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人間はなぜ生きているのか?
人間はなぜ生きているのでしょうか? 真面目に書いていますが 春らしい質問ではありますねえ。
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No.14です。 質問の意図、分かりました。 存在としての生、個の望みとしての生。 どちらもありだと思います。 その上でもう一つ、「愛を持っているから」 存在意義から、友人や家族の繋がり、誰かとコミュニケーションを取りたい欲求や 社会集団を作り、価値観や人の信用と信頼などなど人の意識や感情・心などすべてにかかわる 本能として愛を持っているから。 愛があるから生きてます。
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- Y Y(@yy8yy8az)
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「人間は何故存在するのか」についての再考です。 やっぱり最終的には哲学的宗教(信仰的宗教ではないと云う事)の世界に踏み込むことになってしまうのではないでしょうか。 あるお坊さんに依れば「宇宙(実際は“如来”と表現されてます)の本体は絶対(相対の世界ではないと云う事)の大心霊体である」との事。 宇宙の存在はこの大心霊体の意力・意志による現象であると。(例えは汚いけど力めばウンチが出るような)。 存在そのものが宇宙の精神の現われだとすれば、地球もそしてそこに現れた生物もみんなその精神の産物と云えます。 宇宙の精神から生み出されたと思えば、神仏と人間との関係を宗教で、親子の関係に例えることも納得できます。 哺乳類に顕著ですが、親から生み出された子は親を頼り、親の保護のもとで成長します。 成長。 地球の生物が成長し、進化して、人間が誕生したのは精神の大河の流れ。 地球上の精神はその流れを推し進め、人間を誕生させざるを得なかったのではないでしょうか。 幼子の路上で遊ぶ姿を心配する親は、呼んで我が子を抱きよせるように、宇宙の精神は自(みず)から生みださざるを得なかった生物に対して、我が懐へ呼び戻そうという力が働いていて、その力が人間を誕生させることになったと思えば、こうした地球上の出来事は宇宙の本体に抱かれようという“精神の大河の流れ”と云いたくなります。 人間は何故存在するのか。 yunikoさんの表現では因果律、と云う事になりますか?
- Y Y(@yy8yy8az)
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頭が悪いので物事を掘り下げて考える、と云う事が出来ず、いつもその表面をかき回しているだけだと思っていますが、それでも物事の核心部分に触れているという自負があるので、こうして恥も外聞も気にせず意見を述べています。 今回は、質問とは離れてしまいますが、「神は人の心の中にいる」という意見についての感想です。 この地球上に出現した“生命”は物質と精神で構成されている、との思いで宇宙に目を向ければ、その宇宙自体も物質と精神で構成されていると、受け止めてみたくなります。 そうすると、人の心は宇宙の精神と同質なのではないか、とも思えてきます。 また、神とは“創造主”という捉え方をされています。 そしてその内容は“良心”、好ましいほうの心の象徴、として扱われています。 そこから思いを進めてみますが、宇宙はビッグバンとかブラックホールとかの現象が観測されているので、そのことを善(発展)、悪(消滅)と置き換えてみました。 宇宙の精神は神と悪魔で構成されていると。(ちょっと飛躍しちゃてますが) そう思うと、宇宙の精神と同質の人の心には“神の心”も有れば“悪魔の心”も有ると云いたくなります。 宇宙の精神から生み出された生物の精神は、人間を通して“生産”と“破滅”の二面のあることを知らしめてくれました。 ☆ 人の心には神も住んでいれば悪魔も住んでいる、と云いたいと思います。
お礼
神と悪魔の問題は大事な問題でしょうね 人の心の中にその両方がある と言うのも言えてるかもしれません。 ただ日本人などはキリスト教じゃないので 悪魔と言っても 人間に害をなす心 と言う感じのものでしょうね もうキッパリ 人間に恵むのが神で 害するものが悪魔と 分けてしまった方がわかりやすいかも知れません 悪魔は堕天使だそうですけどね どうもありがとうございます。
- amaguappa
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> 人間の意識や概念の世界と 現実の世界が > > なかなかハッキリ見極め難いですよね > > 生きる事が何の為に在る訳でもないとも言えるのでしょうね 33です。象徴界/想像界/現実界という見方に似たご感想ですね。 というよりまあ、ゆにこさんが何気なく俯瞰していると指摘したかったのです。 現実として、人間の時間に〈今〉と〈少し先の未来〉を与えているのは、 体験の厚みなのですからね。 記憶と統合の方向付けを累々と、粛々と、柔らかく絞り込むように、しかし素速くおこなっているのですからね。 連続的"生"は、概念の対象ではありますが、実感として確かめようのないものです。 俯瞰しても概念を空疎に弄ぶことにしかならない。 それよりもまず、体験の厚みを心に響かせること。 ゆにこさんがどんな気持ちで毎日を過ごしているのかわかりませんが、 誰しも限られた余命の中にあるわけで、特殊な場合にはある程度の期間が見通されもしますが、 何もすることが無いってことはないはずですから、できるだけ、 できるかぎり、いい思いをしていくのが望ましいですよね。 空を見ようと思えば顔を上にあげなければならず、温かいものを飲もうと思えば立ち上がらなければならず、 人間はなぜ生きるかではなくて、そう生きて人間であろうとするような一線を繋ぎとめていくのですね。
