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選択集について

法然の「選択集」はどのように専修念仏を根拠づけているのでしょうか。 どなたか回答してくだされば助かります

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回答No.5

専門家ではありませんが、お答えさせていただきます。 専修念仏とは、浄土に往生するため、念仏以外の行をまじえず、〈南無阿弥陀仏〉 とただひたすらに念仏を唱えることだと思います。 「選択集」とは、「選択本願念仏集」のことで、この選択本願は大無量寿経に 説かれている第18願のことです。ですので根拠は、「選択集」の中の  弥陀如来、余行をもつて往生の本願となさず、ただ念仏をもつて往生の本願 となしたまへる文。『無量寿経』の上にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、 十方の衆生、心を至し信楽して、わが国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、 もし生ぜずといはば、正覚を取らじ」(第十八願)と。  『観念法門』に上の文を引きていはく、「もしわれ仏にならんに、十方の衆生、 わが国に生ぜんと願じて、わが名号を称すること下十声に至らんに、わが願力に 乗りて、もし生ぜずは、正覚を取らじ」と。 現代語訳 (浄土真宗聖典註釈版第二版より) 弥陀如来が余の行を往生の本願とせず、ただ念仏だけを往生の本願とせられた文。 《無量寿経》の上巻に説かれてある。 もしわたしが仏になったとき、あらゆる人々が至心こころから信じ楽しんでわが国 に往生することをねがい、ただ念仏 (乃至十念) して、生まれることができないよ うなら、わたしは決してさとりを開くまい。 《観念法門》に上の文を引いていわれる。 もし、わたしが仏になったならば、十方世界の人々が、わが国に生まれようと願って、 名号を称えること、わずか十声のものに至るまで (下至十声)、わが願力に乗じて、 必ず往生させよう。もしそうでなければ決して仏になるまい。 別の根拠として、「選択集」の中の 釈尊定散の諸行を付属せず、ただ念仏をもつて阿難に付属したまふ文。 『観無量寿経』にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、〈なんぢよくこの語を持て。 この語を持てとは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり〉」と。 同経の『疏』(散善義)にいはく、「〈仏告阿難汝好持是語〉といふより以下は、まさしく 弥陀の名号を付属して、遐代に流通することを明かす。上よりこのかた定散両門の益を説く といへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむる にあり」と。 現代語訳 (浄土真宗聖典註釈版第二版より) 釈尊が定散の諸行を付属されず、ただ念仏のみを阿難に付属されるの文。 《観無量寿経》に説かれてある。仏が阿難に告げられる。「そなたはよくこの語をたもてよ、 この語をたもてというのは、すなわち無量寿仏のみ名をたもてということである。」 同じ経の疏にいわれてある。 「仏阿難に告げたまわく、汝好よく是の語を持たもて」より以下は、まさしく弥陀の名号を 付属して、末の代まで流通することを明かされたのである。これまで《観経》の始めから 定善・散善の両門の利益を説いてきたけれども、阿弥陀仏の本願に望めてみると、世尊の思し 召しは、人々をして一向に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあるのである。 これが根拠だと思います。  

回答No.4

