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一神教のイスラムキリスト教について
一神教のイスラムやキリストは、この世の中には 存在する神はアラーやイエスキリストしかいないと 言い張っていますよね。 日本人は、多神教の民族で、たとえば草木や食べ物 または大地や自然現象にも神が宿っていると お祈りしたりします。 つまり、日本人の場合は、ありとあらゆる物質的なものに 対して神様が宿ると考えるメンタリティがあります。 私が一神教の人に教えてほしいのは、「食べ物」なんかには 神様が宿るとは考えないのでしょうか?
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一神教と多神教は、全く異なる考え方ではなく、相互に移行可能なものです。 多神教から一神教へ、逆に一神教から多神教へと移行する宗教もありますし、多神教的一神教とか、一神教的多神教もあります。 多神教から一神教への移行は、世界各地の神話の中にあります。 ギリシャ神話でも、多神教の世界から、ゼウスを中心とした一神教的な宗教へと変遷の途中で、文明時代を迎えてしまったため停止してしまっただけですし、日本の神道においても、明治から第二次大戦終了までの間の国家神道は、天照から天皇にかけての統治者を絶対視する一神教的性格を強くもった多神教でした。 一神教から多神教への例として、バラモン教やゾロアスター教の例があります。 バラモン教においての主神インドラは、あまりにも強力な神であったため、敵がいなくなってしまい、しだいに忘れられてゆきますし、ゾロアスター教においては、主神と戦う悪神の力が強くなり、ササン朝期には、主神と同格になってしまいます。 また、善悪の神を唱える二神教もかつては有りました。 マニ教やキリスト教の中のカタリ派やボゴミール派です。 現在におきましても、バハイ教においては、一神教ですが、多神教の神も唯一神の別の姿としています。 唯一神が、ありとあらゆる者に変化したり、一部を宿らせたりしていると考えています。 つまり、一神教であるから、多神教であるから、という事に関係なく、特定の宗教そのものの考え方による差です。
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- nanapatkal
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偶像崇拝は一神教が最も嫌うものです。 食べ物を神の宿る物と考え祈るなどとはもっての他です。 ムスリムはカーバ神殿のあるメッカの方角に向かって祈りを捧げ、 モスクに飾られる肖像は歴代のムスリム聖者のものだけです。 神をあらわすイコンはありません。 あえて言えば、神の言葉を現したコーランだけでしょう。 ムスリムの聖者を信奉するのは構いませんが、 神以外の物を神に見立てることは許されません。 ムスリムにとってモハメッドは偉大な預言者ですが、 クリスチャンにとってキリストは単なる預言者ではありません。 クリスチャンのお祈りを聞けばわかります。 「父と子と聖霊の御名において、アーメン。」 父とは見えざる神、 子とはキリストその人で地上に顕れた見えざる神の言葉ですが、 その背負った十字架によって人々の原罪(アダムとイブが犯した罪)を贖い、 聖霊はそのキリストの名において教会で祈る人々を救うのです。 これを三位一体と言い、元はキリスト教の言葉で、その三つは同格とみなされ、 日本人が考えるような父なる神を頂点とした従属関係ではありません。 そのため、クリスチャンは十字架に祈ります。 十字架に神が宿っているわけではありません。 十字架はキリストが人々の原罪を背負って父の元に返った、 神による人々の魂の救済の象徴なのです。 クリスチャンは食事前、食べ物を前に祈りますが、 食べ物を与えてくださった恵み深き神に祈るのであり、 食べ物に宿るのは神の愛で、神では有り得ません。
お礼
>クリスチャンは食事前、食べ物を前に祈りますが、 食べ物を与えてくださった恵み深き神に祈るのであり、 食べ物に宿るのは神の愛で、神では有り得ません ここが決定的に日本人と似て非なるものですね。 世界にはいろんな考えの人がいるんだなぁ~と 面白いと容認できるのも多神教の日本人の利点だと 感じました。(●^o^●)
- jamiru
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一神教は、人と人との間に立つ存在。 ムカつくお隣の農家の恵みでは有り難味を感じないから、それを消化させる為に「神の恵み」とすればお互いが何となく敬意を払える。 人間同士の摩擦の緩和を合理的にしたものかな? イスラムもキリストも人間同士の醜い争いの中から生まれてますしね。 人のエゴから生まれたものなので、ちょっと間違えると人のエゴが暴走する危険なシロモノでもあります。 単純にアラーやキリストの心理を考えればこんなものでしょうよ。 両者が今の世界を見れば嘆くでしょうがね。
お礼
回答者様のお答えから一神教がどんなに恐ろしいかが よくわかりました。
- maremare
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基本的な知識に誤りがあります。 アッラーはイスラムにおける神の名ですが イエス・キリストは神そのものではありません。 イエス・キリストは神の言葉を伝える「預言者」です (神の言葉を「預かる」者なので、「予」言者ではありません)。 イスラム教もキリスト教も神は形をとらないものゆえ、 形ある物体に宿らないと考えます。 食べ物は「神から与えられたもの、神の恵み」という考え方をします。 食事の前に祈るのは食べ物そのものがありがたいのではなく、 食べ物を与えてくださる神の恵み・神の愛に感謝をささげています。 日本人の美徳とされる「もったいない」も、日本独自の多神教なら 「食べ物の神様のバチがあたる」 「神様が宿る食べ物を捨てるなんて」という考え方になるのでしょうが、 一神教では神様の恵みをぞんざいに扱った、食べ物が育まれる 自然環境を与えてくださった神様に申し訳ない、といった考え方になりますね。 一神教と食べ物のかかわりについては、 一冊の学術書ができるほど深い歴史や思想があります。 ……もっとも、日本の書物は「一神教は排他的」という 前提や先入観のもとに書かれたものが多く、 客観性のあるものを探すのが困難ですが……
お礼
なるほど、食べ物もやはり神から授かった物だから 大切にするという思想ですね。 日本人の場合は、食べ物そのものに神様が宿ると 考えるのと似て非なるものですね。(●^o^●)
- sukelock
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キリスト教とかイスラム教のような一神教の場合、 神と契約とか服従の形をとっているようです。 たとえば旧約聖書の十戒の」第一戒には「わたしは主、あなたの神、 あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」 と強く命じています。 他の神を認めていない神を信仰しているのですから、 あらゆるものに神が、とはとても考えないのでしょう。
お礼
私のような純潔な日本人には、草木や物や土地または 自然に神が宿ると考えるのがごく自然な 振る舞いからみれば、とても違和感がありますね。
お礼
宗教研究家の方から回答をいただきありがとうございます。 日本の国家神道は、国が国民を管理し誘導しやすいから そのように定義した極めて政治色の強いもので 本来の多神教をベースとする神道とは異なりますね。 一神教を信奉する人は、恐ろしいと感じました。(●^o^●)