類似する質問に答えてきた者です。私はこれは大切な質問だと思います。というのも、これを通じて、自分が生きていく指針を考えることができます。仮に答えが出なくても、考える過程が大切だと思います。 さて、それはさておいても、質問の答え。 死のうと生きようと、大きく変わらないからではないでしょうか。見かけの上で、生は華やかです。しかし人間が存在するのは、華のためではありません、何のためでもない。 すると死んでいるのとかわらないのじゃないか?という気になってきます。 しかしここでさらに、頭をひねります。生も死も同じなら、とりあえず、生きておく。そのほうがいいのじゃないか。 なぜというに、変わらないということを完全に理解したのなら、生を死に転換する理由が消滅するからです。生も死も人の存在の根源に関わる問題ではないと思えてきます。存在とは生死を超越したもっと別観点から考えるべき問題に思えるのです。 とはいえ、差し迫った問題で死を感じる人に、この答えが意味があるとは思わないです。 毒にも薬にもならない、春らしい答えになりました。
お礼
私は本当は 人間は何故存在しているのか? と問いたかったのですが 一般的じゃないかなと思って 生きているのか?にしたんです。 何かの参考になればと思いますが どうもありがとうございます。
- cat-food
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以前、人間は生きているのは「死ぬのが怖いからだ」と答えたものです。 それに対して、「母性本能などを見ると己の死を怖がるよりも尚子共の命にかけます」と反論されました。 ここで確認ですが、貴方の質問は「人間はなぜ生きているのか」というものですよね。「人間ははぜ死ぬのか」ではありませんよね。確かに自殺する人や子供ために命を投げ出す人もいますが、これは「なぜ死ぬのか」という答えにはなっても、なぜ「生きるのか」という答えではありません。 人間はなぜ生きているのかという質問の答えは「死ぬのが怖い」からです。これは人間の魂(DNAといっても、本能といってもいいかもしれません)からのメッセージです。自動車が来ればよけます。人を殺せば死刑になるから人は殺しません。これは死ぬのが怖いからです。死ぬのが怖くなければ、道路交通法や死刑という制度は成り立ちません。 これに対して、「なぜ死ぬのか」と質問されると大きく分けて二つの理由があります。ひとつは知性によるものです。自殺をするのは人間に知性というものがあるためです。人間以外の動物は自殺することはありません。それは知性がないからです。 もうひとつの理由は、前回お答えした繁栄本能によります。動物は自分の命を守る生存本能と、自分の種を増やしたいという繁栄本能の二つを持っています。自分の種を増やすためなら、死の恐怖に打ち勝つ場合があります。おっしゃるとおり母性本能がそのひとつです。例えば、動物でも母親が子供を守るために、自分の命を捨ててでも恐ろしい敵と戦うことがあります。 しかし、子供を守ろうとするとき(あるいは群れのリーダーが仲間を守ろうとするときなど)以外は、不必要に敵と戦うことはありません。それは彼らも死ぬのが怖いという感情が働いているのでしょう。 私も貴方と同じように人間はなぜ生きるのかという命題についていろいろ考えてきた者です。いろいろと考える機会をいただきありがとうございました。(もしよろしければ、私のブログを覗いてみてください。http://honnougaku.blog.fc2.com/)
お礼
すみません ブログはIEでは見ることができませんでした 母性本能の件ですが 私の言いたいのは 子供を持ってる母動物(人間も?)は死ぬのが怖いから生きてるのではなく 死ぬ怖さより子共の大切さの為に生きている。死ぬ怖さを上回っていると 言うように考えたのです。 しかし実際に私の場合は死ぬのが怖いから生きています 死ぬのが勿体ないも在るようです ブログ見れなくて残念です。ありがとうございます。
- amaguappa
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遅ればせながら、ゆにこさん、 生きているということを、そんなふうに現象としてしまうのはね、失敗しているんじゃないでしょうか? 対象化を果たしたものごとを眺めると、その現象についてみとめるほか、現象の機序(どのように、いかに起こるか)しか捉えられなくなります。 目的のつもり、理由のつもりが、機序になる。 現象をみとめることは、構成的な、俯瞰的な知性の働きなのです。 たとえば存在についての構成的な解説は、存在の現象を捉えているにすぎず、 それを本質だとか真理だとか原理だとかと混同する人も往々いるものです。 生きていること、よりも、 生きていると感じる心、が、 過ぎた時間や来たるべき時間と照応するのですよ。 〈なぜ〉の深みに届くのはそれらの照応であって、 生きていることとなぜは無関係でしょう。 この時空間への降り方を省察と呼んでみますが、それは現象に属しているのではなく心に属しているのじゃないでしょうか。