と説いて、日常の衣食住を含める遊行・独処・籠居、そして妻帯にいたる一切の行為が念仏を助成するためにあるというのが異類の助業です。このことは念仏によって日常生活の行為の統括しようとするものであり、阿弥陀仏の他力に浴して生活するということになります。「現世をすぐべき様は念仏の申されんようにすぐべし。」とあるように、現世において念仏するという生き方が価値あるものとする考えにおいて、社会人として行う道徳的社会的な行為も、仏教徒としての持戒や布施等の行為も、さらには浄土教の信者として行う経典読誦等の念仏以外の正行もすべて念仏する人を助けるものとして価値づけるのです。それは念仏に出会うまでは「五番相対」「十三得失」等の理由により廃すべきものとされていた雑行が、念仏の教えを知ることで、どうしても凡夫が持ってしまいがちな慢心という煩悩等をおこすことなく、凡夫の自覚に基づいた善行として生まれ変わらせたといえましょう。  このように、浄土往生の行に種々なるものがあるなかにおいて、本願か非本願かという観点より称名念仏以外のものを助業として念仏を助けるためのものと位置づけ、念仏するものは往生をかならず得ると信じて称名念仏を選び取ることが「三重の選択」ということになります。  (4)順彼仏願故 「仏の本願によるが故なり。」  このように法然は『選択集』において本願念仏を説くにあたって三重の選択を行っています。これは、救われる側である凡夫が浄土教に帰依するために通るべき道といえます。しかし、略選択末尾の「仏の本願によるが故なり。」としめすように、凡夫がこの三重の選択をすることは仏の本願に順じる行いということであり、凡夫を救うために定めた仏の選択ともいうことができます。また、法然は「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥、時節の久近を問わず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるが故に。」という一文を目にしたことによって立教開宗したことから浄土宗では「開宗の文」と呼び重要視していますが、その文の中にも「順彼仏願故(彼の仏に順ずるが故に)」という仏の選択に身を任せることの重要性が説かれています。またそのことは『沙弥随蓮に示されける御詞』のなかに、 念仏はようなきをようとす。 また、『十七條御法語』には 念仏はようなきをもてなり。 という言葉がのこっています。「よう」を「はからい」と訳せば、無くすべきはからいは凡夫の考えという意味になり、必要なはからいは阿弥陀仏のはからいとなります。法然にとって自身の選択というものは我見であり偏執であり持つべきものではないとし、選択の重要性は阿弥陀仏を中心とする仏の選択に全て任せることであって、その「選択思想」こそ法然にとっての他力思想であり「南無阿弥陀仏」そのものであるといっても過言ではないでしょう。その逆に、極楽往生を目指す者が仏の願意にそむき、自らのはからいをもって聖道門を選び雑行を修することを、法然は避けようとし続けたということもいえるでしょう。  法然にとっては「聖意測り難し」という阿弥陀仏の選択こそ念仏の絶対性を基礎付ける根拠となるのです。この点こそが従来の念仏観と決定的に異なる法然の独自性があらわれています。法然の選択本願念仏説は念仏の価値付けを、念仏という「行」自体にではなく、阿弥陀仏の本願に基礎付けたことに特徴があります。そのことによって、念仏という自分の行為に救われるのではなく、阿弥陀仏に救われるのだという、救う側の阿弥陀仏と救われる側の凡夫の人格的な関係を結ぶものとして念仏があると位置づけられます。 超長いですね。私の大学時代『選択集』の念仏思想をまとめたレポートの一部抜粋です。参考にしていただければ幸いです。学生時代のものをほとんど貼り付けただけなので、誤字脱字乱文があればご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀佛

回答No.3

まず、「五番相対」とは五種正行と五種雑行の二つを、阿弥陀仏との関係の厚薄有無を五つの観点から分類したもので、(1)親疎対(2)近遠対(3)有間無間対(4)廻向不廻向対(5)純雑対です。この五番相対は、五種正行を修するものは阿弥陀仏に対して親縁であり、近縁であり、阿弥陀仏との関係に間無く、また特別に廻向する必要もなく、純粋な極楽往生のための行であるとします。それに対し雑行を修するものは、阿弥陀仏以外の諸仏諸菩薩または経典等の行を修しているのだから、阿弥陀仏とは疎であり遠であり、有間であり、廻向行であるから、雑な行ということになります。このように五種の正行のものと雑行のものとの間では、五種類の得失があるため、雑行を捨てて正行を修することをすすめています。  次に「十三得失」とは善導の『往生礼讃』に説かれるもので、法然は『選択集』にこれを全文引用しています。