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ベトナム戦争
アメリカが北ベトナムを叩きのめしていたら 当然、統一親米政権ができていたでしょうが 北のゲリラ攻撃で政権維持もどうかと思います。 では北ベトナムが統一を維持できたのは なにによるのでしょうか。
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反政府ゲリラ組織の勢力を押さえる事ができたから。 具体的に言うと、南ベトナム政権が倒れた後、南ベトナム軍残党や民兵の残党などからなる反政府ゲリラ組織ができ、ベトナム戦争から15年以上経った90年代でもその活動続けられており、その勢力は約2万5000人程でした。 しかし、次の点から勢力は大きくなれず衰退していくばかりでした。 (1)聖域を確保できなかった事。 ベトナム戦争においてベトコン(南ベトナム解放民族戦線)には北ベトナムという米国や南ベトナムが地上軍を侵攻させる事を躊躇う聖域がありました。その延長線上には中国も含まれます。 アフガニスタンでソ連軍と戦ったアフガンゲリラにもパキスタンというソ連軍が手出しできない聖域がありました。 つまり、安全な聖域(拠点)という後方地帯を確保する事によって、兵士の休養と戦力の整備、他国からの援助の受け入れ等が捗りますし、戦況が不利ならば聖域へ退避し損害を抑える事も可能となります。 しかし、北ベトナムに統一された後、地政学的に旧南ベトナム系のゲリラには聖域が確保できませんでした。 ベトナムは3つの国と地上で国境を接しています。 中国、ラオス、カンボジアです。 中国は北ベトナムと当初、友好関係にありましたし、両国関係悪化後は、越中戦争が起こるほどで、国境地帯は双方の大軍が睨みあっている状況で当然論外、ラオスもベトナムの強い影響下にありベトナム軍が大量に駐留しているので論外、カンボジアは内戦でさらにベトナム軍が駐留しているので論外です。 つまり地続きの国で聖域となるべき地が無かったのです。 その為、旧南ベトナム系のゲリラは安全な外国との連絡が容易な地続きの聖域(拠点)を持てませんでした。 また、旧南ベトナムで北の支配に従えないものは、海から脱出し難民となって諸国に収容されていきます。こうした人々は小さな反政府組織を収容された国で立ち上げるのが精一杯であり、大軍を組織しベトナムに海上進攻するような力は持てませんでした。 (2)外国の支援を確保できなかった事。 ベトナム戦争において、ベトコンは北ベトナム、中国、ソ連からの武器、食料、資金等、多くの援助を得られました。だから米国相手だろうと戦えました。 アフガニスタンでソ連軍と戦ったアフガンゲリラもアラブ諸国家や米国の支援があったからこそ、長い間戦え、ソ連軍を撤退に追い込めました。 しかし、旧南ベトナム系のゲリラはどこの国からも見捨てられ援助をもらえませんでした。これでは戦い続けられません。 ちなみに南ベトナム政府は北ベトナムの進攻に対し米国に7億ドルの軍事援助を要請しましたが、米国はこれを拒否し南ベトナムを見捨てました。そして南ベトナム政府は北ベトナムに倒されました。 (3)市民の支持が得られなかった事。 もともと南ベトナム政府が、人口の多くを占める仏教徒を弾圧したり、南ベトナム軍の規律が悪く市民に対して横暴だったため、支持や協力がベトナム戦争時代から得られていませんでした。 市民の協力の得られないゲリラ戦は敗北必至です。 (4)旧南ベトナム系のゲリラ組織が分裂しており、統一された組織として活動できなかった事。 民族闘争統一戦線、国民救国運動など組織は幾つもに分裂しており、反政府組織としての力を結集できませんでした。 ただでさえ、敵は巨大なのに分裂していては勝つ事など無理というものです。 ●そういうわけで、旧南ベトナム系のゲリラ組織は大きくはなれず、その反政府活動は先細りしていくだけでした。 また旧南ベトナム系の軍人や要人などは統一後に政府により収容所に収容され厳しく監視されました。 さらに、ベトナムでは警察とも軍とも別の内務省所属の武装公安隊という強力な準軍事組織が作られ、国内の反政府活動に目を光らせる体制を敷きました。 そうした結果、政府に反感を持つ者はポートピープルという海から逃げ出す難民になるのが精一杯という状況になり、ベトナムでの反政府ゲリラ運動は抑えられ、統一を維持し続ける事となりました。
