- 締切済み
暗い内容ですが…
たまにもう死んでしまいたい衝動にかられてしまいます。 十数年前、知人に自殺者が出てしまい、その遺族の辛さや悲しみを知っているので、自ら命を断つのは絶対に良くないと思いながら生きてきました。 しかし、生きていると本当に色んな事があります。死んで楽になりたいという気持ちと、自分が死んで遺された者が苦しめばいいという周囲への恨みの念を抱いてしまいます。 知人が亡くなった時、その人が何故そんな事をしたのかよく分かりませんでした。でも今は何となく分かります。自分も辛いのに、周囲に辛く当たられたり、助けを得られなかった時に死にたくなるんです。 だからと言って死んでいいわけはありませんが、生きているのが本当に嫌になってきました。 私の中に自殺=悪という思いがあって、死ぬ勇気があるのなら生きる勇気を持つべきだ、自殺なんてみっともない、意気地無しの弱い人間のすることだと思ってきました。 しかし、その思いも今は揺らいでいます。 暗い内容で申し訳ございません。何かご意見頂けたらと思います。
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- pct10968
- ベストアンサー率21% (641/2971)
じじいです。 時々あなたのような方にアドバイスするのは、 今の気持ちは、単なる一過性のものです。 と、アドバイスします。 実際わたしも、若い頃は死にたい思いに囚われました。 そして10年、20年過ぎてしまえば、生きていて良かったとそう思えるものです。 独りで生活して、豊かではありませんが、小さな畑に野菜を植え ささやかな日々に幸せを感じて生きています。 あなたも、大丈夫ですよ。
- kotaro-h
- ベストアンサー率40% (149/367)
そおっと、通りかかりから回答いたしますね。 >遺された者が苦しめばいいという周囲への恨みの念 これって、こういう気持ちを一度でも抱いてしまうと 大きくなるか、小さくなるかだけです。 私は今、小さくしようと懸命に取り組んでいます。 こういう気持ちになる理由はそれぞれでしょうが 分からなくもありませんが、次の人がまたそう言う気持ちになって 何か良いことがあるのかな。 そこで食い止められたら、きっとほかに良いことも見つかるかも しれません。 そちらの方が肯定的なエネルギーだし、マイナスのエネルギーを ためたり、出し続けて、抜けてしまえば良いけど、どうなるものでもなし。 良い季節になってきたのですから、寒い時期のウツ状態から出た方が 大袈裟なことでなく、楽になれるような気がしませんか。 そりゃ1日や2日では忘れられなくても、75日くらいすると、 かなり忘れられると思います。 まず身の回りの環境をがらりと変えられるなら、 そこにお金や移動をかけてもいいのではありませんか。 人間関係のしがらみも断ち切ってみてはできませんか? 少しずつでいいです。 失礼します。
お礼
そおっと回答いただき、ありがとうございます。そのご配慮が嬉しいです。周囲への恨みの念が小さくなれば、死への思いも小さく出来そうです。そうなるよう頑張ります。
- tohimihu
- ベストアンサー率4% (1/23)
自殺する事が悪い事であるということはありません。人生辛い事ばかりなら死ぬ自由くらい残されていてもいいのかなって思います。誰かが悲しむとか迷惑がかかるとか・・・ なんてこともあると思いますが所詮人間は忘れる生き物なので時が経てば忘れてくれることでしょう。持論としては運命は最初から決まっていて変更は不可なのではないかと考えてます。(善人である人・一生懸命努力してた人・信仰に厚かった人・悪人 普通に地震にあえば死にましたし、テロのときに貿易センタービルにいればお陀仏です)まあ生き物のゴールは死ぬことなので苦しみが減って早くゴールに着いたと思えばいいんじゃないでしょうか?まあ自殺だろうがなんだろうが運命の時が来れば死ぬときゃ死にます。
お礼
死ぬときゃ死にます…それくらい楽観的に考えられれば、思い詰めずに済みますね。参考になります。 ご回答ありがとうございました。
- kyoromatu
- ベストアンサー率14% (746/5024)
