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日蓮の佐渡配流の神奈川県における道順
- 日蓮の佐渡配流の道順を知りたいです。特に相模川の渡り方について気になっています。
- 道順の中で気になるのは海老名の河原口(渡し守・岩崎外記の説)のところです。
- また、座間市の円教寺で日蓮が休憩したという説もあります。渡河の方法も知りたいです。
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こんばんわ。 私は、自称「歴史作家」です。 佐渡の出身で、残念ながら日蓮宗ではありませんが、日蓮の研究?も少し手がけました。 手元にある集めた史料から抜粋してお話をさせていただきます。 ★文永8年(1271)9月12日、龍ノ口法難の後、酉刻(午後6時)、武蔵守北条宣時に預けられることが言い渡された。 「此の十二日、酉の時御勘気、武蔵守殿あづかりにて十三日丑の時(午前2時)にかまくらをいでて佐土の国へながされ候が、たうはほんまえちと申すところに、えちの六郎左衛門殿の代官右馬太郎と申す者あづかりて候が、いま四五日はあるべげに候 九月十四日」 (文永8年依智より土木殿御返事) この手紙を見る限り、日蓮はどこへも寄り道はしていないと思われる。寄り道する時間的余裕はなかったと考えられる。 従って、円教寺(刀工鈴木弥太郎貞勝の屋敷)には立ち寄っていない、と推測されます。 円教寺の縁起を見ると「日蓮が休息をされた」と確かにあります。しかし、推測するに、おそらく右馬太郎の家に預けられてから刀工鈴木弥太郎貞勝が会いに行ったのではないかと考えます。そして、自分のつくった刀が折れたことに畏怖の念により帰依したのではないでしょうか。 http://www.tesshow.jp/kanagawa/yamatozama/temple_iriya_enkyo.html ★「其の日の戌の時(午後8時)ばかりに、かまくらより上の御使とてたてぶみをもちて来ぬ、頸切れというかさねたる御使かと、もののふどもはをもひてありし程に、六郎左衛門が代官右馬の尉と申す者、立ぶみもちてはしり来り、ひざまづいて申す、今夜にて候べし、あらあさましやと存じて候いつるに、かかる御悦びの御ふみ来りて候、武蔵守殿は今日卯の時(午前6時)にあたみの御湯へ御出・・・・・」 (種種御振舞御書) 解釈はおできになるかとは思いますが、 この手紙では、 「鎌倉より使いが来て、再度、頸を刎ねよと言っているのかと思ったが、そうではなかった」 とあり、佐渡配流が言い渡されたのがこの日(9月13日)の夜だったと思われる。 さて、ご質問のどこから川を渡ったか・・・ですが、次のサイトで見る限り、 「妙純寺」(本間六郎左衛門尉重連の屋敷)は、相模川を渡った場所にあり、中津川を渡る必要はないように思われます。 (実際に訊ねたことはありませんが・・・) http://www.d1.dion.ne.jp/~tokuzo/sagami.pdf 従って、海老名の河原口が有力と考えられます。(岩崎外記が無賃で乗せてくれた・・・という有名な話) (よもやま話) ★この年、本間六郎左衛門は、佐渡守護代であったため、年貢の徴収のため佐渡に渡っていました。そこで、代官の右馬太郎の家で面倒を見ることになったようです。 ★「今月七日さどの国へまかりなり・・・十月三日」(五人土籠御書) ★「日蓮は明日佐渡の国へまかるなり、今夜のさむきに付けても、ろうのうちのありさま思いやられていたはしくこそ候へ、(中略)籠をば出でさせ給い候はば、とくときたり給へ、見たてまつり、見えたてまつらん 文永八年辛米十月九日 筑後殿」 (日蓮消息文) 筑後殿とは、鎌倉の土籠に閉じ込められていた「日朗」に宛てた別れの手紙です。 そして、日蓮は十月十日に佐渡に向けて出立をしている。 これから推測すると、「今月七日・・・・」という文は、「どうも今月の七日頃佐渡へ行くようだ・・・と周りの人々が言っている」という推測を書いた物と考えます。 なお、日朗は、文久11年(1274)に出された「赦免状」を持って、荒海の中を越えて3月8日に日蓮に手渡しています。 日蓮は3月13日に松ケ崎から佐渡を発っています。 ★日蓮が右馬太郎の家に入ったのが九月十三日、出立が十月十日・・・26日ありますが、 九月十三日または十四日に右馬太郎が佐渡の本間六郎左衛門へ、多分に、 「私の家で預かっていますが、佐渡へ送るよう沙汰がありました。佐渡での受け入れをよろしく・・・」などという手紙を遣わしていると考えられますが、使者が26日間で佐渡まで往復したとすれば片道13日で佐渡へ行く必要があります。 ★しかし、旧暦の九月~十月は新暦の10月~11月。 日本海はすでに荒波の季節であり、ほとんど舟の就航はない時期です。使者の九月はよほど運が良かったのだと思います。 ★「今月十日相州愛京郡衣智の郷を起って、武蔵の国久目河の宿に付き、十二日を経て、越後の国寺泊の津に付きぬ、此れより大海を亘って佐渡の国に至らんと浴するに、順風定まらず其の期を知らず」(寺泊御書) この手紙は日蓮が鎌倉いた頃の檀越で、自らも寺泊まで供をし、さらに、何人もの供人をつけてくれた「富木常忍」に手渡したもので、年老いた入道を心配し、鎌倉に残った信者への手紙を託して鎌倉へ帰しています。(十月二十二日付になっています)。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%9C%A8%E5%B8%B8%E5%BF%8D ★10月22日に寺泊に着いた日蓮一行。 すでに、廻船は陸に引き揚げられており、よほどの事がなければ越後と佐渡を結ぶ船はなかった。 しかし、罪人ではあるが僧でもあったためか、浪間を見て、6日間の船待ちをし、彼ら一行が佐渡に着いたのは10月18日で、数隻の船に分乗して渡ったとあります。 佐渡での日蓮については、またの機会があればお話しいたしましょう。
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- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 bungetsuです。 >>「10時間かかっているわけか・・・、そうするとボクのコース取りで32キロくらいだから、聖人は平均すれば1時間に3キロペースだったのか・・・、で、どういった道順だったのかな?」 そうですか。約32km もあるのですか。 確かに、日蓮は昼頃依智に着いたと言われています。 おっしゃるように、時速3km位の速さということになりますね。 しかし、現代のように舗装された道ではなく、左右には草が茂り、石あり木の根ありの道だったでしょうし、当然、休憩などもとったでしょうから、それらを考慮すると時速4km位でなければと思います。驚異的な速さですね。 その驚異的速さに「富木常忍入道」がお供をしたのですから、富木入道も足腰がしっかりしていたのでしょうね。 ひたすら無心になって歩き続けたのでしょうね。 そこから考えると、やはり、円教寺に寄り道している暇はないと思いますね。 まあ、現代の我々は自転車やバイク、自家用車などに汚染されていて、私などは例え休憩や宿泊をしたとしても、とても鎌倉から越後までは歩けません。 昔の人は歩くのが当たり前だったからでしょうね。
補足
聖武天皇の詔による国分寺が海老名にはあったわけで、 ランド・マークとしてそれを目指したというのは 現在の藤沢市の白旗交差点(ここは間違いなく通過した筈) あたりを起点にすれば、 まぁ・・・700年前にワープすることを楽しんでみるなら どんな奴でも考えるよなぁ、 と。 しかも国分寺は海老名の河原口の渡しまでそう遠くはない。 (もっとも、鎌倉時代は海老名の国分寺は廃れ、 寒川神社近くにあったとの説も・・・) さらに神奈川県綾瀬市深谷の大法寺には 【依智行】の日蓮が休憩したとされる御堂が遺されていて、 そこらから海老名の国分寺を目指したんだろうな、 という想像をするのにはピッタリ。 そうなると休息山・円教寺は微妙です(笑)。 但し、海老名の国分寺をランドマークにしたとしても、 そこから円教寺へむかってもおかしくはない。 土地鑑を有する者としても距離的にあり得ないわけじゃないと思う。 そして上依知の妙傳寺には龍の口の刑場で 日蓮の頭上で剣をふりあげたとされる本間直重 (重連の弟や実は重連の代官・右馬太郎とか・・・諸説あり) が(刑の執行中止のあと)妙傳寺まで日蓮を 連れて行ったとの説があり、 休息山・円教寺に伝わる (日蓮の頸を刎ねようとしたときに用いられた 剣・邪胴丸の鍛冶師の屋敷あと) との関連が興味深い。 (鍛冶師であったことは否定し、 龍の口の刑場での警護の役人だったとする説もある) 休息山・円教寺から相模川の対岸・右手域に上依知の妙傳寺。 そして相模川対岸正面域には中依知の蓮生寺。 左手域には【依智】とイコールとされている妙純寺。 相模川を渡河した場所を求めて空想の広がるところが楽しい。 (はっきりしないことが多い) ちなみに平均時速3キロは妙純寺エリアから龍口寺まで 約32キロの車の走行距離からですが、 依智から佐渡へむけて出立したときの最初の宿までが34キロとか。 そして円教寺まででも32キロくらい、 龍口寺から上依知の妙傳寺までなら、 プラス5キロは必要かな。
- 川原 文月(@bungetsu)
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失礼しました。 最後の方で、 (誤) ★10月22日に寺泊に着いた日蓮一行。 すでに、廻船は陸に引き揚げられており、よほどの事がなければ越後と佐渡を結ぶ船はなかった。 しかし、罪人ではあるが僧でもあったためか、浪間を見て、6日間の船待ちをし、彼ら一行が佐渡に着いたのは10月18日で、数隻の船に分乗して渡ったとあります。 (正) ★10月22日に寺泊に着いた日蓮一行。 すでに、廻船は陸に引き揚げられており、よほどの事がなければ越後と佐渡を結ぶ船はなかった。 しかし、罪人ではあるが僧でもあったためか、浪間を見て、6日間の船待ちをし、彼ら一行が佐渡に着いたのは10月28日で、数隻の船に分乗して渡ったとあります。
補足
わたしも信者ではありません。 “写楽”に残されている推理の可能性を夢想するのと おなじ流れからの疑問であり質問でした。 しかし、今朝(3月21日)の夢に辻説法している日蓮聖人が顕現しました 目が覚めてビックリ・・・。 こんなことは初めて・・・のはず。 これは“奇瑞”なのかも・・・とプラス思考。 そうしたらこんな丁寧な回答をもらたというわけです。
お礼
回答に感謝します。 『依智行』をさらに調べる機会を得ました。
補足
このアンサーに深くお礼申し上げます。 実はほぼ毎週末・龍口寺の前を通り過ぎています。 で、依智の本間六郎左衛門尉重連の邸跡の近傍を 通るコースを利用して龍口寺の前に出ているので、 700年を越す隔たりがあるとはいえ龍口寺の前までの距離が まぁ・・・おおよそは判っているのです。 (その他の土地勘もありますから・・・) 御存知のとおり『依智まで辿り着くのにずいぶん苦労した』 という回想が聖人にはあって、 午前2時頃に龍口寺あたりから出立して 正午くらいに着いたのなら・・・、 「10時間かかっているわけか・・・、 そうするとボクのコース取りで32キロくらいだから、 聖人は平均すれば1時間に3キロペースだったのか・・・、 で、どういった道順だったのかな?」 という発想を楽しんでいたのが 今回の質問の発端というわけです。 もちろん。途中には休憩もあったし、 そのような記述や故事も可能な限り確認はしています。 そして休息山・円教寺にいたっては、 その近傍を日に二回は通っているのです。 繰り返しになりますが土地勘はかなりあるわけです(笑)。 円教寺からだったらどうやって依智の本間六郎左衛門尉重連の邸へ 行ったんだろう、と。 まぁ・・・相模川はどこで渡河したんだ? ということですネ。 ちなみに本間六郎左衛門尉重連の邸は上依知(現代表記)・中依知・下依知の 三ヶ所にあって、 その間の距離は10キロくらい・・・です。 それぞれが日蓮が来たよという故事を今に遺しています。 そして円教寺から中依知の邸跡の蓮正寺だったらわざわざ厚木の 渡しじゃないはず、 というわけです。 ところで、OKウェブに質問を出したので 今朝(3月21日)中依知の蓮正寺に行ってきました。 多少距離はあるとはいえ700年前なら、 もっと過疎状態だったはずだから、 ここから対岸の円教寺の位置は確認できたよな、 と。 わたしの相模川渡河のあとの中津川渡河の疑問に関しては、 機会をあらためてアンサーできればと思っています。 しかし、想像を飛翔させてみると、 【依智行】だけでもけっこう判らないことがあります。