お礼
人間の意識や概念の世界と 現実の世界が なかなかハッキリ見極め難いですよね 生きる事が何の為に在る訳でもないとも言えるのでしょうね どうもありがとうございます。
- Y Y(@yy8yy8az)
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「腕白坊主」の力なんて、知れたもの。 この宇宙には、何の影響も与えないと思います。 ただ単に、なるほど、そうだったか?で、済まされてしまうと思います。 “人の道”さんじゃあないけれど、宇宙の意志はその程度にしか受け止めてくれないのではないでしょうか。 神仏の世界から見れば、地球上の生命の姿も、一段階の過程でしかないでしょう。 人間を誕生させる上で、さまざまな生物が誕生させられる破目にあったと思えば。
お礼
宇宙の意志と言うか 宇宙の因果律は 我々人間存在にとって何なのでしょうねえ? 神と言えるでしょうか? 神は人の心の中に在ると思います 宇宙の真理に基づく因果律は 我々を生み出した その後も因果律で決まってるのでしょうけど 我々は自由と思ってこの現実の中でどう生きるか考えないと 成るものも成らない 将棋やオセロのように 結果は人間には分からないのではないでしょうか? どうもありがとうございます。
- Y Y(@yy8yy8az)
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“生命”と云うものは、愛されて送り出された、誕生した、なんて歯の浮くような表現は当たらないと思います。 愛、は誕生した生命に対して後から湧き起こる感情だからです。 生まれたばかりの赤子が、泣いて自らの要求を示すのは生理的現象にすぎません。産みの母でなくても“保育器”で赤子は育ちますよね。 「愛」を赤子の心に植え付け育てるのは「母」の“愛情”です。 なぜ生きるのか、という疑問とは切り離して考えるのが良いと思います。 母の愛情を受けて育った生命が「なぜ生きているのか」と問うことは、母を通り超して存在する「何か?」を問う事に外なりません。 そこに思いを馳せるべきで、“愛”を以って結論とはしたくありません。
お礼
誤解をしてしまった様ですみません どうもありがとうございます。
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
地球上に出現した“生命”はその体を順序良く段階を経て発達(進化)してきたことを思うと《たぶん一段一段登らなければ発達しなかったから・あるいは発達させられなかったから》その時々に現われた多様な“生命”は次の発達(進化)に向けての“模索する姿”のように思えます。 そしてその発達する姿は単純・低級なものから複雑・高級なものへという流れ、方向性があり、それに因って現在があります。 こうした生命の発達(進化)という流れの、単純なものから複雑な物へ、低度から高度なものへ、は“自然な流れ”であると云えそうです。(もしかすると物理の世界でも「物体」は単純から複雑へ、なのかもしれません) 質問の『人間はなぜ生きているのか?』について、この“自然・自然さ”を個々の精神に当てはめて考えてみることも無駄ではないと思います。
お礼
自然の現実には流れや方向がありますねえ エントロピー増大と言う崩壊の流れもあれば 太陽エネルギーの供給と言う 数億年何十億年の流れもあります 単純なものが複雑な秩序を持つ と言う流れが地球上にはあります これは太陽のお陰でもありますが 複雑系と言う学問で研究されています しかし生命からすれば人間存在は40億年の流れの後に現れ その生態系を壊滅させようともしています とんだ腕白坊主です。 複雑系や引力から新しい可能性が生じるといいなと思います どうもありがとうございます。
- faintstar
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こんにちは。 どこかで読んだお話に、「生きる理由なんていうものはなくて、いろんな事や物に意味(価値)を見出していくことが“生きる”ということなんだ」とありました。 その中で、 人間関係に一番価値があると思っている方は、学校でイジメがあったときに「私は生きる意味がない」と感じ、 仕事に一番価値があると思っている方は、仕事が上手くいかないときに「俺は生きる意味がない」と感じ、 生きることをやめてしまうのかもしれません。 もし上で述べた方々が、他に一番価値があると思えることがあれば(例えば家族の団欒、娯楽など)、学校や会社が辛くても自分には生きる意味があると感じ、辛いことがあっても生き続けられたかもしれません。 今生きている人は、どんな些細なことでも、何か必ず価値のあること、物を持っているのだと思います。 私も質問者様と同じ疑問が浮かんだときに、このお話が一番しっくりときました。 なので一つの考えとして置いておきます。
お礼
確かに一つの事に価値を感じ それが上手く行かないと 他の事に価値を見出せない人は 失望 絶望に成りかねませんね わたしもそう言う気持ちがあります。 一つの現実として見るべきものが在ると思います どうもありがとうございます。
お礼
愛があるから生きています。と 誰もが言える世界にしたいですねえ 貴方は素晴らしい方なのでしょうね。 人は愛し愛されて生きる。素晴らしい一つの答えだと思います どうも大変ありがとうございます。
補足
私は愛も存在する為にあるのだと思います 愛は人間の存在性の最たるものだと思います。