舟のことは船頭さんに・病気のことは医者に・ 生きる死ぬ お迎えは神仏に任せることですよ 人はとにかく信念で行動するものです・・よね 今のあなたの思いがこの先 段々スパイラルダウンしていくようであれば 心配です。 あまり酷くならないうちに心療内科なり精神科で 診療してもらいましょう
お礼
人はいずれはお迎えがくるのだから、その判断は神仏に任せます。 ご回答ありがとうございました。
- kanakyu-
- ベストアンサー率30% (1916/6194)
いろいろ辛いことありますよね・・・ わたしも病苦でなかなか働けないことに絶望してしまうことがあります。 将来に希望を持ちたい、なんとか活路を開きたい・・そういう前向きな気持ちもくじいてしまう程、現実は残酷なことがあります。 でも、何よりも・・・ そばに居て、話を聞いてくれる人がほしいですよね? わたしもそうです。 私の場合は、地域にたまたま無料のカウンセリングが見つかり、 そこに通うこと、予約が入っていることが、心の支えにもなっています。 カウンセリングが必要な人は、経済的にも心配のある人が多いと思うんですけど、 たいていのカウンセリングは、高い・・・ですよね。 安いところでも1時間2000円、相場は5000円とか。 こういう無料のカウンセリングが、もっと行き届いてほしい・・と思います。 いろいろ辛いことがあっても・・・誰かに聞いてもらえると、楽になる、そういうことってありませんか? 私は、自殺は悪だとは思いません。 自殺は神がゆるさない、と考える宗教もありますが、 神がゆるさないことならば、そもそも不可能だと思うんです。 ただ、できるなら死ぬ時は安らかな気持ちでいたいと思います。
お礼
私にとっては、ここで皆さんに悩みを聞いてもらう事が無料のカウンセリングになっています。 kanakyu-さん、ご回答ありがとうございました。
- まさしろ(@masasiro)
- ベストアンサー率35% (295/842)
ご質問者様こんばんは。 死んでしまいたいと思うことはいくらでもあることです。暗い話しなどでは無くて、むしろ夜空に輝く星々のように、ご質問者様の生命と、人生は暗闇でこそ光輝くのだと思います。 なぜ?人間は生きるのか? どうしてこんなにも辛いのに生きなければならないのか? 自分の命を投げ打ってでも、家族に見返してやりたい。 生きる意味を見失ったとき、人は心の病に陥ります。 「生きる意味」 人間は意味への欲求を根本に持ちます。なぜなら、自分が死ぬ事を不幸にも理解出来てしまうからです。全ての結果が死ぬだけなら、何をしても無駄というニヒリズムから自分を救う為には、自分の内側へ向けられた関心を捨てて、生きる意味への「発見」へ関心を向けるしかありません。人生とは、訪れる機会の瞬間と、その時に持っている自分自身の端正さとの衝突なのです。 「人生」から何を我々はまだ「期待」出来るかが問題ではなくて、むしろ「人生」が、何を我々から期待しているのかが問題なのです。 私がどんなに人生に絶望しようとも、「人生」が私に絶望することは決してありません。何かや誰かのために何か出来ることがご質問者様にはきっとあるのです。 人間は人生から「問われている」存在なのです。決して自分自身が自分の「人生」に対して問うてはならないのです。 誰かがご質問者様を待っています。 何かがご質問者様を待っています。 どんな人のどんな人生にも必ず意味はあるのです。言葉を変えると、どんな人にも目には見えない「使命」が与えられています。それを全うすることで人生からの「問い」に答え続けることが出来るのです。 私はこういう条件の仕事や結婚がしたい!この条件は絶対に譲らないんだ!このような「欲望」を中心とした生き方では欲望は満たされません。欲望は欲望を次々に生み出す源であるから、欲望で欲望を満たすことは出来ないのです。 そこで、「意味」と「使命」中心の生き方へ考え方を転換する必要があります。 意味と使命に「目的」を与えるのです。 他者と持つべきは共通の目的であって、その目的こそ意味と使命を現実化させる一つの答えになりうるものです。 