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存在は 善悪を超えている。

  (あ) 存在は 善悪を超えている。  ひとの存在についてです。   (い) ひとという存在の自然本性は そこから――自由意志による選択をとおして―― 存在(生命)に善いことも そして その善いことに反すること(つまり 悪いこと)をも 自由に おこなうようである。   (う) ただ その存在じたいは 善悪を超えている。かも知れない。  こういう命題です。これについて 真偽・成否などについて見解を示してください。  手がかりは けっきょく《信仰》にかかわります。    (え) 神は 自分にかたどって ひとをつくった。   (お) これによると 神は おそらく――いわゆる善人悪人を問わず 誰にも等しく 雨を降らすというごとく―― 善悪を超えているはずですから その神の存在に似ている と言えば そうなのかなというところです。つまり   (か) ひとは はなはだ不類似であるが いくらかは神に似て その自然本性において善悪を超えているところがある。かな?  という命題です。   (き) おそらくこれは またまたですが ブッダターの問題だとも考えられます。

みんなの回答

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.5

B様、こんばんは。 《信仰》から離れられない以上、 「「信教の自由」の限界」は、あるでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ○ 悪は 存在しない。  ☆ この命題は 信仰に関係しますが 信仰に触れずに考えることが出来ます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.4

bragelonne様、こんばんは。 >「(う) ただ その存在じたいは 善悪を超えている。かも知れない。」 >「手がかりは けっきょく《信仰》にかかわります。」 >「という命題です。」 おっしゃる《信仰》から離れては、考えられませんか?

bragelonne
質問者

お礼

 くりなるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  たしかにこの質問は おかしい。  No.2のお礼欄に書き込んだとおりです。  《人格 ないし 人間存在》は 善悪を超えている。という命題を確認したい。という魂胆での設問です。  それを《信仰》を出して問うなら たしかにたとえば《ブッダター》において 善悪を超えていますよという回答をもらって それでおしまいとなります。そういう性質の問いでした。  それで そのあとやっと考えついた修正案は こうです。   ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  悪は 存在しない。  存在するのは 人間存在ないしその生命としての言うなれば善のほうである。  すなわち 悪は 悪と呼ぶ現象があるのみだ。  悪とは 善を――むろんひとがその自由意志〔のへそ曲がり〕によって――損傷させる行為である。またその損傷を受けた心の状態を言う。  存在するのは ひとの自然本性としての善であり しかもこの善は 相対的・有限なものであるから いつしかヘソを曲げて みづからを損傷させようとすることがある。つまり ウソをつきイツワリを言うようになる。  このウソ・イツワリが 善の損傷として――つまりは 負の善として―― 悪と呼ぶものであると。  つまり 悪は 善の損傷であり マイナスの善である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この主題は すでに幾度か問うていますが もしよろしければ この質問で回答をさらに寄せていただくということにしたいと思います。どうでしょうか。

回答No.3

こんばんは。 善と悪について考えさせる曲を見つけました。 アンチクロロベンゼン http://www.youtube.com/watch?v=sb3_VIR62iQ 歌詞は、 http://010701070107.blog5.fc2.com/blog-entry-4444.html この歌詞は、まさしく、哲学だわ~♪ 実存主義、実存哲学だわ~♪ キリスト教的実存主義哲学を歌っている!! この先に待ち受けるのは、 《孤独》、 《絶望》!! そして・・・、 《全面的和解》?。 《赦し》?? はたして、人間はこの《絶望》に耐えられるのか・・・。 例によって、 この歌詞を買いかぶりすぎか・・・。 ちなみに、この曲は、 《ジクロロベンゼン》と対の曲です♪

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  うたの質問のほう いま回答を寄せて来ました。  あまりいい印象を持ちませんでした。  あっ また別のうたですか。  やはり  ▲ 正義 / なにが善だ なにが悪だ 善でもいい 悪でもいい  ☆ が出て来ますね。ここ(アンチクロロベンゼン)では《正義》は 必ずしも同じ基調ではないかも知れません。《善悪》のほうに焦点が移っているのかも分かりません。  いやぁ あとは 分からないですね。きちっと何かを言おうとしていますか?    いやぁ もういちど歌詞を読んで やっぱり分からないですね。  となりました。

