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自力救済

  少なくとも信仰とは言えんな。 なぜ拝む。  

みんなの回答

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.6

あのね。 「拝む(め)」ってのは「他力」。 ・・・知るか、ボケ。 「なぜおがむかなんてのはたりきにきけ」 判りましたか。

回答No.5

>法律でも自力救済は禁止されておる。  そりぁ、不法行為なんかの話。  何を拝もうが信教の自由。禁止するほうが憲法に反する。

soodann1
質問者

お礼

  ただの冗談をゆーてみただけじゃ。  

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.4

自力救済と信仰とは矛盾する、という意味ですか。 拝もうが、拝まないが結果には変わりありません。 それでも拝むのは、己より上の存在を認めて いるからでしょう。 己より上の存在があるとなれば、人間謙虚に なれます。 謙虚になれば、判断を誤ることが少なくなります。 拝んでいる姿、というものは美しいものです。 それだけでも意味があると思います。

回答No.3

よけいなお世話でしょ

soodann1
質問者

お礼

  よけいなお世話ではない。 法律でも自力救済は禁止されておる。  

noname#181644
noname#181644
回答No.2

これはおそらく自灯明のことを言っているのだと思いますが、自灯明には合わせて法灯明という言葉があります。 また、自己の中に仏を探すといわれるように、単に自力救済というのと意味が異なるのです。 おそらく質問者の見ている仏教が限りなく世俗に近い仏教観であるために、このような質問が出るのでしょう。 しかしながら、何故拝むのか、というのは深い意味があると私には思えました。 ただの挨拶ではなく、敬虔で、その奥に何かあるのを悟った様な行為が、拝むという行為なのではないでしょうか。 ただ、仏前で拝むとなった場合、そこに清らかさの様なものを感じるのも事実です。それが何なのかは私にはまだ分かりません。 難しい質問でした。

回答No.1

まず、信仰の定義をしてから、出発すべきです。 ☆少なくとも信仰とは言えんな。 ◇これは、質問者の考える信仰に合致しないという主張。 それ以上でもそれ以下でもありません。 例えば、朝食にはかならずパンを食べる人がいるとします。 その人が「朝食にご飯を食べることは認められない」、「朝にご飯を食べることは朝食として認めない」というのと、この主張は何ら違うところがありません。 その理由をまったく示さないままにこの主張をすることが、これが如何に無茶な言動か理解できるでしょう。 ☆なぜ拝む。 ◇余計なお世話です。 質問者は五次元の世界とやらを信じて、それを拝んでいればいいのです。 それが、たとえ、どのように荒唐無稽なものであったとしても、 わたしはその信仰を否定したりしません。 どうぞ、ご自由にです。

soodann1
質問者

お礼

  >まず、信仰の定義をしてから、出発すべきです。 それは簡単である。 自力に頼るのであれば、何かを信仰するまでもなく拝む必要もあるまい。 信仰とは他力に頼る以外ない。  

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