そうして実現させたことからの影響から人間は、心の奥深いところで「私は本当に幸せである」と思うことが出来るようになるのです。 明日もし死ぬようなことになっても、人生を意味あるものに変えるのに遅過ぎることはないのです。なぜなら、生きる「意味」を見つける時間は最後の瞬間まで与えられているからです。だから決して諦める必要はありません。 最後の瞬間までその時は待っていてくれています。私の「生命」と、私の「人生」が、意味を求める私の「魂」を必ず救い出すために。 ご質問者様には誰かの役に立ったり、誰かの助けになれる瞬間が必ず訪れます。その時に、しみじみとこう思って下さい。「私は、私の人生から受け取ったこの瞬間とめぐり合うために、私に生命が与えられていたのだ!」と。しかし、私の「人生の意味」が、その瞬間で終わりを迎えるものであるのかどうかは、「私」には決めることが出来ませんね。もっともっと自分の人生の意味を深めてくれるような出来事が、今後の「私に」待っているのかもしれないのですから。 最後の最後まで希望と絶望を頼りに、ご自身の生命と人生の行方を見届けて下さいね(^-^) ご参考になれたら幸いです。
お礼
熱いご回答ありがとうございました。 生きる意味を考えているうちは、その使命や目的を人生に見つけ出せていないのかも知れませんね。最近よく思うのは、自分は生かされている命だということです。仏の教えです。
今晩は。宜しくお願い申し上げます。 私は自殺未遂歴が4回有ります。 いい加減な気持ちから死のうとしたのではなく、1度目は親友の裏切り、それ以降は勤め先での壮絶な虐めが原因でした。 特に勤め先での虐めでは先輩が仕事でミスをしたのにわざと私の判子を奪って捺印し、私が処理した書類として上司に報告したり、トイレを使わせて貰えなかったので近くの公園の公衆トイレを借りたり、当然昼休みも休憩室に「●●(私の名前)は生ゴミだから出入り禁止。生ゴミはゴミ置き場に行け」という貼り紙がされていて入れず、天気のいい日は公園で過ごし、雨が降ったら傘を持って公園に行き、時間を潰しました。 廊下を歩いていると油を撒かれて転ぶ事は日常茶飯事、上司が居ない所では殴る蹴るの暴行を受け、血を流さない日は有りませんでした。毎朝ロッカーを開けるとネズミの死骸が大量に入っており、とうとう私は精神を病み、死のうと決意したのです。 今は全て発禁書として売られて居ませんが、薬物自殺専門書を買い、これももう現在は自殺に使われるという事で製造禁止になって居るとある薬をドラッグストアを何十軒もはしごして4000錠手に入れ、水やお茶で飲むのは苦しかったので、ヨーグルトに錠剤を混ぜ、食べるという方法で1日掛かって4000錠を口にしました。 致死量は2000錠でしたが失敗したく無かったので倍の量を口にしたのです。 私は昏睡状態に陥りました。 ですが、3日経って突然目が覚めてしまいます。 起きた私を待って居たのは薬を大量に服用した事による恐るべき副作用でした。 身の毛もよだつ様な幻覚が見え、余りの怖さに救急車を呼びました。 正直に薬を飲んで死のうとしたけれど目覚めてしまったと言いますと、即座に隔離病棟に入れられました。 とても恐ろしい所です。 隔離病棟は自殺を図った者を二度と自殺をしないと更正させる為の施設ですので私は即座に独房に入れられ、拘束具を付けられ、薬を打たれて眠らされました。 起きた後も拘束具は取って貰えず、管理官に「黙ってこれを読みなさい」と掲げられた文書を読むように言われ、目で追って読みました。 そこにはここでは決して声を出してはいけない(鼻歌すら禁止と書いて有りました)もし助けてなど言おうものなら直ぐさま管理官がやってきて貴方を拘束し、別室で罰を与えると書いて有ります。 分かりましたという意味で頷くと拘束具を外して貰えました。 ニュースは事件を報道するので隔離病棟に居る収容患者が興奮してはいけないという理由でテレビは無く、新聞も勿論有りません。 携帯電話など論外です。 ただ、ファッション雑誌や主婦向けの雑誌・料理本は許されて居ましたので、母にそれを差し入れて貰い、黙ってベッドに腰掛けて過ごしました。 監視カメラが付いているので用を足している時も見られています。 