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なぜ私たちは他人に認められたいのか?
閲覧ありがとうございます。 なぜ私たちは他人に認められたいのでしょうか? きちんとした職についている、恋人がいる、お金もち、話がうまい、料理がうまい、etc 一般的に、私たちが他人に認められたいのは「自尊心」を保つためだと言われます。 では、なぜ自尊心は保つ必要があるのか? 私の意見ですが、問題の本質は自尊心では ないと思います。 本質は「退屈」です。何の特技も何の趣味もないと、かなり「暇」ですよね。人間、暇すぎると人の噂話、悪口を言うようになります。これも自尊心を保つための行為に見えますが、本質は「暇」だから人の悪口を言うのです。自分の中に話のネタがないから、他人の話をするしかない。どうせなら悪口言って自分がいい気分になろう。 本当は、他人にどう思われるかは重要ではない。自分の軸をしっかり持って、「暇」をやっつけていく事が大事なんだ!
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- rokometto
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私はこうだと思います。 「自分の存在と存在意義を感じることができるから」 自分だけでは自信をもって唯一の存在だと言う実感ができません。 ですから認められることで「ああ、自分は存在していいんだ」という感覚を得ようとするんだと思います。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 一般に ○ 承認欲望 と言われている主題であると考えます。 問題は ひとという存在が 一方では おのれの意志による選択の自由という条件のもとに生きていると同時に 他方では 社会的な生活をおこなうその関係性をまぬかれないという条件をも持つことにある。 言いかえると ひとは それぞれ社会的な独立した存在であると同時に 社会的な関係性としてその存在があるということ。 早い話が 生活にかんする共同の仕組みのもとにおのおの個性をもって生きている。 これが 人間の条件だと捉えられます。 ですが 結論を急ぎますが 《社会的に共生しているし 共生というかたちでしか生きざるを得ない》としても そのとき 《わたし》は ほかの《わたし》たちから《みとめられる》ことがなければ 生きられないか? と言えば どうなんでしょう。 言いかえると おそらく《わたしが生きるのは 社会を成してほか人びとと共生することとしてである》とみとめたとき 自分の社会的な存在性が確認され それとともに ほかの人びとの存在についてもワタシがみとめたことになる。のではないでしょうか? これが 結論ですが さらに説明が必要であるかも知れません。 たしかに ○ 自尊心 は いまの結論の内容以上の承認を求めているようだからです。 そしてその見方は おっしゃるように 余計なものだと考えられます。自尊心より前に すでにワタシはひととして存在している。という現実があるからです。おまけを欲するというより要らないカザリを欲しているのでしょう 自尊心を満たしたいという場合はです。 では ★ 退屈 ☆ は どうか? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 本質は「退屈」です。何の特技も何の趣味もないと、かなり「暇」ですよね。人間、暇すぎると人の噂話、悪口を言うようになります。これも自尊心を保つための行為に見えますが、本質は「暇」だから人の悪口を言うのです。自分の中に話のネタがないから、他人の話をするしかない。どうせなら悪口言って自分がいい気分になろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶん これも触れておられるように 《自尊心》の問題であるでしょう。 なぜなら もし自尊心がむっくりと起き上って来なければ 《ひま》は ヒマのままでよいはずだからです。 ★ 本質は「暇」だから人の悪口を言うのです。 ☆ ヒマの状態から 何かカザリが欲しいのではないでしょうか。つまりそれは 自尊心が騒ぐからではないか。 ほかの人間をよく言おうがわるく言おうが それは その人やまわりの人びとから自分のことが――つまりあるいは 自尊心のことが世の中から放っておかれてしまっているので―― かまって欲しいと思っているからではないでしょうか。 クリスマス・ツリーの 樅の木本体とそしてそのカザリとの区別にかかわっているように思われます。 承認欲望は カザリの部分における・特には自尊心という気持ちから起きる心のウゴキであるように考えられます。 なんで 自尊心が起きるのか? 本体から心が離れて行ってしまうのは だいたい一度は起きるふつうのことだと考えられます。それは ウソをつくといったこととつながっているのではないか。一度は ウソをつきますから。 ウソを弁明しようとすると カザリを必要とします。そのとき 自尊心も《芽生える》ものと思われます。クリスマス・ツリーは 《きれいに飾られて》行きます。
- maho_m
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「価値がある」と認められるという事は、信頼を勝ち取る事を 意味します。それがなければ、社会では何もやっていけない。 少なくとも、労働経験を得てから考えればいい。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
本来、有限的な存在性は認識される事で派生 いる=世界は自己に由来しており、自己による 他の評価が全てなのだ。 ところが、そうした実体に基づく“生きている事”と 社会的に生きるための二次的情報“生きる事”が 乖離し、お金や権力といった社会的な二次的価値 =馬車馬の目の前のニンジンによって、他律的に 生かされるようになった。 その結果、環境の把握としての認識は、歯車と して使役されるためのバラバラの詰め込みの知識 となり、その結果、自我の目覚めのできていない 大人コドモとなって、自己認識を他人の評価に依存 するようになってしまったのだ。 その他律的生において、本来、死による幸・不幸0 の状態から、プラスを目指して生きているはずが、 いつの間にか、短絡的利己による擬似ジャングル の弱肉強食の苦しみや法規やモラルによる強制 (欲望との拮抗)といった、マイナスから逃げる事で かろうじて0になる死人に等しい生に堕してしまって いるのだ。
- gouzig
- ベストアンサー率25% (536/2078)
あなたはいい質問をしますね。 「なぜ他人に認められたいのでしょうか」 なぜ人間はセックスをしたがるのかという疑問に似ています。 それは人間のDNAにある本能だと思っています。 「人は自分が駄目な人間ではない」と誰でもが思っています。 そのために、勉強も仕事も友人関係も、そして恋愛もしているのです。 哲学でも医学、文学でもそれは当然のこととして議論すらしませんね。
お礼
遅くなりましたが、回答ありがとうございました。
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お礼
回答ありがとうございます。