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年齢と共に感動することが減るのは何故ですか?
若い時は何でも楽しくて、ちょっとしたことでも感動しました。 しかし、最近、年を取るに連れ、そういうことが減っていきます。 同じ景色を見ても、20代の時は物凄く感動したのに、 中年になった今では、綺麗だとは思うものの、 若いときのような、大きな感動はありません。 何故でしょうか?
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質問者が選んだベストアンサー
あなたは結婚して子育てをしておられますか? 結婚して離婚せずに普通に安心して子育てができていたら、感動は増えるというのが私の結論です。 「なぜ子どもの時そう思ったか、、その時親はどう考えることが普通か」「どんな思いで子どもを見るか、育てるか」すべての子どもの頃の疑問や、「ヘタな親だから仕方がなかった」ことが融解していきます。これは生活にイライラがないことが条件です。 対して、子育てしていないと、物事の見え方は与えられるがままの見え方しかできません。親から子に与えることは、親になってとんでもなく違いがわかりました。 ドキュメンタリーには親目線になれますから、子の死す話でもこのかわいそうさではなく、「親はどう考えて過ごしていたんだろう」と思えて泣けます。子殺しのニュースでは、「耐えられなかったんだ」とさしてひどいとは思わずに、その親の育ちなどバックグラウンドがどうだったんだろうと気になり哀しくなります。怒りだけではないですね。
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- TANUHACHI
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ノンフィクションだから感動する、との事象もあります。短絡的に一元的な価値観に基づく回答に応える必要はありません。それほど中身のない回答ですから。 理性的な判断をすれば、ドン・キホーテは夢想家かもしれません。けれども彼が求めて已まなかったのは、「あるべき形や姿に向かって、ひたすらに歩み続けていく」との精神の遍歴です。理想を求めて歩み続ける人間の姿に僕は少なからず感動を憶えもします。 これはフィクションとしての文学作品ですが、実際にこうしたスタンスを持つ人間も数多くいて、それを決してフィクションと呼ぶことにはなりもしません。 「現実を理想に近付けるために如何なる困難にも立ち向かう」。こんなポリシーを持つ人間に僕は崇高さと多大な共感そして感動を覚えもします。逆に「理想を現実に合わせる」こんなことは自殺行為と同じといえます。
お礼
有難うございます。 もしかして、プロの作家さんですか? No.6,7,8と楽しく読ませていただきました。 こういう文章が書ければ、人の心を動かすことができるのでしょうね。 勉強になりました。
- TANUHACHI
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「言葉は思考の家である」何ぞとの至言もありますが、言葉がその人の物の考え方を表す具体的な手法であることも言を俟たない話です。 精神のない言葉があるのかとの逆の問いに対し、心理学や哲学は無駄との短絡的な意見に対し、ではそれに代わる表象手段が他にあるかといえば、応えることもできないはずです。 哲学や心理学、そして政治学も経済学も歴史学も文学も須く「言葉を唯一の拠り所」としますから、そこにある言葉にも僕は感動を覚えることはしばしばあります。 理系の方々も同じでしょう。「一片の美しい数式」の背景には、そこに至る多彩な精神の営みがありもする。それは恰もモーツァルトの楽譜やセザンヌの絵画にも似ているともいえます。
お礼
有難うございます。 様々な分野の達人の作品に、感動することもあるということですね。 確かに、この人、本当に物凄いという人が、一社に一人はいますね。
- TANUHACHI
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若かりし頃と今を見比べてみてその間にさほどの違いがあるかと言えば、対象によっても違いがあり得るのではなかろうか。これが僕の見解です。 若かりし頃も今も「景色」を見ても僕は感動したこともすることも憶えはありません。質問者様からすれば、トホホな輩でしょう。 けれども僕は「言葉」に関しては、殊の他に感動を憶えもし、時によっては涙することも珍しくはありません。人の仕草も言葉ならば絵画や音楽も言葉であり、アスリートが自らの持つギリギリの到達点までの力を出し切った表情などは殊の他に美しさも感じます。 恐らくは僕が風景などには興味がなく、人間にしか興味がないとの精神形成がこうした蔭を差しているのでしょうね。 「ちょっぴりオツムに訴えて、ちょっぴりハートにアピール」するならば、頭で考えてしまうと感動も憶えなくなり、視角や聴覚などの感覚器を通じて取り込まれる情報ならば、最初は感覚です。感覚が身体を動かすこともあるでしょう。それを「ノリ」などと呼ぶ方々もいらっしゃいます。 大人になってしまうと、そうしたノリの部分を何処かに押し隠してしまうのかもしれませんね。でも個人的にはつまらなくて寂しい話になってもしまうかな~と感じます。 質問者様の自己紹介にあたる猫さんの写真を見ても、僕はなんとかわいい仕草なのか、やはり猫はいいなと単純に微笑んでもしまいます 猫バカかな?