私が隔離病棟から出られたのは1ヶ月後でしたが、更正すると管理官達は嘘のようにいたぶっていたのが優しくなります。 でもいたぶられた事は決して忘れていないので「退院おめでとう」と言われても無視して母と共に帰りました。 ご質問者様が自殺=悪とお考えになるのはご尤もです。 折角の命を無駄にするなんて、その前に何か手は打てなかったのか、とお考えになられると思います。 ですが死の淵まで追い詰められると生きる事など考えられなくなってしまうのです。 ただ、万が一死を選ぶなら列車への飛び込みとマンションからの飛び降りはしてはなりません。 いずれも遺族に一生掛かっても支払いない損害賠償が請求されます。 生きて居るのが嫌になる事は誰しも有る事です。 もし誰かお話を聞いて頂けそうなお友達がいらっしゃれば、お話しされてみるのも一つの方法です。
- DDDHHH
- ベストアンサー率0% (0/4)
大丈夫。 君は、まだ死なない。 というより死ねない。 なぜか? 本気で自殺を考えてる人間は、話すことも聞くこともしない。 死にたいなら死ねばいい。 死ねよ。 家族も友人も関係ない。生きたくても生きれない人がいるとかも関係ない。 あなた自身の問題です。 人生、うまくいかないものです。 なにしても上手くいかない時は必ずあります。 もがいてもがいて 黙って耐える。 僕は思ったことをノートに書く習慣があります。 僕も悩んで死のうと考えたことがあります。 やはり死ねないものです。 その時に以前書いたノートを見返していると、こんな事が書いてました。 苦しいのか?じゃ、笑えよ 思いきって笑いました。一人で暗い部屋の中で 楽になりました。 よく寝ました。 辛いときは、無理して笑うんです。 辛いときは、無理して寝るんです。 辛いときに、死んではいけません。 辛いときこそ、生きてみては? あなたは今、谷底にいます。 これ以上落ちる心配はありません。 あとは、上がるだけです。 最初は笑うだけでいい。 死ねないのは、家族や友人のためではない。 あなた自身が生きたいと望んでるからです。 そんなこと自分が一番わかってるんじゃないでしょうか? 今は黙って笑いましょう。 過激な表現がありますが、ご理解ください。
お礼
死ねないのはあなた自身が生きたいと望んでるから…身に染みるお言葉です。 DDDHHHさん、ご回答ありがとうございました。
- blazin
- ベストアンサー率50% (20270/40183)
貴方の今の素直な気持ちなんじゃないの? 貴方は今まで、 日々生きる事に勇気を必要としてきたのか? 悩んでいない時の貴方は、 今日の自分は本当に生きていていいのか? そんな事考えなかったんだと思う。 当たり前のように「今日」が来て、 当たり前のように「明日」を迎えていたんだと思う。 でも、 悩む事が増えると、 当たり前にしてきた事にさえ「立ち止まる」ようになるんだよね? 生きている「意味」とか、生きる「勇気」とか。 自分に対する苦しい自問自答が生まれるんだよ。 生きている事自体が意味なのに、 生きている事自体が勇気の湧く状態なのに。 自分に対する内向きの目線が厳しくなってしまうんだよ。 今の貴方は少し辛いんだと思う。 「本当に」嫌になってきたという貴方の言葉には、 「本当に」に至る積み重ねがあるんだよ。 その場その場では貴方なりに整理咀嚼してきた。 でも、 積み重なるような現実を受け止めていくうちに、 その場その場で対応していく事自体に、 段々疲労感を感じてしまう事もある。 生きていると本当に色々な事がある。 ただ、 貴方が今使う「色々」って、 あまり嬉しくない方向に見られるバリエーションなんじゃないの? それも、 バリエーションはあっても。 そこに共通しているのは、 「辛い」とか、「苦しい」とか、「上手くいかない」とかね? 色々という、 本当は風通しのある言葉を使っていても。 実は「色々」辛い、「色々」苦しい、「色々」上手くいかない。 ただ自分をしんどくさせる「色々」だったりね? 今の貴方には、 ご友人が過去に追い込まれたで「あろう」、 その感覚の外輪が少し分かるんだと思う。 あぁこの焦燥感や息苦しさが、 超えてはいけない部分を超えてしまうほど追い込んでしまったのかな・・・ 外側から見た動きと、 当人に近い感覚で見つめてみた時の見え方の違いだよね? 