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中国や韓国の工芸品趣味の変形した作品と日本の工芸品
- 中国や韓国でも、変形した器や色の均一さのない作品を好み高く評価し、愛蔵する傾向がある場合もあります。
- 中国の美術工芸や詩論、思想の中には、形の整ったものよりも自然さや無作為風を重視し、それを積極的に言葉で説明する記述が存在しています。
- また、漢詩では弧や衰えたもの、失意状態を歌い鑑賞する詩が多くありますが、特定の時代でそれが積極的に推奨されているという表現は見当たりません。
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質問者が選んだベストアンサー
いびつな物を好むのが日本人独特の特性だということはないと思います。しかしおもしろい研究だと思いますのでどこかに発表されてみてはいかがでしょうか。 前にあげた韓国の陶工の例は、以前の韓国では茶の湯の井戸茶碗の趣味は理解されていなかったけど現在は一部ではあるかもしれないけれど理解されている例としてあげました(質問の趣旨に沿って例として答えたつもりです)。 日本全体としても茶道の趣味としては理解されていると思いますが、工芸ではないものとしてはやはり歪んだ物の方が好まれるということはないように思います。
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- Postizos
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なお申翰均の父の陶工、申正熙は「韓国で初めて高麗茶碗を再現した」人だそうですので少なくとも現在の韓国でも茶の湯の趣味も理解されているのだと思います。
補足
回答をありがとうございます。 日本の茶の湯の趣味や嗜好が、現在の韓国などでも理解はされているのかもしれないですが、また申正熙さんが有名な人間国宝なのかもしれないですが、どうも韓国で、歪んだりいびつだったり変形、変色をしたものを好んでいる人々がどの程度いらっしゃるのでしょう。 日本だと、通常は形の整ったきれいな絵柄デザインのものを好んでいても、花器や酒肴に使用する器はいびつなものを当然のように購入し利用する人が多いように思います。酒の肴を盛る皿や器など半数はいびつなものでしょう。 wikiの高麗茶碗の説明には、「朝鮮には日本のような茶道の風習はなく、茶碗と言ってもそれは日本での呼称に過ぎない。19世紀に訪れた外国人は朝鮮に喫茶の風習がほとんどなく、有力者が中国産の茶を僅かに飲む程度であったと口をそろえて書き残している」「朝鮮半島では、朝鮮陶磁は中国陶磁と同様に高い技術をもって精緻に作られたものがその主流である、日本でいう高麗茶碗の趣味は主流ではないといわれる」「天正16年(1588年)の『山上宗二記』(やまのうえのそうじき)には、“唐茶碗はすたれ、当世は高麗茶碗、瀬戸茶碗、今焼茶碗がよい”という意味の記述がある。ここで言う“瀬戸茶碗”は今日の美濃焼、今焼茶碗は楽茶碗に相当すると考えられている。ここには、中国の官窯の磁器のように器形、文様ともに整ったものよりも、作為のないもの、ゆがんだものをよしとする美意識の転換がみられる」と書いてあります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97%E8%8C%B6%E7%A2%97 どうも、中国や朝鮮では、整った精緻なデザインが好まれたが、日本では整った精緻なデザインを愛でるとともに一部の趣味的耽美の気分にはゆがんだものをよしとする傾向も併存したということなのでしょうか。 ある時代の特定の人々の間でだけ流行したのならばわかりますが、日本だけで長くその傾向が継続し、相当の人数がこれを愛好したかのようになるのは、何故なのでしょうか。 (日本でも日用食器や器、皿ではきれいに形を整えたものが圧倒的に主流であることはわかっています)
- Postizos
- ベストアンサー率52% (1786/3423)
質問は井戸茶碗を意識されているのかもしれませんが、茶道で見出された井戸茶碗が元はどういう目的で作られていたのかはまだよくわかっていないようです。柳宗悦は日常雑器だとしていますが、高台の高さから言ってそうではないのではないかという説もあります(茶の湯のために作った物ではなく、流用は間違いないと思いますが)。 ともかく当時としても主流ではなかった、それほどありふれていなかった物をあえてとりあげたのではないかとも思うのです。 申 翰均という韓国人の書いた「井戸茶碗の謎」という本がありますが、これは朝鮮の陶芸家としての立場からそのあたりを考察したり、実際に焼いて再現を模索した記録で、なかなかおもしろい本でした。 当時も井戸茶碗が珍重されているとわかっていたと思うのですが、それを輸出用に作るということもなかったのですから茶の湯の趣味が理解されたとは言えないのではないでしょうか。