お礼
有難うございます。 人の性格や考え方に因って、感動の対象、感動度などが違うので、 一概には言えないということですね。 猫には人間のような汚れがないから、私は猫が好きです。 最近、人間より動物が好きだという人が増えているそうです。 心のケアにアニマルセラピーなんている方法があるのも、 恐らく人間で埋められない心の穴を埋めるためではないでしょうか。
- customar
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そこをさらに進むのです。 汚なさが頭の悪さであることが見えてきますよ。 社会的な是非は馬鹿騒ぎに他なりません。 感動しませんか。 自然が状態が野蛮だとかよく言えたものだと。 お話はどうも、感動ではなく、綺麗さについてなのでは。 その幻滅は実際ではない虚飾を見ていたからです。幻が滅するで幻滅。 そうそう、詐欺師に騙されている被害者は寂しくて騙されているとか言いますよね。日本国民です。馬鹿のまま死ぬくらいならさっさと死んだ方が人のためになりますよ。その馬鹿とは大学教授みたいな観念馬鹿の事です。政治は大事だとか。 たぶんご期待されてる綺麗さは存在しません。綺麗さは感情論です。刷り込みによる条件反射です。 感動は綺麗とかそういった対象である必要はありませんよね。 私は心理学など学問としての価値を感じませんがこのテーマは医学ではありません。精神医学という事?感心も感動もない分野ですね。 風景が好きなんですか。これ見ろ的な風景なんて良いものはありませんよ。世界遺産とか(笑)あと春の桜ね。空騒ぎですね。 抜いても抜いても生えてきやがる雑草のがすごいです。 眼病になるとまた景色が変わります。犬猫は確かド近眼じゃなかったかな。自称綺麗な物好きの糞ババアらが肛門に回虫付けたワンちゃんとプリプリ散歩して市中に卵を巻き散らかしてますけど。すげえ丈夫らしい、雑草の種みたく、回虫の卵。感動的!ところで犬猫は寝癖にならないのですかね。
お礼
有難うございます。 社会の汚れの構造が完全にわかれば、感動するということですか? 長毛の犬猫は、毛の手入れをしなければ、毛が絡まって酷い寝癖になると思います。
- born1960
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そうですか?私は年齢とともに感動するようになりましたが? だんだん涙腺も弱くなってきた気もします。若い頃はTVや映画では全く涙は出ませんでしたが。 たとえば日本の四季折々に咲く花。 これにしても30代くらいまでは全く興味がなかったのに、歳を重ねるに連れてより美しく感じるようになり、生命の強さ、儚さなどを感じるようになりました。紅葉なども若い頃はまたく興味がなかったですね。 ひょっとしたら、年齢的にこの自然の営みもあと20数回しか体験できないってことがあるからかもしれません。オリンピックやサッカーW杯も、あと5,6回しか見られませんし。
お礼
有難うございます。 世界遺産、スポーツ、花1輪。 この頃、全てに利権が絡んでいることが顕著に表れていて、 興ざめしてしまうんですよね。 食品偽装、広州恒大の監督のギャラが10億円とか、 何だかなぁと思います。
- customar
- ベストアンサー率17% (68/392)
心理学カテゴリへ移動ですね。 残念ながら一般化できません。私は逆だから。 若い頃に感動しなかった事に感動する。感動の流儀が違うのでしょう。サンタのプレゼントに喜ぶのを感動とする子供は夢から覚めてくるでしょう。逆にサンタのふりして喜ばしてくれたんだと感激する大人は少なくありません。本当のノンフィクションに感動できなければ貴方の流儀の感動は減る一方です。 賢い人が感動する流儀を身に付けていないだけです。テレビを観ていませんか。あれは飽きるからしょっちゅう手を変え、品を変えしていますよね。テレビ中毒は薬物中毒と同じで脳ミソが破壊され過剰な創作しか感動できなくなります。私に言わせたらテレビや映画で感動というのは感動ではなく病気です。 感動でないものを感動という脳ミソが現実にさらされて放心状態なのです。そういった偽感動依存性の場合、スカイダイビングになりわけです。 感動というのはもっと落ち着いていて身近なものです。子供は日常に感動していません。おもちゃメーカーやお菓子メーカーという大人に刷り込まれたペットの喜びが子供の感動です。 雑草でもちぎって太陽にかざして観察してみたらいい。ただです。 数式を美しいという人もいます。それはまともではありません。本能や欲望を芸術や人文科学にする詐欺師もいます。それは脳ミソを悪くする自虐趣味です。 はっきり言って昔から詩や音楽が人々を感動させてきましたがそれは人々が文明人ではなかったからです。日常や自然の見事さを神というフィクションの一つで済ませ全ての感動を神、つまり宗教に吸い上げられていたのです。現代の神はテレビと政府です。中身がない。 生まれた子供の目をふさいでいると目が見えても物を認識できなくなります。フィクションばかり見てきて感動してきたら現実を認識できなくなっています。 政府や老化や診断名のせいにされない事です。
お礼
有難うございます。 ノンフィクションは知れば知る程、人間の汚れを思い知らされます。 バブルの頃に比べて、世の中にすっかり偽装が蔓延し、 そういうことに幻滅しているのかもしれません。
- cubetaro
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1回目と2回目以降では、驚きが違いますから。 (子供のころは初体験が多いので、見るモノ全てが新鮮) あと、年取ると、後の事を考えてしまいがち…というのもあります。 (片付けが大変とか、疲れるから面倒くさいとか) 大きな感動をしたかったら、行った事のない海外に行くとか、スカイダイビングをするとか、未知の体験を繰り返すしかないかと。
お礼
有難うございます。 新鮮さが無くなることと、いろいろ考えてしまうのが原因なのですね。
お礼
有難うございます。 なるほど、子育てですか。 そんな気がしてきました。 私は残念ながら遺伝子の組み違えまたは欠損があるので、子供は諦めました。 遺伝したら、子供は絶対に幸せになれないからです。