ポツダム宣言と原爆投下についての質問です
ポツダム宣言を日本が受諾した理由は何でしょう?阿南陸相ら反対派も勿論いたのですが、天皇や海軍など、大勢が受諾を決定した理由は何でしょう? 原爆投下ですか、それともソ連の参戦ですか?これ以上の人名損傷は避けたいというような、人道的な気持ちは当時の天皇や海軍にあったのでしょうか?
7月26日から8月14日まで、受諾を決定出来なかったのは、国体護持に拘っていたからですか?
原爆投下の目的は、アメリカが言うような「これ以上の人命損傷を避けるため」ではなかったことは、色々な証拠があってはっきりとしています。しかし、私が知りたいのはそのことではなく・・・もし、原爆を使わなかったら、原爆投下以上の人命が本当に失われたかどうか、という疑問です。
もし、日本本土決戦になれば当然そうなるでしょうが、連合軍は実際に日本本土決戦を想定していたのでしょうか?
沖縄には進攻して決戦になりました。しかし、本土決戦は出来れば避けたいからポツダム宣言を出して、戦争を終らせようとしたのではないのでしょうか?
色々質問ばかりで申し訳ないのですが、質問の核心は「もし、原爆を使わなかったら、原爆投下以上の人命が本当に失われたかどうか」です。もしそうなら、渋々でもアメリカの主張を認めざるを得ません。
参考になること何でも結構です。成るべく根拠を示して、貴方の考えを回答して下さい。根拠というのは、ハルノートにはこう書いてあるとか、ルーズベルトやトルーマンに関する資料等にこう書いてあるなど、です。独りよがりな思い込みを避けたいためです。
宜しくお願いします。
お礼
すっきりした回答を頂き誠にありがとうございます。 「永井和のホームページ 映像で見る占領期の日本」は、実に素晴らしく、大変よく解りました。 後日、このHP内の「倉富勇三郎日記研究」を読むつもりです。 連絡手段についても疑問があったのですが、このHPで 「マニラにおける連合国最高司令部と、日本政府および大本営との問に無電連絡が開始」「米軍司令部と大本営との間に継続的ラジオ通信を行う」 ということで、解決しました。 マッカーサー到着が二日遅れたのは、 「八月二十二日夕刻より二十三日朝にわたる七百四十ミリメートルの強烈なる台風のため」日本側の準備が間に合わなかったのですね。 当時は、水銀柱mmで表示していたことを思い出しました。