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- ssssan
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大義が無かったからじゃ無いかな南ベトナムは、アメ公連合軍が介入する前から記すと大東亜戦でニイタカヤマノボレで即南インドシナ*ベトナム*にも進駐して仏軍を叩き出して軍政敷いてて平穏な時が2.3年つづきましたが終戦で日本軍引き揚げたら即恥知らず国仏が再侵攻して来てホウ爺さんとの戦闘でボロ負けでトンズラ即何だかんだ理由付けて米.連合軍がバトンタッチしましたそこには悪名高いトンスラー軍も入ってます、で北が統一出来たのは米国民の厭戦気分と核を落とせない戦争が一番かと、米は厭戦と国防費負担耐え切れずで国が疲弊してしまったから、北爆何て米のヤラセから介入ですし大義の無い戦の見本ですね。 北もギリギリでしたが自国防衛は国民の義務ですからね、持ち堪えられたのは、まは日本と同じ様なものかな、トップが終戦決断しない限りトコトン国民は戦ってたと思うからベトナムとは相通じる面も有るかな。
お礼
フランスがシッポを巻いて逃げ帰ったのを いい気になって「フランスのボンクラ、 ワシにまかしとけ」と出しゃばって大恥かいた アメリカに何の大義名分があったのでしょうかね。 昨今のイラク戦争、シリア攻撃のやる気満々、 あの国は…野蛮人国家です。もしイスラエルを攻撃したら 世界はアメリカの言いなりになってもいいくらい 説得力があるのに、自称世界の警察とは笑止。 世界の悪代官でしょう。 回答ありがとうございました。
- eroero1919
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とても長い回答がついていますので、私はシンプルに。 要するに、ホー・チ・ミンは人心をつかみ、ゴ・ディン・ジェムは人心をつかめなかったということではないでしょうか。人徳の差が出たということでしょうね。
お礼
簡単明瞭でよく分かりました。 結局アメリカとか中、ソ連云々もさることながら 行きつくところは人間ですね。 回答ありがとうございました。
- IsakAjimaf
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長くなりますが、歴史的な流れをまとめると、次のようになります。 1)フランスによるベトナムの植民地支配が、第2次大戦による日本軍の東南アジア侵攻で弱体化した。 2)日本の敗北を機に、反日組織ベトミン出身のホーチミンが他国の傀儡政権でない形で独立を宣言した。この反日組織の中では、戦中から共産党が主導的な役割を果たしていた。 3)ポツダム会議で北ベトナムに中国が、南ベトナムにイギリスが進駐後に南北両方をフランス支配に戻す方針が決まっていたので、アメリカを筆頭に主な戦勝国はベトナム独立を承認しなかった。 4)フランス軍とベトミンの間で交戦状態になり、フランスは南のサイゴンに傀儡政権を樹立。 5)アメリカは共産主義の勢力拡大を警戒し、中華人民共和国との結びつきが強い北ベトナムを攻撃する立場である南ベトナムに加勢する立場を選択したが、初期には大規模な介入をしなかった。 6)共産主義との関わりを持つ北ベトナムを中国やソ連が支持し、特に中国が直接的な軍事支援を敢行した。現地のフランス軍が壊滅した1954年に南北を分断する形で停戦する。(ジュネーブ協定) 7)南ベトナム政府はアメリカの傀儡であったので、北側が圧勝する見込みだった南北統一選挙(ジュネーブ協定で実施が予定されていた)を拒否し、南北2つの政府の対立が深まった。 