英文の解釈をする時、
我々日本人は、訳した時に違和感のない「自然な意味(=イメージ)のつながり」を感じるように意味を選択(=解釈)するものだと思うのですが(少なくとも私はそうですが・・・。)、
このようなスタンスで英文を解釈していた時に、ふと、ある疑問が湧いて悩んでしまいました。
その疑問とは、「母語である日本語における『意味の自然なつながり方』の感覚を基準にして、外国語である英語の意味を選択(=解釈)しても良いのか?」という疑問です。
例えば、以下のような英文の場合
The Nepalese government Monday banned all bottled drinks from the Everest region to minimize littering on the slopes of the world's highest peak.
「to minimize…」以下の箇所は「to不定詞の副詞的用法の『目的』の意味」とされ、述語動詞の「banned」にかかると解釈されるのが「正当な」意味の取り方だと思うのですが、このときの意味の解釈の基準になっているのは、文構造や文法はもちろんですが、それだけではなく文を前から読んでいったときに頭の中で再現される「意味のイメージの自然なつながり方」、すなわち、「どう意味を取ればイメージが自然に無理なく連続するか」という意識や感覚も働いていると思います。
このような「意味(=イメージ)の自然なつながり方」を基準にした英文解釈を行っている時に、ふと気付いたのが、
「日本語(日本人)の『意味(=イメージ)の自然なつながり方』の感覚と、英語(圏の人)の『意味(=イメージ)の自然なつながり方』は全く同じものなのだろうか?
中学校以来「両者の『自然なつながり方』に差異は無い」という殆ど暗黙の前提のうちに英文解釈を行ってきて実際にそんなに問題にぶつかったことは無かったが、よくよく考えると両者が無条件に一致している理由も証拠もない。それにも関らず「解釈する」と称して、英文を日本語の意味(イメージ)に変換したのちに、そのイメージ間の『自然なつながり方』に沿って勝手に整合してしまってもいいのだろうか?
もし英語(圏の人)の『意味(=イメージ)の自然なつながり方』が我々の持つそれとは異なるところ大ならば、なぜ我々日本人の持つ『意味(=イメージ)の自然なつながり方』の感覚を基準にして彼の国の言葉の意味(イメージ)をいじくって、自分たち好みの整合性のあるイメージの連続映像に仕立て上げても問題が起こらないのだろう?・・・」
などのような疑問で、こんなことをグルグル考えているうちに頭が痛くなりました(笑)。
以上のような疑問なのですが、お答え戴ければ幸いです。
まとまりの無い長文で恐縮ですが、宜しくお願い致します。
追記
例文の英文の意味解釈に関しては、文法上の理由や「自然な意味(=イメージ)のつながり方」から言っても納得しています。ただ、この英文自体は単純ですが、この英文を解釈している最中に「もっと複雑で難しい英文を解釈するときはどうなのだろう?」と一般化した疑問の形で上述の疑問群が現れてきました。
英文解釈そのものは練習で上達してきましたが、ふと湧いた疑問に苦しめられています。
He has a book so difficult that I couldn't read it.
これは so that 構文が使われていますが,
お約束通り,「とても~なので」とやっていくと訳せないことがおわかりでしょうか。
私だったら読めないほど難しい本を彼は持っている。
これは so 以下の so 形 that ~が前の名詞 book を修飾する形をとっています。
こういう英語を書いたら,英語は前から流れていくんだから,
そんな英語はない,なんて反論した人がいました。
so ~ that で that の方が主節的に感じる。前から訳していくと。
そう,英語ではこれで前から流れて行っているんです。
彼は持っている,本を,どんな本かって,難しいので私は,読めないだろう,それを
ただ,日本語の理屈では後ろから「私なら読むことができないほど難しい本」を持っている。
とにかく,日本語と英語で SOV, SVO という永遠に解決不能な,逆の語順というものがある以上,
日本語の理屈で考えると,英語の流れはおかしくなります。
英語を読むのに,日本語の理屈は必要ありません。
もちろん,訳そうと思うと日本語の理屈が必要になる。
外来語とか,日本語の影響があることはあっても,決して日本語のことを考えて英語は存在しません。
不定詞の副詞的用法を後ろから「~するために」とやるのはあくまでも日本人が
日本語の理屈で当てはめているだけです。
結果の不定詞との区別は,後ろから訳すと時の流れと逆行しないように
というだけのことで,英語としては同じです。
I want to the library to study English.
