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「死者の書」について
「死者の書」を読んだことのある方、あらすじと感想などを教えてください。私も読んでみたのですが、なかなか理解ができず、苦しんでいます。
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ごめんなさい。 お礼欄、気がつきませんでした。 感想ですか。 うーん、感想文なんて中学以来書いたことないぞ。 とにかくがんばって書いてみよう。 まず、これは奈良時代の話ですよね。 こんなふうに千年以上も前の時代を舞台に取った歴史小説というのも、それほど数は多くないけれど、なくはない。 でも、そういうものとものすごく違う。 どこがどういうふうに違うか。 たとえば井上靖の小説に『天平の甍』というのがあります。 私がこれを読んだのは中学のときだったので、記憶もかなり曖昧になっているんですが、奈良時代、遣唐使として唐におもむいた若い留学僧が、日本に仏教を伝えようと苦労するストーリーをおもしろく読んだように記憶しています。 ただ、どれだけおもしろかったとしても、たとえばよくできた映画を観ている感じ、といったらいいんでしょうか、話もよく作ってあるし、俳優も熱演してる、セットにもお金がかかっていてホンモノと見まごうばかり、でも、観ている「私」はこっち側にいるんです。 登場人物それぞれの心理も描き込まれているのですが、でも、たとえば中心人物の一人である業行が、ほんとうに自分が写経した仏典が、日本で一人歩きしてもいい、と語ったかどうかはわからない。後世の井上靖が造型した人物として、少なくとも私は見てしまいます。 つまり、通常の歴史小説というのは、まず後世に伝えられた「歴史的事実」があり、作者がそれをストーリーとして作り直し、ストーリーを動かすための人物を配置し、その人物が動き回る舞台を設定する。 「私」はそれを外側から見ている、という構造と言ったらよいのでしょうか。 それに対して、折口の『死者の書』は、まず世界がある、といった印象です。 作者が豊富な学識をもって、奈良時代を再構築して見せてくれている。 この時代は、日本古来からの神と、大陸から渡来した仏がぶつかり(この言い方はあまり正確ではないかもしれません)、大きく社会が移り変わる時期です。 たとえば登場人物の一人に大伴家持がいますね。 彼の心理はドラマとして細かく描き込まれているわけではない。 けれども、変な言い方に聞こえるかもしれないけれど、たぶんほんとうの家持も、大伴という古い氏族の長として、こういう目で時代の移り変わりを眺めていたのだろう、と思う。 ストーリーとは無関係に、私は生身の家持を感じます。 こうした家持の目を通して、「近来」急に目に付くようになった築土垣をおもしろく眺め、奈良の都を歩くことができる。これほどまでに、時代の空気をリアルに感じさせてくれる本はあまりないように思います。 さらに、この作品に特徴的なことは、音に満ちていることです。 冒頭の「した した した」と水の滴る音。 「こう こう こう」と魂乞いをする声。 「つた つた つた」という跫音。 「あっし あっし あっし」という警蹕の声。 郎女の「あみだほとけ」と唱える声。 ひらがなで書かれたこうした音は、字面を越えて、耳に響く、そして私たちの身体の深いところにまで響いていく音です。 この音を媒介に、私たちの感覚は、この時代にタイムスリップしていけるような気がします。 おそらくこうした「音」としてのことばの持つ力を、作者はよく知っていたのでしょうね。 『死者の書』は非常に密度の濃い作品です。 作者は一切の説明を排していますが、描写ひとつひとつに意味がある。 たとえば戸を叩くのは「まれびと」だし、二上山山上に大津皇子が祀られたのは、殯(もがり)の儀礼だった。これらはすべて折口の古代研究にもとづくものです。 また、先日、山折哲雄の『宗教民族誌』(人文書院)という本を読んでいたら、こんな一節がありました。 「この国のカミたちは、もともと冷気につつまれたまま目には見えない存在であった。だがホトケたちの方は、目を奪うような黄金の装飾を身につけ、絢爛たる肉身をまとっていた」 「日本の神々は姿をかくしたまま空間を浮遊し移動して、有る特定の土地や山に憑着する機能を持っていた。…略…ところがこれにたいしてインド伝来の仏教は、根元的な法身仏(抽象的な仏格)が多種多様の仏・菩薩を放射状に分出して宇宙の全体を満たすという点に、その方法上の特質があった」 この「神と仏の時空間」という章では、曼陀羅を通して、日本古来の神がどのように習合していったかが明らかにされているのですが、この部分を読んで、なぜ天若日子が出てきたか、また二上山山上から郎女を招く姿がなぜ金色に輝いていたか、といったことがわかりました(でもなんで天若日子が阿弥陀仏の姿になったのかはよくわからない。おそらくこれも意味があるのでしょう)。 わかっていけばわかっていくほどに引きつけられる作品なのだと思います。 以上まとまらないままに。 何らかの参考になれば幸いです。