そのなかで善導は、五種正行をもっぱら修するものは十人は十人ながら、百人は百人ながら往生できるのに対して、雑行を修するものは千人中五人か三人往生できるかもしれないが、もし雑行を修するものの中で真実の心を欠いているものは一人も往生できないと説いています。その説を受け法然は、百人いれば百人往生できる念仏を捨てて、千人いても一人も往生できないという雑行に固執する必要がどこにあろうかと結論付けます。「千人いても一人も往生できない」という部分には、末法という悟るどころか修行すらできない時代背景と自身の凡夫の自覚から、悟るための自力の修行に対して真実の心を持つことができないという法然の厳しい自己認識が伺えます。そういったなか五種正行を修する人は十三の得があり、雑行を修するものは十三の失があるとするのが十三得失です。その失の十三の項目は、(1)雑縁が乱動して正念を失なうが故に(2)仏の本願と相応せざるが故に(3)教えと相違するが故に(4)仏語に順ぜざるが故に(5)係念相続せざるが故に(6)憶念間断するが故に(7)廻願慇重真実ならざるが故に(8)貪瞋諸見の煩悩来りて間断するが故に(9)慚愧懺悔の心あることなきが故に(10)相続してかの仏恩を念報せざるが故に(11)心の軽慢を生じて行業なすといえども、つねに名利と相応するが故に(12)人我自ら覆うて同行の善智識に親近せざるが故に(13)楽(ねご)うて離縁に近づきて往生の正行を自障々他するが故に以上が、雑行を修するものの十三の損失です。その反対に五種正行を修するものには十三の得があるといいます。それを、『往生礼讃』には十三の得のうちはじめの四得だけをあげています(1)外の雑縁なく正念を得るが故に(2)仏の本願に相応するが故に(3)教えに違わざるが故に(4)仏語に順ずるが故に、以上四得のみをあげて以下を省略しています。法然は『選択集』の中では四得は省略しています。それは十三の損失を反対を考えれば十三の得になるから省略したのでしょう。  このように法然は仏教の各種経典に説かれる諸種の修行法を、善導や道綽・懐感の意見を参考に大きく二つにわけて、阿弥陀仏に極めて近しい五種正行と疎遠な雑行に区分し、「五番相対」「十三得失」という理由をもって、五種正行を選び取って雑行を廃するとなります。この雑行を捨てて正行を選び取ることを、先の聖道門を捨て浄土に帰することを「一重の選択」というのに対して、「二重の選択」といいます。  (3)第三重の選択 正定業と助業 「正行を脩せむと欲はば正助二行の中に、なほし助業を傍らにして、選じてまさに正定を専らにすべし。正定の業とは即ちこれ仏名を称するなり。み名を称すれば、必ず生ずることを得。」  上記の五種正行に次いで法然は善導の考えを受容し、五種正行うち読誦正行・観察正行・礼拝正行・讃歎供養正行の四つは称名正行を行ずるものを助けるための行であるとして「助業」と名づけ、称名正行は阿弥陀仏が本願に定めてくださった行いであるから「正定業」と名づけています。この助業というのは、念仏の功徳が薄いためそれを補うための補助行としてではなく、称名念仏する人を励ましよりいっそう念仏させるために行うのを助業と呼びます。これについて法然は『選択集』第二章において、「善導和尚の意によらば、往生の行多しといえども、多きに二つに分つて二とす。一に正行、二には雑行。初めに正行とは、これについて開合二義あり。初めの開を五種とし、後の合を二種とす」と説いて、「初めの開を五種とし」とは五種正行のことで上記のとおりです。「後の合を二種とす」というのは、 合を二種とすというは、一には正業、二には助業。初めの正業は、上の五種の中の第四の称名をもって正定の業とす。即ち文に「一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥、時節の久近を問わず、念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるが故に」と云う、これなり。次に助業は、第四の口称を除いての外、読誦等の四種をもつて、しかも助業とす。即ち文に「もし礼誦によるをば、即ち名づけて助業とす」と云ふ、これなり。 意訳 合の二種というのは、一つは正定業、二つは助業です。最初の正定業とは五種正行なかの称名正行をもって正定業します。