- ベストアンサー
東京大空襲から敗戦へ。瓦礫の処理。
復興するにはまず、膨大な瓦礫を処理せねばなりませんが、どのようにして処理したのですか。 住民が住民自身の判断で、近くの海辺、川、池などへ大八車で運んで、捨てた(埋め立てた)のですか。 役所は瓦礫処理に関して何らかの指示を出しましたか。 ドイツでは、女性が主体になって膨大な瓦礫を処理したそうで、その奮闘ぶりは教科書にも載っているそうです。 よろしくお願いします。
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
既に御回答が出揃っている様子も伺えますので、 重複を避けるため参考URLの貼り付けにとどめますが、 少しでも隙間が埋まればとの思いで投稿させていただきました。 なお、下記の「郷土室だより 第69号(平成2年9月30日)」によれば、 焼跡につみ重なった建物の土台石や焼け瓦、壁土などを当時は「残土」と呼んだようです。 ・「首都建設法の制定に関する一考察(1)/長谷川淳一」『経済学雑誌 105(4)/2005-03』 http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/il4/meta_pub/G0000007repository_KJ00002508037 <16~18/18> (3)残土整理の必要 ・東京都中央区立京橋図書館>アーカイヴス>郷土室だより> 「郷土室だより 第69号(平成2年9月30日)」 http://www.library.city.chuo.tokyo.jp/pdf/area/kaigann068-075/kyodo_069.pdf <1/6> ◇消えた三十間堀川 「郷土室だより 第110号(平成13年7月1日)」 http://www.library.city.chuo.tokyo.jp/pdf/area/hashi02_101-121/kyodo_110.pdf <3~4/4> ◇埋められた外濠 ・第38回土木学会関東支部技術研究発表会 「東京における戦災復興と河川埋立に係る一考察/ 東京都土木技術支援・人材育成センター 正会員 石原成幸」 http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00061/2010/37-02-0036.pdf ・平22.都土木技術支援・人材育成センター年報 平成22年度(2010年)年報目次/報告編(本文) 整理番号 2217/年報の頁 169 題名 17. 東京の河川に係わる管理体制と改修計画の経緯 「東京の河川に係わる管理体制と改修計画の経緯/技術支援課 石原成幸」 http://doboku.metro.tokyo.jp/start/03-jyouhou/nenpo/22nenpo/2217.pdf <6~8/16> 6. 戦災復興計画における河川埋立の背景 (1) 建設のあゆみ、(2) 灰燼処理、(3) 河濠整理計画、(4) 新都市 以上 疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
その他の回答 (2)
- mm058114
- ベストアンサー率30% (102/337)
こんにちは。 住民の個々の処理もありましたが、行政の大規模処理も行われました。 良い例が、首都高速、会社線等の地上線、掘割になって部分です。 今では名前だけ残る、築地川もそうです。 東京下町の多くの運河も埋め立てられました。 銀座で名前だけ残る、数寄屋橋は、そこに川のあった名残りです。 また、戦後復興の中で、湿地の開発にも多く使われました。 私の近所では、湿地にA小学校を建築する為に、近所の瓦礫が大量に投入されました。 また、T公園の池にも投入され、完全に埋め立てられました。 東京湾埋立地にも、大量に投入されています。 地名に、川、池、橋のある所は、その可能性が高い場所です。 つまり戦後急速な開発、復興の中で、土砂の代わり役立てられました。 しかし、復興計画に利用されたと言うより、瓦礫処理の為に計画実行されたと言うべきでしょう。 東京都の一番優先順位の高い戦後計画は、瓦礫処理でした。 日本建築史の戦後復興の章に、具体的計画が書いてありました。 近所の中央図書館には、必ずあるはずなので、参考に。
お礼
ご回答ありがとうございます。 瓦礫処理の具体的な例を示してくださったので、よく分かります。 「日本建築史」の中に戦災復興の章があるのですね。 読んでみます。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E7%81%BD%E5%BE%A9%E8%88%88%E9%83%BD%E5%B8%82%E8%A8%88%E7%94%BB http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E6%A0%84%E8%80%80 このへんが指示して行っていたはず
お礼
ご回答ありがとうございます。 Wikiはたいそう参考になりました。 あの大混乱、そして虚脱感のなかで敗戦3か月後には「戦災復興院」が発足したとは、驚きです。 しかし、東京での瓦礫処理は、他都市に比べると遅れたそうですね。 都心に点在する濠、小さな河川を瓦礫で埋めて、できた土地を民間に売却したということが分かりました。 「こうして江戸以来の東京の水空間が大量に失われた」とありますが、今となってはただ残念としか言いようがないですね。
お礼
ぴったりの参考資料を教えて下さってありがとうございます。 中でも「首都建設法の制定に関する一考察(1)/長谷川淳一」はよくまとまっており、大変参考になりました。 当時の新聞を読んでみたかったのですが、幸いにも参考URLには数々の新聞記事が出ているので、当時の様子がよく解りました。 都民の投書を読むと臨場感が溢れています。 埋立費用をねん出するために埋立後の土地が高値で売れる都心の河川を埋め立てたのですね。 残土処理は、民間ではなく都が主体、それも失対事業として行っており、仕事のない時代には効果的だったのでしょう。 ドイツの場合は、デオ・ゾンマー著『1945年のドイツ 瓦礫の中の希望』(中央公論新社) では、男性が極端に少ないので女性が立ち上がって瓦礫処理に奮闘しています。 この点はさらに調べてみますが…。 瓦礫ではなく「残土」と呼んでいたのですね。 今なら「瓦礫」の方がぴったりだと思いますが、今も「残土」で通用するのでしょうか。 これも調べてみます。