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- kotsuauzodehi
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#3のものです。とりあえずこれまでの回答と関連性が見出せる点についてのみ言及します。 ・冒頭の設定について 「死者の書」は常闇における死者の覚醒から始まっています。 死者はここで自己同一性の欠落について困惑しています。 自己同一性の欠落とは、「世界」に対して自己の関与の形式を持たないということであり、還元すれば覚醒した死者にとって、「世界」は何ものとしても現われていないということなのです。 死者を幼児あるいは胎児と(したがって墓所を母胎と)相等視している冒頭のモノローグが、こうした境位が人間にとっての始源であるということを示唆しています。 始源の設定は、我々が同一性の措定をなし得るということ(つまり、始源的境位を克服するということ)が、十分な驚異を持って迎えられるべき論理的端緒であることを表しています。 ・「死者の書」の音について 「した した」あるいは「つた つた つた」と響く折口世界の声喩は、ことがらの生成に密着し、その過程を担い合っています。 荒石の壁を伝う滴りが尽きるとき、あるいは、闇に探し惑う彼の人の姿が暁に消えるとき、これの語もまた、その任を終えて生命果てます。 これらの声喩たちは、優れて時間的であり、ことがらと密着しているため、空間の中に静止して普遍の形を誇示しようとはしません。 時間とともに現われ消えていくその刹那的表出性に、間接的なる言語に直接性を帯びさせようとする意匠をみることも可能です。 常ならぬ「まれびと」との遭遇においてのみ、世界の分節化(認識すること)が可能となる古代的な意識と、優れて直接的、非分節的な直観言語との道行き…。 同一性の意志から逃れ、意味にまして「音」、とりわけその情動的な響きや身振りに多くを委ねるこれらの直観言語は、古代世界あるいは古代的なありようと互いに包摂し合い、それらまるごとの直接的な表象として出現させられたのです。
- ghostbuster
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誤変換発見。 山折の引用のアタマです。 冷気→霊気 間違えたら大変なところなので。 どうもすいません。
- ghostbuster
- ベストアンサー率81% (422/520)
横レス失礼します。 質問者さんがご質問なさっておられるあらすじについて、簡単に書いてみたいと思います。 確かに『死者の書』は、非常にさまざまな要素が盛り込まれているのですが、基本的な筋そのものはきわめて単純です(だからこそ、逆に、筋だけを追うことは意味がないのですが)。 物語の中心にあるのは、古くからあった中将姫(作中では藤原南家の郎女、あるいは横佩家の郎女)、伝説、当麻寺に入って出家し、阿弥陀仏の助けを借りて蓮糸の曼陀羅を織り上げ、現身のまま成仏した、という伝説です。 冒頭、まず、死者が目覚めるところから物語は始まっていきます。 この死者は、大津皇子(作中滋賀津彦とも)です。 天武天皇没後、謀反の疑いをかけられて死に、二上山山頂に眠っていたのです。 墓の外では「こう、こう、こう」と魂乞いをする声が響く。 それは藤原南家の郎女の魂を呼ぶ声だったのですが、それに墓の中の死者が呼応して目覚めたのです。 麓の山田寺には藤原南家の郎女がいる。 同じ部屋には、地元の豪族、当麻氏の氏族の語り部のおばあさんが大津皇子の話を聞かせています。大津皇子は死の間際、耳面刀自にかけた思いが心残りになっていたこと、そしてこの耳面刀自は、郎女の祖父の叔母にあたる人であること、その力に引かれてこの地を訪れたのであろう、と。 郎女は、自分を招く人のイメージをすでに見ているのです。 その人が大津皇子とは思えない。 すると語り部の老婆は、さらに古い天若日子の伝説を語る(この人物?に関してはURL参照のこと)。 http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/wakahiko.html この語りに、遠く墓の中から耳を傾けているのが、大津皇子その人です。 こうして彼は、徐々に記憶を取り戻していく。 ここで物語はフラッシュバック、郎女が一人藤原京の館を出たところに話は戻ります。 当時、権力の中枢にいた藤原氏ですが、一族の総帥、藤原南家の当主、豊成は有能な人物ではなかった。