これを
「私は図書館へ行って,英語を勉強した」
とやると,多くの日本人は「えっ」と思うでしょう。
「ために」であって,したとは限らない。
でも,特に過去形で書けば,したんです。別の文脈でもない限り。
so that にしてもそうですが,「目的か結果か」というのは日本語の流れと
合わせるかどうかの違いにすぎません。
バベルの塔じゃないですが,人間の言語というのは相当高度なので,いろいろな地域で
独自に発達し,高度であるがゆえに,まったく違う道を歩むことがあり得ます。
だから,別の語で置き換えるということなく存在しているのです,言語というのは。
そういうふうに思わないといけません。
小学生や中学生は国語の時間で修飾・被修飾関係というのをやります。
おそらく,明日は雨が降るだろう。
「おそらく」は何を修飾するか。
国語の問題としての答えは最後の「降るだろう」ですが,
なんとなく「明日」とか,「雨」にかかっていると感じてしまう。
それでいいんです。
前に「おそらく」があって,前から流れていく。
この前から流れていく,があらゆる言語で当然のことです。
英語の to はすべて「~へ向かっていく」です。
A → B という流れのままです。
これを日本語の理屈であてはめると後ろから,ということが出てきます。
だから,どこにかかるか,というのも気にせず,前から読むままに
意味を感じ取ることです。
多義語などで悩むこともあると思いますが,
英語としてはこの単語でこういう意味になるんだ
と割り切るのも同じことです。
質問者
お礼
丁寧なご回答ありがとうございました!
疑問のために満ちていた頭の中のモヤモヤが晴れて日の光と青空が広がりました!(笑)。
上述の疑問群のうち、私が特に悩んでいたのは
「日本語(日本人)の『意味(=イメージ)の自然なつながり方』の感覚と、英語(圏の人)の『意味(=イメージ)の自然なつながり方』は全く同じものなのだろうか?」という点でしたが、
貴殿からの回答にございました
「不定詞の副詞的用法を後ろから「~するために」とやるのはあくまでも日本人が
日本語の理屈で当てはめているだけです。
結果の不定詞との区別は,後ろから訳すと時の流れと逆行しないように
というだけのことで,英語としては同じです。
I went to the library to study English.
これを
「私は図書館へ行って,英語を勉強した」
とやると,多くの日本人は「えっ」と思うでしょう。
「ために」であって,したとは限らない。
でも,特に過去形で書けば,したんです。別の文脈でもない限り。
so that にしてもそうですが,「目的か結果か」というのは日本語の流れと
合わせるかどうかの違いにすぎません。」
の箇所を読んだ時、一気に悩みが晴れました!
つまり、日本語(日本人)の『意味(=イメージ)の自然なつながり方』の感覚と、英語(圏の人)の『意味(=イメージ)の自然なつながり方』の感覚には違いがあり、
英文を解釈する際に、意味(=イメージ)にズレが生じる可能性があるものの、(文法や構文、文脈などから選択しうる意味を限定していき、それでもなお)生じてしまう意味の候補によるズレは、
英語(圏の人)の『意味(=イメージ)の自然なつながり方』の感覚にとっても「許容範囲」であるし、
その範囲内で日本語(日本人)の『意味(=イメージ)の自然なつながり方』の感覚で意味を選択する分には問題が無い。ということなんですよね?