即ち『観経疏』の「一心にもっぱら阿弥陀仏の名前を称えて、行住坐臥いづれの時でも長くとも短くとも、念仏を続けることを、正定業といいます。阿弥陀仏の願に順じるが故に」と説いている、これです。次に助業は称名正行以外の、読誦等の四種をもつて、助業とします。即ち『観経疏』に「阿弥陀仏を礼誦するというのは、即ち名づけて助業とします」という、これです。 と説いて、称名正行は仏の願に順ずる行いですから正定業として、五種正行の中でも称名正行以外の正行が助業と呼ばれます。阿弥陀仏が定めた正定業である称名念仏を行ずるのに助業が必要なのかというと、念仏は本願の行であるが極めて簡単な行であるために、煩悩具足の凡夫は怠惰な心が起こりやすく念仏を中断しがちになってしまいます。このようなことを懸念して、怠惰な心をおこさないように助業を交え修するのです。いうなれば、助業とは凡夫に念仏させるための雰囲気作りをするためのものといえます。  また法然は、五種正行を二分して正定業と助業に区分した場合の助業のほかにもう一つ助業があることを『選択集』第四章において明かしています。「一には同類の善根をもつて念仏を助成す。二には意類の善根をもって念仏を助成す。」と説いて、一の五種正行を正定業と助業に分けたときの助業を「同類の助業」と称します。二はこの他に「異類の助業」と呼ばれるもので、これはさきに「五番相対」または「十三得失」という理由によって雑行として廃捨されたものが念仏の助業として関係を持つことをいいます。それについて法然は『十二問答』において、 我こころ阿弥陀仏の本願に乗し決定往生の信をとるうえは、他の善根に結縁し助成せむことまったく雑行になるべからず、我往生の助業となるべきなり 意訳 私の心は阿弥陀仏の本願本願に任せて、必ず往生できるという信を確立した上ならば、他のもろもろの善行とご縁を結ぶべきことは、決して雑行ににはなりません。むしろ、自身の極楽往生を助けるための行いになるのです。 と説いています。また、『禅勝房伝説の詞』に 現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげになりぬべくは、なになりともよろずをいといすてて、こえおをとどむべし。いわく、ひじりで申されずば、めをもうけて申すべし。妻をもうけて申されずば、聖にて申すべし。住所にて申されずば、流行して申すべし。流行して申されずば、家にいて申すべし。自力衣食にて申されずば、他人に助けられて申すべし。他人に助けられて申されずば、自力衣食にて申すべし。一人にて申されずば、同朋とともに申すべし。共行して申されずば、一人籠居してもうすべし。衣食住の三は念仏の助業なり。これすなわち、自身安穏にして念仏往生をとげんがためには、何事もみな念仏の助業なり。 意訳 この世を生きていくのは、念仏を称えながら過ごしていくべきです。お念仏の妨げであれば、たとえどんなことであっても厭い捨てて、それをやめなさい。たとえば、出家して世俗を離れた聖者として念仏が称えられないのであれば、妻をめとって念仏しなさい。それでは念仏できないというのであれば、世俗と離れ聖者として念仏しなさい。定住しては称えられないというのなら、各地を遊行して称えなさい。遊行して称えられないというのなら、家にいながら称えなさい。自分の力で衣食をまかなっていてはお念仏できないというのであれば、他の人に助けてもらいながら念仏を称えなさい。他の人に助けてもらっては念仏できないというのであれば、自身の力で衣食をまかないながら称えなさい。一人では称えられないというのであれば、お念仏の仲間たちと称えなさい。仲間と一緒に念仏できないのであれば、一人で籠って称えなさい。衣食住の三つは念仏を助けるためのものです。つまり、この自分が平穏にお念仏を称えて往生するためのことは、どのようなことでも全て念仏を助けるためのものになりえるのです。 つづく

回答No.2