8)南のゴ・ディン・ジエムはアメリカの支持を背景に独裁を強化。反政府勢力の投獄、虐殺を公然と行い、北ベトナムと直接の関係がない人々による反政府組織を国内に大量に生み出すことになった。 9)北のホーチミンはこのように独裁的な南のジエム政権の打倒を明言。南の反政府勢力が結集してできた南ベトナム解放民族戦線への軍事支援を開始。 10)ケネディが南ベトナムへの軍事支援を拡大し、戦争が激化。ベトナム現地の仏教徒による抗議のための焼身自殺を、ジエムの弟(秘密警察長官)の妻がテレビ出演の中で「バーベキュー」と評して嘲笑したため、一般市民の反感を買った。 11)クーデターでジエンが失脚した後、南ベトナム政府内での権力闘争が続き、実に十数回ものクーデターが連続して起き、解放戦線との交戦がおろそかになる。そのため、南政府と南ベトナム正規軍の関係が悪化する中で、首都サイゴンが陥落する。 12)アメリカの支援は北爆、地上軍の派兵へと更に大規模化。戦況は南有利に傾く。しかし報道によって現地の残虐さがアメリカ国内の反戦運動を起こし、同じ時期に高まっていた大学自治運動や人種差別撤廃運動とも結びついていった。 13)アメリカが世論に押されて軍事支援を縮小し、また、中国とソ連の対立が深まって北ベトナムへの支援も弱まる中、民族統一のリーダーだったホーチミンが病死。殉教者的な存在となって、独立側の南北の勢力の団結力を増す結果になった。 14)ホーチミンが橋渡しを務めていた中国がアメリカと友好関係を持つ方針変更をし、北ベトナムは中国でなくソ連との関係を深めていく。 15)北ベトナムとアメリカの間に停戦協定が結ばれ、アメリカ軍の完全撤退が実現。 16)アメリカの内政混乱から米軍の再参戦がないと判断した北が停戦協定を破って南へ全面攻勢に出る。 17)北軍がサイゴンを占領し南ベトナム政府を解体するに至り、南北統一の基盤が出来る。 ここで政治史ではほとんど触れられませんが、ベトナムは昔から農業国であることが非常に大きい意味を持っています。多くのベトナム国民は富裕でなく、イデオロギーへの関心が薄く、自分の住む土地への愛着が強い。組織への忠誠でなく自分たちの生活を守るために戦う彼らは、首都を失っても上官が処刑されても、ゲリラ戦を止めることはなかったのです。南も北も本当は戦争を望んだのではなく、外国の支配を断ち切って自分の生活を守ってくれる国ができれば良いと願っていた。南では戦争以前に独裁者による搾取と虐殺があり、安心して生きることができなかった。だから海外の軍事介入が弱まり、過去の経緯から民衆の支持をより多く受けることの出来た北ベトナムが全土を掌握した時点で、死ぬまで戦う理由を失った多くの民がその統一を受け入れたのでしょう。
お礼
ホーチミンが偉かったのですね。 詳しく説明していただきよくわかりました。 回答ありがとうございました。
- ithi
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popps さん、こんばんわ。 そうですね。南ベトナムは政治的なクーデターが絶え間がなく、かろうじてアメリカの経済面や軍事面での支援で支えられていた政権でした。 この南ベトナムという国を指導する軍部も政財界もかなり腐敗していたということです。 南ベトナムでも大多数を占める中流以下の国民は生活が苦しく、政府の腐敗や不正を憎んでいましたから、ベトコンという組織に入って北ベトナム軍を支援する人がいました。 ベトコンの人たちはこう考えていたのです。第2次世界大戦以後、この国は宗主国フランスやアメリカを巻き込んでの戦争続きでした。だから、いつかベトナムの民族国家の樹立を考えていました。そのために外国からの傀儡政権から脱却して民族主義的な政権を作りたいと思っていたからです。
お礼
早速の回答ありがとうございました。
お礼
よく分かりました。南はアメリカに依存してたから アメリカが手を引いたらこうなるのは当然の結末ですね。 回答ありがとうございました。