具体例に即して考えると、
日本語(日本人)の『意味(=イメージ)の自然なつながり方』の感覚を基準にして、意味を考える際
・「私は図書館へ行って、英語を勉強した。」と
・「私は英語を勉強するために、図書館へ行った。」と
では意味の持つイメージや重点が変わってきますが、
英語(圏の人)の『意味(=イメージ)の自然なつながり方』の感覚を基準にした場合は、上記二つの意味を区別しない。
いや、正確にいえば英文の
I went to the library to study English.
がもつ意味内容として、上記二つの意味を区別しない。
つまり、この英文が喚起する意味イメージにとっては
・「私は図書館へ行って、英語を勉強した。」
・「私は英語を勉強するために、図書館へ行った。」
のどちらのイメージでも構わないし問題にしない
ということなんですよね?
日本語と英語両方の文が喚起する意味(=イメージ)の、この一対一対応しなさこそが悩みの原因であり、苦しめられたモヤモヤでした。
文の筆者が本当に伝えたい意味(=イメージ)が存在していても、それを何らかの言語で表現した途端にそれを母語としない人たちからは正確に完全には共有されえないのだということを改めて考えさせられました。
本当にありがとうございました!
お礼
丁寧なご回答ありがとうございました! 疑問のために満ちていた頭の中のモヤモヤが晴れて日の光と青空が広がりました!(笑)。 上述の疑問群のうち、私が特に悩んでいたのは 「日本語(日本人)の『意味(=イメージ)の自然なつながり方』の感覚と、英語(圏の人)の『意味(=イメージ)の自然なつながり方』は全く同じものなのだろうか?」という点でしたが、 貴殿からの回答にございました 「不定詞の副詞的用法を後ろから「~するために」とやるのはあくまでも日本人が 日本語の理屈で当てはめているだけです。 結果の不定詞との区別は,後ろから訳すと時の流れと逆行しないように というだけのことで,英語としては同じです。 I went to the library to study English. これを 「私は図書館へ行って,英語を勉強した」 とやると,多くの日本人は「えっ」と思うでしょう。 「ために」であって,したとは限らない。 でも,特に過去形で書けば,したんです。別の文脈でもない限り。 so that にしてもそうですが,「目的か結果か」というのは日本語の流れと 合わせるかどうかの違いにすぎません。」 の箇所を読んだ時、一気に悩みが晴れました! つまり、日本語(日本人)の『意味(=イメージ)の自然なつながり方』の感覚と、英語(圏の人)の『意味(=イメージ)の自然なつながり方』の感覚には違いがあり、 英文を解釈する際に、意味(=イメージ)にズレが生じる可能性があるものの、(文法や構文、文脈などから選択しうる意味を限定していき、それでもなお)生じてしまう意味の候補によるズレは、 英語(圏の人)の『意味(=イメージ)の自然なつながり方』の感覚にとっても「許容範囲」であるし、 その範囲内で日本語(日本人)の『意味(=イメージ)の自然なつながり方』の感覚で意味を選択する分には問題が無い。ということなんですよね? 具体例に即して考えると、 日本語(日本人)の『意味(=イメージ)の自然なつながり方』の感覚を基準にして、意味を考える際 ・「私は図書館へ行って、英語を勉強した。」と ・「私は英語を勉強するために、図書館へ行った。」と では意味の持つイメージや重点が変わってきますが、 英語(圏の人)の『意味(=イメージ)の自然なつながり方』の感覚を基準にした場合は、上記二つの意味を区別しない。 いや、正確にいえば英文の I went to the library to study English. がもつ意味内容として、上記二つの意味を区別しない。 つまり、この英文が喚起する意味イメージにとっては ・「私は図書館へ行って、英語を勉強した。」 ・「私は英語を勉強するために、図書館へ行った。」 のどちらのイメージでも構わないし問題にしない ということなんですよね? 日本語と英語両方の文が喚起する意味(=イメージ)の、この一対一対応しなさこそが悩みの原因であり、苦しめられたモヤモヤでした。 文の筆者が本当に伝えたい意味(=イメージ)が存在していても、それを何らかの言語で表現した途端にそれを母語としない人たちからは正確に完全には共有されえないのだということを改めて考えさせられました。 本当にありがとうございました!