●三重の選択  上述したように称名念仏は阿弥陀仏一仏の選択ではなく、お釈迦さまや諸仏の選択でもあるのです。また、法然はそれを省略した形として三重の選択を説いています。『選択集』第十六章において、 それ速やかに生死を離れむと欲はば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣いて、浄土門に選入すべし。浄土門に入らむと欲はば、正雑二行を抛てて、選じてまさに正行に帰すべし。正行を脩せむと欲はば正助二行の中に、なほし助業を傍らにして、選じてまさに正定を専らにすべし。正定の業とは即ちこれ仏名を称するなり。み名を称すれば、必ず生ずることを得。仏の本願によるが故なり 意訳 迷いの苦の世界をすみやかに離れたいと思うのであれば、仏教には二種類のすばらしい方法があるなかで、しばらくは聖道門は差し置いて浄土門に帰入しなさい。浄土門に帰入したならば、修行法として正行と雑行がある中において、雑行を投げ捨てて正行を修するべきです。正行を修めようというのなら、正定業と助業がある中において、助業を傍らに修し正定業を専らに行いなさい。正定業とは阿弥陀仏の名を称えることです。阿弥陀仏の名前を称えれば、必ず極楽往生できます。それは仏の願に合致する行いだからです。 と説かれています。この文は「略選択」または「三選の文」ともいって、法然念仏説を理論的に組織したものとして注目されます。    (1)第一重の選択 聖道浄土二門 「それ速やかに生死を離れむと欲はば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣いて、浄土門に選入すべし。」  まず「聖道門」とは自力の修行によってこの世で悟りを得るという聖者の道いうもので、「浄土門」とは臨終後の極楽浄土に生まれ悟りを開く道を言うものです。この聖道浄土二教判は龍樹の『十住毘婆娑論』易行品または、世親の『無量寿経優婆提舎願生偈』と、その注釈書である曇鸞の『往生論註(浄土論註)』に説かれる易行道難行道の思想と、末法思想を基盤に修行する人間の能力の有無強弱という視点から組織されたのが聖道浄土の教相判釈(教判とも言う、経典を価値付けするの理論)です。この聖道浄土二門をもって、一代仏教を組織し、判断し、末法という時代に相応する仏教の確立をはかったというべきものです。法然は『選択集』第一章には、道綽の『安楽集』をそのまま用いて説いています。 問うて曰く、一切衆生は皆仏性あり。遠劫より以来、まさに多仏に値ひたてまつるべし。何によつてか、今に至るまでなお自ら生死に輪廻した、火宅を出でざるや。答えて曰く、大乗の聖教によらば、まことに二種の勝法を得て、もつて生死を排はざるによる。ここをもって火宅を出でざるなり。何ものをか二とする。一には謂はく聖道、二に謂はく往生浄土なり。聖道の一種は、今の時、証し難し。一には大聖を去れること遥遠なるによる。二には理深く解は微なるによる。 意訳 全ての人々は皆仏になれる可能性をもっています。我々は遠い昔から生死をくり返し今に到るまで、多くの仏にあっているはずです。その仏に従っていれば仏になっていておかしくないにもかかわらず、今に到るまでに輪廻を繰り返して火のついた家のような迷いの世界から、どうしたら抜け出せるのでしょうか?お釈迦様の教えによれば、二つの勝れた方法があって、輪廻から解脱すればよいのです。何をもって二つとするかというと、一つは聖道門であり、二つは往生浄土です。聖道門は、末法という時節を考えて悟りを得ることはむずかしい。その理由の一つはお釈迦様がなくなってから時間が経ちすぎているということ。二つは聖道門の教えは非常にすばらしい理であるが、智慧の浅い者にとって理解できない難解なものであるということです。 法然は道綽の説を受け、全仏教を聖道門浄土門の二つに区別して、「大聖去ること遥遠なるによる」「理深く解微なるによる」という理由により聖道門を捨て、浄土門に帰することをすすめています。  これに続けて『安楽集』の引用の中で、『大方等大集経(大集月蔵経)』を引用して、道綽は自身の意見も述べています。 我が末法の時の中の億々の衆生、行を起こし道を修せむに、いまだ一人として得るものあらじ。と、当今は末法、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のもありて通入すべき道なり。 意訳 「末法の時代に多くの人々が悟りを求めて修行するものがあっても、ひとりとして成就できたものはいません。」今の時代は末法であり、現に五濁悪世です。ただ、浄土門のみが悟りを目指す道である。 と説いて、聖道門の教えは末法なる今時には相応しない悟りを得ることが困難な教えであり、末法の今時に相応している教えはただ浄土の一門なりとして、時機相応(末法という時代背景と、罪悪の凡夫であるという機根に相応した)の教えであると、説いています。  