bragelonne
質問者

補足

 質問を 次のように修正することを考えつきました。よろしかったら どうぞ回答をお寄せください。  ○ (修正質問) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  悪は 存在しない。  存在するのは 人間存在ないしその生命としての言うなれば善のほうである。  すなわち 悪は 悪と呼ぶ現象があるのみだ。  悪とは 善を――むろんひとがその自由意志〔のへそ曲がり〕によって――損傷させる行為である。またその損傷を受けた心の状態を言う。  存在するのは ひとの自然本性としての善であり しかもこの善は 相対的・有限なものであるから いつしかヘソを曲げて みづからを損傷させようとすることがある。つまり ウソをつきイツワリを言うようになる。  このウソ・イツワリが 善の損傷として――つまりは 負の善として―― 悪と呼ぶものであると。  つまり 悪は 善の損傷であり マイナスの善である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  すでに問うたことのある問いですが さらに問い求めてみます。  悪は 善の損傷としてのみ現象しているだけである。悪は 悪として(あるいは 善がそうであるようには) 存在しない。  この命題が成るならば やはり 人間因(善悪をふくむ)⇒人間果(善悪をふくむ)といった因果論は成り立つと考えられるからです。つまり 善因悪因のほかに・それらを超えた次元で 《人間因》がありうると考えられると思われるからです。

回答No.2

こんにちは。 ☆ (あ) 存在は 善悪を超えている。 ◇《可能態・デュナミス》としては・・・。 ☆ (い) ひとという存在の自然本性は そこから――自由意志による選択をとおして―― 存在(生命)に善いことも そして その善いことに反すること(つまり 悪いこと)をも 自由に おこなうようである。 ◇《デュナミス》には、能力の意味もあるので、 自由意志がその《デュナミス》となるのでしょう。 でも、 わたしたち、人間は《可能態》としてではなく《質料因》を持った《現実態・エネルゲイア》として存在しているわけですよね。 《可能態》は善悪を超越しているのかもしれませんが、《現実態》はそれを越えていないのでは? ☆手がかりは けっきょく《信仰》にかかわります。  ◇《スコラ》になっていませんか。 存在論 トマス・アクィナス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E8%AB%96 ☆ (き) おそらくこれは またまたですが ブッダターの問題だとも考えられます。 ◇《仏性》はひとまず棚上げし、 《現実態》としての《煩悩具足》から考えてみませんか?

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  いま考えても かなりおかしな質問になっています。    ですが その前提は しっかりとしています。  ○ (この質問の前提事項) ~~~~~~~~~~~~~~~~  1. もしわれわれ人間の存在が 善悪を超えていないならば その意志行為の因果関係は 善悪をふくむ人間因から善悪をふくむ人間果へといたるものであると言っても それはあまり積極的な意味を持たない。  2. なぜなら 過去の或る意志行為にかんする人間因が いわゆる悪がおおきな部分を占めているならば その事由によって因果関係を 悪因悪果だと言っても それほどマチガイではなくなる。    3. というのも もし存在が善悪を超えているのでなければ 人間因(善と悪をふくむ)⇒人間果(善と悪をふくむ)といった因果の系列にかんして 実質上は 悪因悪果だと見ても おかしくなくなる。  4. つまりは そのとき善因善果や善因悪果や悪因善果の部分もあり得るだろうけれど それらは いまの事例の場合には 微々たるものだと見なされるから。  5. つまり 存在が 因として善か悪か そして果として善か悪かのいづれかの組み合わせとしてのみ成り立っていると見なされるから。(経験行為のほかに もうたとえば生命といったようなプラス α の要素はないと見なされるから)。  6. つまりは 善悪因⇒善悪果の組み合わせ以上の要素は何もないことになる。  7. なぜなら 善悪をふくむものとして《人間》因や《人間》果のことを堂々と言えるのは この人間存在が 善悪(また無記)の要素だけから成るのではなく 存在には善悪を超えたところのプラス・アルファつまりはきらりと光るきよらかさがあると見なされるところから来ると考えられるのであるゆえ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから この問いのいま質問者がいだく問題意識としては:  ◇ 《可能態・デュナミス》としては・・・。  ☆ というかたちにして問い求める行き方は よいわるいを別として 方向が違っているように思うわけです。  (もっとも 可能態を プラス・アルファのことだと見れば よいかも知れませんが)。  あるいは  ◇ 《スコラ》になっていませんか。  ☆ と問われるなら その点はだいじょうぶだと考えています。  また  ◇ 《仏性》はひとまず棚上げし、 / 《現実態》としての《煩悩具足》から考えてみませんか?  ☆ という提案についても 微妙に方向が違うように思うわけです。  言いかえると ぎゃくに言って《現実態》としての《煩悩具足》から考えてみたときにも その《存在は 善悪を超えている》という暗黙の前提が置かれている。こう思われて来ます。そしてそのことを ぢかに問うているかたちになります。  よわりました。  これでは 善悪の彼岸が 現実の人間存在にそなわっていると あなたは思うか? 思うか思わないか いづれかで答えてくださいといった質問にしかならなくなっているようです。  取り敢えず この現状をお示しして ときをかせぎます。むろん よきアイディアがありましたら おしえてください。

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