その弟の仲麻呂が、兄をおしのけて、中心人物となっていきます。 郎女は豊成の娘でした。 郎女は、広嗣の乱の巻き添えで太宰府に左遷させられた父親から送られてきた、阿弥陀経の写経を始めます。 ちょうど写経が九百九十九まできたところで、遠く二上山に自分を差し招く人の姿を見ます。その夜、千部を書き終わって、郎女は屋敷を出、春分の日、山に導かれるように女人結界を破って、山田寺の奥深くに入っていったのです。 ここで大伴家持が登場します。 作者は、大伴家持の視点を借りて、当時の藤原京の様子、古い家職が廃れ、仏教が浸透しつつあること、仲麻呂(作中では恵美の朝臣などと記述)の台頭と、時代が移り変わっていっているさまを描きます。 同時に物語の「現在」が、聖武天皇の在位最後にあたる749年であることがあきらかにされます。 話は以下のエピソードと前後するのですが、このあと家持と仲麻呂は、郎女が齊宮や入内するのをいやがって、尼になろうとしたのではないか、と推測します。 一方、山田寺では、南家は郎女を返せと主張し、寺側は物忌みのため、一定期間寺に留まることを要求して、双方が対立するのですが、郎女の、自らの咎は自らで贖う、という表明によって、郎女は寺に留まることになります。 庵に暮らす郎女の下に、近付いてくる跫音がある。怯えた郎女は咄嗟に目を瞑るのですが、その瞬間、帷帳を掴む白い手を見、思わず「阿弥陀ほとけ」という言葉が口をついて出ます。すると、怖さが消えてしまい、安らかな気持ちになる。夢の中で郎女はその人の姿を見ます。 季節は春から夏へ移り、郎女の周囲では、蓮の糸縒りが始まります。 そして秋、秋分の日、郎女は一人寺の門にたたずみ、二上山を眺め、その人に姿をあらわしてほしい、と願います。 すると雲が下りてきて、山端から尊者が姿を現します。 郎女は機(はた)を立て、蓮糸で布を織り始めます。 寒くなる前に、着るものを織ってあげたいと思ったからです。 蓮糸の織り方を教えてくれる、剃髪した尼が現れ、助けてくれます(その尼の声は当麻の語り部の老婆の声で、隼別王子と女鳥の姫のエピソードを語ります)。 そうして秋が深まったころ、五反の布が織り上がります。 針を動かして、着物を縫おうとする郎女に、ふたたび尼が訪れて、僧伽梨にするように言う。それを縫い上げ、最後に郎女はその上に絵を描きます。 できあがった曼陀羅を、人々が賛嘆して眺めるうち、郎女は姿を消します。 ----- この作品がわかりにくいのは、なによりも、複雑な歴史を背負った登場人物たちが、この物語の「現時点」で切り取ったまま、一切の説明もなく投げ出されているためだと思うのです。 私も初めてこの作品を読んだ時、日本史の用語辞典を引きながら、一人ずつ人物を確かめながら読み進んでいった記憶があります。 加えて、大職冠=藤原鎌足、淡海=不比等、横佩家=藤原南家といった具合に、固有名詞が後世の私たちにわかりにくい表記でなされてもいます。 けれどもこうした手法を取ることによって、作者は読者に、歴史を後世から俯瞰するのではなく、作中人物とともに、その物語の「現在」を生きるよう誘っている、と、私には思えるのです。 まずは、漆黒の闇を感じてください。 息が苦しくなるほどの、圧倒的な闇です。 その音のない世界に、した、という、水の滴る音。 また、「した」。 さらに、「した」。 冷たい、かびくさい空気。 遠くの方からかすかに聞こえる「こう、こう、こう」という呼び声。 そこで死者が目をさますのです。 ゾクッとしませんか? できたら、大丈夫。たぶん、質問者さんもこの物語世界を生きることができます。 実際に#3の方がおっしゃるように、この作品は読めば読むほど、あるいは背景的な知識を持っていれば持っているだけ、話が立体的に浮かび上がってくるものと思います。けれどもそれにはまず、この物語世界に足を踏み入れてほしい。 その一助となれば、と思って、回答させていただきました。 読みの至らない点、誤っている点がありましたら、ご指摘ください。
- kotsuauzodehi
- ベストアンサー率30% (27/90)
私は現在中学校で国語の教師をしていますが、大学の卒業論文で「死者の書」に取り組みました。テーマとして選択したのは、この小説を読んだときに自分が感じたものの正体を知りたいと思ったからです。それを見極めたくて膨大な量の文献にあたりました。 「死者の書」は、非常にスリリングで知的な興奮にあふれた小説です。しかし、『古代研究』などの学者としての折口の仕事に対する知見を有しない読者にとっては、奇妙な魅力を感じつつも、読書経験として位置づけできない居心地の悪さを感じる小説なのかもしれません。 No.2の回答の方が「おそらくあれは詩なんですよ。」と言っておられますが、私もそれは正しいと思います。しかし、「全体の構成や、人物描写などが気になります。