また、その説明の中において、曇鸞の『往生論註』を引用して易行道難行道の説明の後、 難行道は即ちこれ聖道門なり。易行道は即ちこれ浄土門なり。難行・易行、聖道・浄土、その言葉異なりといえども、その意これ同じ。天台・迦才これに同じ。まさに知るべし。 意訳 難行道とはこれ即ち聖道門です。易行道というのはこれ即ち浄土門のことです。難行・易行、聖道・浄土言葉は違っても、その意味するところは同じです。その意見は天台大師智顗も迦才も同じ意見です。 と法然は自身の意見を述べています。法然は難行道とは聖道門のことであり、易行道とは浄土門のこととしています。龍樹は『十住毘婆娑論』易行品においては、菩薩が不退位を得るための方法として難行道易行道を説かれていますが、法然においては現世において悟りを得る教えである聖道門の教えを難行道、浄土往生の教えを易行道と、難行易行の二道と聖道浄土の二門の関係を明確に示されたことになります。また、多くの賛同あるものとして智顗(天台)と迦才二人の名前をあげています。智顗は『十疑論』に、曇鸞の二道を援引して、「凡夫無上菩提心を発し、浄土に生ぜんと求め、常に念仏するが故に、煩悩伏滅し浄土に生ずることを得」と述べ、浄土への帰命をすすめています。迦才は『浄土論』巻下に、「もし自ら定慧分あるを知らば、則ちこの方において道を修して無上菩提を求む。もし自ら定慧分なきを知らば、すべからく則ち浄土の行を修し、浄土の中につきて無上菩提を求むべし」と説いて、自分自身が心を定めて(定)物事をそのままに見ること(慧)ができないのであれば、極楽浄土において悟りを得ることをすすめています。こういった要因をもって、正道門・浄土門のうち浄土門を選ぶというのが、凡夫のすすむべき道であり、第一重の選択ということになります。  (2)第二重の選択 五種正行雑行 「浄土門に入らむと欲はば、正雑二行を抛てて、選じてまさに正行に帰すべし。」  法然は専修念仏による浄土往生の教えを説くに当たり、道綽の『安楽集』に説かれる聖道浄土二門の教相判釈と曇鸞が『往生論註』において解明した易行難行二道説を用い浄土教の教相判釈として、全仏教の中における浄土教の立場を明確に示しました。浄土教の根本経典である「浄土三部経」をはじめ諸経典においては称名念仏以外にも、観念の念仏や発菩提心・持戒等の行が説かれていますが、法然は『選択集』第二章において、善導の『観無量寿経疏』散善義の就行立信釈のもとにおいて説かれる浄土往生の行として五種正行を挙げている。また、それ以外のもの全てを雑行としています。五種正行とは、 「読誦正行」・・・阿弥陀仏を説くお経をよむ。(具体的にいえば「浄土三部経」とその異訳、または『般舟三昧経』『華厳経』『法華経』『随求陀羅尼経』『尊勝陀羅尼経』の傍明浄土経の読誦) 「観察正行」・・・阿弥陀仏および極楽浄土を観想する。 「礼拝正行」・・・阿弥陀仏に礼拝する。 「称名正行」・・・阿弥陀仏の名前を呼ぶ。 「讃歎供養正行」・阿弥陀仏を讃歎し供養する。 の五つである。そして、上記のもの以外の全ての行いを「雑行」と名づけます。法然は『選択集』に五種の正行を挙げていますが、便宜上雑行をそれに合わせて五種の雑行として説いています。 「読誦雑行」・・・阿弥陀仏以外を説くお経をよむ。 「観察雑行」・・・阿弥陀仏および極楽浄土以外を観想する。 「礼拝雑行」・・・阿弥陀仏以外に礼拝する。 「称名雑行」・・・阿弥陀仏以外の名前を呼ぶ。 「讃歎供養雑行」・阿弥陀仏以外を讃歎し供養する。 このほかに法然は言葉を加えて、菩薩の六波羅蜜行にて重視される布施・持戒等も雑行のうちにいれ、さらに大乗仏教で重んじられる菩提心(悟りを目指す心)すら雑行中に収めます。つまり、法然上人にとって雑行とは正行以外の全ての諸善万行をいい、大乗や小乗ということも問わず「悟り」を求めて行ずる一切のことは「雑行」とよばれます。雑行とは悟りを求めるための修行であって、法然は極楽往生のためには五種正行のみの実践をすすめて雑行と五種正行以外の諸行をも廃捨するべきと説いています。その理由として「五番相対」と「十三得失」を明かしている。 つづく

回答No.1