貴方はこうして書き込める力がある人なんだよ。 ある人だからこそ、 自分の書き込み、思いに対しても客観的に向き合ってみる。 じゃあ貴方の「ような」人を見つけたら、見かけたら。 貴方は何て言って声を掛ける? たまに生きているのが嫌になるような感覚があって。 何とか自分なりには頑張っていても、 たまにはそういう自分さえ持て余すような時がある。 そういう「誰か」を見つけた時に、 貴方は何て言って声を掛ける? その人は、 どういう部分での理解を求めていると思う? どういう部分に触れて欲しくて、光を当てて欲しくて、 その人なりにもがいているのか? その人が一番感じて欲しいと思っている事は何なのか? 自分自身であっても、 主観から少し離れて向き合ってみる事で、 貴方自身も気が付けなかった部分が見えてくる事もあるんだよね? 自分が辛い。 辛いという感覚って「それぞれ」なんだよ。 貴方の辛さは貴方の辛さなんだよ。 比較級では語れない。 でも、 時として貴方の辛さを軽く扱われたり、 この程度的に切り取られたり、 思ったように理解してもらえなかったり。 そういう時には、 貴方「個人」がきちんと受け止めて貰えなかったような、 そういう寂しさであり、喪失感があるんだよ。 貴方の辛さは貴方の辛さ。 別に同情して欲しい訳じゃない。 自分を優先して受け止めて欲しい訳じゃない。 でも、 貴方の悩みには個性がある。 貴方の辛さにも同じように個性がある。 その「個性」に対して向き合って「くれない」事が、 貴方自身の気持ちの支え方を難しくしてしまう事もあるんだと思う。 自分で自分を認めてあげる事も大事だけれど、 人からも認められて、支えられ、理解され。 他者との関係も大事な「軸」なんだよね? 今の貴方には、 その軸が少し足りないのかもしれない。 でも、 もし貴方の「ような」誰かがいると思ったら。 貴方は貴方なりに支えてあげたいと思うんじゃないの? 僕なら分かるよ。私なら分かるよ。 分かってくれない人もいるけれど、 分かってくれる人だっているよ。大丈夫だよ。 しんどいのは貴方一人じゃないよ、と。 貴方はそう伝えてあげたいんじゃないの? だったら、 それはそのまま貴方自身に掛けてあげる言葉なんだと思う。 こうして書き込んだ事をきっかけにしてね? ゆっくりと深呼吸してみる。 春の息吹を丁寧に感じてみる。 これからの貴方を大切にね☆
私の兄は、今いる部屋の隣でクビを吊って自殺しました。今から6年前の話です。肝臓ガンだったのですが、家族に迷惑をかけるのなら死を選ぶと遺書が残されていました。その死体を発見した時、私が最初に思ったのは、安らかな顔でした。病気が苦しく、また家族が兄の為に尽力しているのが、兄としては心苦しかったのでしょう。 貴方は理屈をこねていますが、生死というのは、理屈ではないのですよ。私たちは、単に、快楽を得られるものをより繰り返し、不快なものから逃れたいだけです。不快なものから逃れる術として自殺を選ぶのは、実際には、生きるメカニズムなのです。自殺という行為は、実際には死ぬのではなく、生きる行為なのですよ。ただ先が無いだけです。 理屈をこねているうちは生きていけるから大丈夫です。自殺する人は、通常、衝動的に自殺します。不快を避けて生きるために死を選ぶという選択は、衝動的であればあるほど、実際には、『生きる』という意味の中で行なわれているものなのです。ウダウダ考えているうちは死ねないので(笑)問題ありません。 貴方の状態は、ただ単に、他人に対する依存心が強いだけです。本当にそれだけです。それは悪いことではありません。だから自分を責める必要はありません。ただ『依存心が強い』から、そうした心理状態になるってだけです。依存心が小さい人は、そんな風には思わないですから。弱いとか強いとか、そんなのはどうでも良いのですよ。
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お礼
大丈夫と言っていただき嬉しいです。今もこうして生きている訳ですから、その言葉を信じて頑張っていきます。 ご回答ありがとうございました。