理解という部分ですね。しかしあれはそういうものを期待するものじゃない」については、「理解の方向で捉える」ことも可能だと考えています。 あなたが気になる点について、もう少し教えていただけないでしょうか? 例えば、以下のようなことについてなら(長くなったり難しくなったりするかもしれませんが)説明できると思いますが…。 ・登場人物についての単純な知識 ・日本文化の原像への作者の挑戦 ・線分的時間認識と円環的時間認識について ・言語の発生という機制について ・自己同一性と世界認識について ・共同体と物語 ・「まれびと」「反逆者」としての神 ・「巫女」「神の嫁」「水の女」としての女 私は、この作品がとても好きなのです。俗っぽい言い方をすれば、「オンリーワン」の作品です。
補足
この作品がとても好きな方と聞いて、非常に心強いです。私はこの本を読もうと思っても、登場人物についての知識がないので、読みながら想像することもできないのです。そして、意味がわからないままで読みすすめることもできません。どうか、さらに補足をお願いします。
- alchera
- ベストアンサー率45% (209/457)
ま、話半分に聞いて下さい。わたしの折口信夫経験は「死者の書」と百首程度の短歌の流し読みだけです。それで回答というのもおこがましいですけどね。 しかし若かりし頃、死者の書を読んだ時、わたしも同じように「???」と思いました。ナニ?コレ?あちこちで言及されているし、名作なんだろうけど、さっぱりわからない。 以来再読はしていません。十年以上経っているので、今読んだら何か得るところがあるのかもしれませんが、読む気になれない。そういう時、無理はしなくていいと思っています。 おそらくあれは詩なんですよ。 わたしは「大津皇子が甦った話」だと思って読んで、肩透かしをくらいました。話=小説だと思えば、どうしたって全体の構成や、人物描写などが気になります。「理解」という部分ですね。しかしあれはそういうものを期待するものじゃない。 文字を丹念に追って行って、その言葉を愛する人が読むものでしょう。初めて読んでから何年も経って、そういう結論に達しました。 小説よりも詩の方が、肌の合う合わないがはっきり出るジャンルだと思います。世に有名な詩人はいくらでもいますが、そのなかで好きになれる詩人はほんのわずかです。とすれば、この死者の書も、肌が合わない、と切り捨ててもいいような気がします。理解の方向で捉えるものではないと。 小説だと思い、理解しようと思っているからこそ感じる気持ちの悪さだと思います。 エジプトの死者の書をダブらせているところも混乱の(三半規管の混乱のような)元なんだと思うんですよねー。大津皇子もエジプト死者の書も、スパイス程度のもののような気がします。どちらもモチーフとして影を利用しただけで。 ここからは更に私見ですが、折口信夫って巫っぽくないですか?短歌も形が独特……内容はどちらかといえば素直な方だと思うのですが、分かち書きや独特の句読点を見ると、大変不安感をあおられます(^_^;)。 左脳で言葉を操った人というよりは、自分の裡から湧いて出る言葉を連ねてようやく形にしたような気がする。託宣のようなね。 死者の書が、歴史上の人物を主人公に持って来ながらもまったく叙事詩になっていないのは、それが理由のような気がします。 わたしの手持ちは中公文庫ですが、死者の書とカップリングで「山越しの阿弥陀像の画因」という短い文章が入っています。こちらは少々「理解」方向でも対応できるようです。文章の内容は忘れてしまいましたが、わたしが「山越しの阿弥陀像」そのものを何か特別のニュアンスを感じつつ眺めるのは、この文章のせいだと思いますので、こちらについては何か得るものがあったのでしょう。おそらく。 まあこれも「左脳の皮をかぶった右脳文章」という気がしますけれどね。 以上の回答はまったく独断と偏見に基づくものですので、回答者さまもその点をお含み置きください。 諸賢のご回答をお待ちしております。
お礼
回答ありがとうございます。あの本をむずかしく、「??」と思ったのは私だけではなかったと言われて安心しました。まったく意味がわからなかったのです。でも、この回答をみて、なるほどと思うところもありました。ありがとうございました。
- amukun
- ベストアンサー率31% (611/1955)
どの「死者の書」でしょうか? ジョナサン・キャロルのファンタジー・ホラーですか? 折口 信夫の「死者の書」でしょうか? 古代エジプトの「死者の書」のことでしょうか?
補足
ごめんなさい。折口信夫の「死者の書」です!
お礼
細かい内容説明ありがとうございます。読んでも理解できなかったのは、そういうことだったのかと理解しました!でも、難しい本ですね。この本を読んでどんな感想をもたれましたか?よかったら教えてください。