 どうも真宗のボーさんと呼ばれているものです。絶対長くなります。すみません。 >>法然の「選択集」はどのように専修念仏を根拠づけているのでしょうか。  法然聖人(以下尊称を略す)にとってその中心は専修念仏ということになるわけですが、その念仏の目的は極楽往生ということになります。では、お釈迦様以来極楽往生のために多くの行が説かれてきましたがなぜ法然は念仏一行を説かれたかというと「仏の選択(せんちゃく・真宗ではせんじゃく)」ということが問題になります。選択という文字を「せんちゃく(せんぢゃく)」と読む場合は、浄土宗・浄土真宗ともに本来は人間の選びは含まれません。「選択」とは『無量寿経』において、阿弥陀仏が法蔵菩薩であったころ世自在王仏より二百十億の諸仏の浄土を示され、その中から善いところを選び取り悪いところを捨て、最も優れた浄土の姿とそこに生まれるための行いを完全に把握して、最も優れた浄土を建立するため四十八願を立てたとされます。  その中でも特に十八願を指すものであり、まず阿弥陀仏の第十八願とは『無量寿経』の中に、 たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲して、乃至十念せん。もし生まれずば、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。 意訳 私が仏になる時、全ての人々が心から信じて私の創った極楽という国に生まれたいと願い、十回程度念仏をして、極楽に生まれることができなければ、私は仏にはなりません。ただし、五逆罪のものと仏教を誹謗中傷するものは除きます。 と説かれているもので、この十八願において念仏が選ばれていることについて、法然は『選択集』第三章の中で問答をして説いています。まずは、 あまねく諸願に約して、麁悪を選捨し善妙を選取すること、その理しかるべし。何が故ぞ、第十八願に、一切所行を選捨して、ただ偏に念仏一行を摂取して、往生の本願とするや。 意訳 粗悪なものを捨てて善妙なるものを選び取るというのは道理ですが、なぜ第十八願において、数多くある行を捨てて、善妙なものとして念仏を選んだのはなぜですか。 という問いを投げかけて、その答えとして、法然は「聖意測り難し(仏の御心は、我々には到底測ることはできない)」としながらも、法然自身の試みとして念仏が選ばれた要因を「勝劣・難易」の二つの義をもって明らかにしようとしています。  (1)勝劣の義  まず勝劣とは、どちらが勝れどちらが劣っているかということです。もちろんここでは念仏が勝行であり、諸行が劣行ということになります。  法然は南無阿弥陀佛の名号は「万徳の帰する所なり」といって、阿弥陀仏が法蔵菩薩であったころから修してきた善行の功徳はことごとく六字の名号に納められているとしています。具体的に言えば、阿弥陀仏がもっている四智(仏の智慧)・三身(仏格の価値を三種類に別けたもの)・十力(仏が全智者であることを示す十種の力)・四無畏(教えを説くに当たって畏れを感じない四つの智慧)という「内証(内面的に働く悟りの境地)」の功徳を含むばかりでなく、さらには相好(仏の三十二相)・光明(仏の智慧・慈悲)・説法・利益衆生等の「外用(外面にあらわれる悟りの境地)」と呼ばれる衆生教化の功徳をも、「念仏」は全てが含まれたものであるから勝行となるのです。  それに対して諸行は「おのおの一隅を守る」として、禅であるなら阿弥陀仏の禅定の部分、布施であるなら布施の部分と、阿弥陀仏の内証外用の一部しか有していないとして、劣行となります。それを法然は家屋(屋舎)のたとえを出して説明しています。家屋という名称に示されているのは瓦・棟梁・壁等のものによって組み立てられた全体像が示されるのに対して、柱や瓦という名称ではその家屋の一部を示すものにすぎません。それと同様に阿弥陀仏の名号を称えることは、阿弥陀仏が持っているすばらしい仏の働きを全て含むものですから、その一部しか含まれない念仏以外の行いはいかなるものも、勝れているということはありえないのです。  (2)難易の義  次に難易とは、どちらが修し難くどちらが修し易いかということです。やはり、ここでは念仏が易行であり、諸行は難行ということになります。法然は『選択集』第三章において「念仏は易き故に一切に通ず。諸行は難き故に諸機に通ぜず。」と説いておられます。念仏は簡単ですからいつでも・何処でも・誰でもできます。諸行は難しいことですからそれなりの才能やその人の置かれた環境、財力とうの特定の条件を満たした人しか修することはできません。もし本願の行が像造起塔(仏像を作ったり、仏塔・寺院を建立する)だったとしたら、貧乏な人たちは往生できないことになってします。