- TANUHACHI
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ご参考になるかどうかは判りませんが、僕が少しばかり首を突っ込んでいる書道の世界には、「端渓硯」と呼ばれる芸術品にも匹敵するものがあります。 むろん書をしたためるために墨を下ろしもしますが、その端渓硯に使われる石目に触れると、墨も力を入れずにスムーズにすり下ろすことができるほどに繊細です。まさに自然が我々に贈ってくれた恵みともいえ、そうした端渓硯も元々の石材の形や石目を生かす形で彫られもします。ですから二つとして同じものはないとも呼ぶべき宝物と呼ぶこともできます。 日本の学校書道などで使われる硯が概して長方形やあってもせいぜい楕円形であるのとは大違いです。 「あるがまま」「無為自然」といった老荘の考えに僕は共感する部分もあり、型に嵌めるような孔孟の考え方には窮屈さを感じてもしまいます。もともと不精者なのでしょうね。けれども不精者には不精者なりに、他とは違う形があってもいいよ、との懐の深さを自慢することもできますね。
補足
TANUHACHIさんありがとうございました。 端渓硯って有名ですね。あいにく私は全く悪筆の小学生時代のママなので、書はサッパリですが、名前だけは知っていました。 ただ、次のサイトを見ただけの印象なのですが、私には形は端正に整っているように見えます。シンメトリーではないものが多いですが、機械的端正さを積極的に打ち破る織部のような感じは受けないです。 http://www.suzuri.cn/topshow.asp http://www.suzuri.cn/duanyan02.htm https://www.google.co.jp/search?q=%E7%AB%AF%E6%B8%93%E7%A1%AF&client=firefox-a&hs=bwN&rls=org.mozilla:ja:official&hl=ja&channel=fflb&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=TmXzUpKWDYWPkAWtlYDQAQ&ved=0CDsQsAQ&biw=1092&bih=620 老荘の考えなのかよくわかりませんが、「あるがまま」「無為」とというよりも、積極的作為をもって整然さを壊し、その作為の趣を喜び愛でるような作品とか芸術傾向のものはないでしょうか。
お礼
失礼しました。 「韓国の陶工の例は、以前の韓国では茶の湯の井戸茶碗の趣味は理解されていなかったけど現在は一部ではあるかもしれないけれど理解されている例としてあげました(質問の趣旨に沿って例として答えたつもりです)。」 それなりに有名な方らしいので、「一部では」ということではキッとそのようなものを高く評し愛でる人はいるのだと思います。 日本でも、茶人はさほど多くはないように思います。楽茶椀や水差しを使う人が10%にもなるとは思えないので、これは別口です。(ピカソやモディリアーニの絵が好きな人もいるし、グエル公園のような例はありますが、この種のものの件数は少なくて、一般受けしていたのかは疑問だと思っています。趣味人的な世界での一部の方限定のこと) 和様の書の書体は、能書とはいえ、中国の整った書体とは大部異質のものと私は思うのですが、こうした書の愛好家は上流階級の好事家のような人達だと思います。しかし、崩し字字典のようなものを見ると、どうも、日本人は一般人も整った字を嫌っているんじゃないかという気がします。 日本には酒飲みは結構いますし、日本酒を飲む場合、酒杯を使うよりも、磁器ではない土器的感じの真円ではないぐい吞みを使う人が多く、刺身皿や小鉢は、30%くらいはいびつのような感じがするほど一般的に受け入れられています。 それほど工芸やデザインに関心を持っていない人でも、変形し、色も不均一や線の描きも整ってないのをごく当たり前のように受け入れています。 焼き鳥でもこの程度の皿を使う例は少なくないです。http://hitosara.com/0006032991/photo/0006032991F3.html http://image1-1.tabelog.k-img.com/restaurant/images/OwnerRstMain/199/disp_199932.jpg 中華や西洋料理を詳しくは知らないですが、日本で私が食べる中華や西洋料理に使う食器はもっとシンメトリーです。 愛好家というほどの入れ込みがないのに、日本ではなんでか、いびつ、変形、変色、アンシンメトリー、整ってないものが多くの人に受け入れられているのが、何故か不思議です。(なんども書きますが、全食器を調べれば、日本でも形が整ったきれいな形と色模様のものが圧倒的に多いと思っています) どうやら、日本にきわだった特徴なのかもしれないと、現時点では、とりあえず思って、今回の質問は終わります。 丁寧にお教えいただいて、ありがとうございました。