〔目に見える教会を〕すべて変える」というのは、やはり非寛容で非現実的な気がします。 ☆ 《変えないで 矛盾をふくむあやまちを見過ごす》ほうが 相手に対して失礼でありつめたい心であり 愛に欠ける行為である。これです。 ★ (ここで理想論を語るだけに留めるというのであれば話は別ですが) ☆ 理想論でも何でもないことを るる説明したつもりです。いま現在をも含めてこれまでの歴史が 全部と言ってよいほど この宗教というナラワシとしては あやまっていたのです。 ★ 歴史的な重み〔のある行為としての〕救貧 ☆ この活動は 基本的に 宗教とは何の関係もありません。宗教組織がおこなうのは 趣味であり自己宣伝です。 オシエにはかかわっていることでしょうが 《信じるべきオシエ》とは何の関係もありません。考えるべき思想とはかかわります。ですから 《宗教》とはいっさいのかかわりを 本来持ちません。 あるいは個人の信仰とも 間接的に かかわっていますが 《オシエを信じる》宗教というのは ただのマボロシでありマヤカシであるのですから かかわりません。これまでの歴史においてこのマボロシが大手を振って町をあるいていた。というだけのことです。 この問いの中身は ふつうに自然の状態にもどそうという提案であるに過ぎません。 ★ 内村鑑三 ☆ は――推測していただいたように―― あまり褒めたクリスチャンではないと理解しています。儀式にこだわって――つまりたとえば 一般的な言い方として・対立する相手が差し出す《踏み絵》というかたちにこだわって(つまり何でしたか 《不敬罪》にかかわる儀礼でしたかのその儀礼行為にこだわって)―― 信仰の中身を台無しにしたのではないか。こう思います。 かたちないし偶像としての踏み絵などは 何万回でも踏めばよいのです。非思考の庭とは何の関係もありませんから。 ★ 冠婚葬祭 ☆ とのかかわりは 教会が自己解体して行けば 独りでに 解決します。 こういった人生の節目の儀式は 無宗教において人びとがみんなで集まってふつうに自然に考えたかたちや内容としておこなえば どれほどあたたかくたのしい行事であることかと思います。手作りがいいでしょう。(手作りの延長としての事業会社があってもよいでしょうが)。 問題は ことほどかように 単純なるジョウシキ問題だと見ますが どうでしょう。
補足
みなさんとのあいだで きわめてたのしく 有益なやり取りが出来たのではないかと思っています。 (申し訳ないですが 基本的なまとめを書き込めたということもあり このやり取りを BA としました)。 さらに次の問い求めにすすみたいと考えます。 ありがとうございます。