金持ちの人は少ないけれど、貧乏な人はとても多くいます。もし、智慧高才(才能にも優れて智慧もすばらしい)ということが往生の行であったらば、愚鈍下智のものは絶対往生できなくなってしまいます。他の諸行も同じであるとして、阿弥陀仏は一切の衆生を平等に救済するために念仏という易行をもって本願に選択されたのです。ここで言う易行とは安易な行という意味ではなく、一切の人々ができる行という意味で念仏行の普遍性を説くのです。  そして最後に法照の『五会法事讃』を引用して、 法照禅師の五会法事讃にいわく「かの仏は因中に弘誓をたつ。名を聞きて、われを念ずればすべて迎え来たらん。貧窮と富貴とえらばず、下智高才とをえらばず、多聞にして浄戒をたもつをえらばず、破戒と罪根の深きをえらばず。ただ心を廻して多く念仏せしむれば、よく瓦礫をして変じて金になさしむ」と。 意訳 法照禅師の『五会法事讃』にいうところの、「阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩であったころ本願を立てました。それは私の名前を聞いて念仏するものあれば全ての者を極楽浄土に迎えますというものです。それは貧乏であろうとも金持ちであおうとも、智慧のないものもあるものも、仏の教えを多く聞いて戒律を守っているものも、無戒破戒の罪の深いものも選び捨てることはありません。ただ、心に極楽に往生したいと多く念仏し続けるものあれば、まさに瓦礫のような凡夫でも、黄金のような仏になることのできるのです。」と と結論付けています。このように念仏をもって往生の行としています。法然は阿弥陀仏が誓われた本願の本意を推測し勝劣難易の二義を説いて、仏が平等の大悲をもって一切衆生を救済するため、劣行であり難行である諸々の行を捨てて、勝行であり易行の称名念仏を選び取って本願とされたと説いています。    ●仏の八種の選択  法然は称名念仏なるものは、阿弥陀仏が一切の人々を平等に救済するために、諸行の中より選択して本願に誓われた浄土往生の行(本願念仏)であるとされましたが、さらに浄土教の根本経典である『無量寿経』『阿弥陀経』『観無量寿経』の「浄土三部経」および、『般舟三昧経』をみると、称名念仏に関して阿弥陀仏・釈迦仏・諸仏は選んで特別なものとして扱っていることが『選択集』第十六章において指摘されています。これを仏の八選択といっています。 『無量寿経』 (1)選択本願――念仏は法蔵菩薩(阿弥陀仏の仏になる前の姿)が二百十億の諸仏の浄土から選択された往生の行であること。 (2)選択讃歎――三輩往生を説く文の中でお釈迦様は菩提心などの諸行が説かれているのに、ただ念仏のみを讃歎され無上功徳とおっしゃったこと。 (3)選択留教――経中において往生の行が多く説かれているが、お釈迦様はその仏力をもって念仏の教えだけを、末法が終わって法滅を迎えても残すとおっしゃったこと。 『観無量寿経』 (4)選択摂取――往生の行として定善(雑念を切り捨て散動せず行う善)散善(平生の散動する心で行う善)の諸行がとかれるけれども、阿弥陀仏の光明全ての人を照らすけれども、念仏する衆生のみを摂取してくださること。 (5)選択化讃――下品上生の往生の行として聞経と称名の二行が説かれるけれど、阿弥陀仏の化身である化仏は「なんじ、仏名を称するがゆえに諸罪消滅す。故に我来たりてなんじを迎う」と念仏一つを選んで讃歎していること。 (6)選択付属――往生の行として定善散善の諸行が説かれているにもかかわらず、お釈迦様はただ念仏の一行のみを「なんじ、よくこの語を持せよ、この語を持せよとはすなわちこれ無量寿仏の名を持せよとなり」とおっしゃって弟子の阿難に誰に請われるでもなく付属していること。 『阿弥陀経』 (7)選択証誠――諸々の経典の中には往生浄土の行として種々の諸行が説かれているけれども、それを六方の諸仏は証誠(証明)していない。けれども『阿弥陀経』の中で念仏往生を説きたまうとき、ことごとく六方の諸仏は下をのばし三千世界を覆い隠し誠実の語を説いて証誠したまうこと。 『般舟三昧経』  (8)選択我名――経中において阿弥陀仏は自ら「我が国に来生せんと欲するものは、常に我が名を念じて休息することなかれ」説かれること。 つまり、念仏とは極楽往生のために弥陀・釈迦・諸仏の選択された行いといえます。 つづく