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なぜ人は無を求めるのか。
この世は仮の宿であり、真の世界ではないと言ったりもする。 この世の全ては幻であり、実在はしないと言ったりもする。 自分だけが存在しないほうが良いと思っているのであろうか。 それともこの世の全てが存在しないほうが良いと考えるからなのであろうか。 なぜ人は無を求めるのか。 いや無ではなく空であると言ったりもする。 無と空の違いさえ知らないにも関わらずである。 座禅を組んで無の境地に浸ろうとする輩もいる。 ところがその座禅を組んだ後、飯を食うのである。 無を求めるならなぜ飯を食う必要があるのか。 食った飯は無なのか有なのか。 あまりに愚かとしか言う以外あるまい。
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仮の宿というのは、あなたの主観の事。主観=世界そのものでは無いって事。主観は自分の視点で見た世界の姿であり、所詮は一面的な見解に過ぎない。これは主観を持つなとか、無い方が良いといっているのではなくて、主観は無数にある見解の内のたったひとつの見解に過ぎないって事。 結局、人は自らの視点から物事を眺め、理解する事しか出来ない。その前提でひたすら真実を求めると、いずれ無という現実に辿り着く羽目になる。この探求に納得し、ひと段落するまではメシも食うし、納得したらしたでメシを食わない理由は無い訳で。ちなみに、食ったメシが有か無かは、あなたの主観(心)次第だ。 あらゆる物事には固有の実体が無く、全ては心の現れでしかない。そう、全ては「空」なのだ。 とは言え、座禅を組む奴は愚かというのは同意。大して求道心もない奴が、あんな腹減らしな真似するよか、念仏唱えたり、人の道を歩んだりする方が、よほどマシってね。
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- MASTEMA-0
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何故、人が無、あるいは空を求めるか。 恐らく快楽あるいは、苦痛からの逃避を目指しているのではないでしょうか。 無になることが"目的"ではなく、"手段"だと考えるのです。 例えてみるとそれは睡眠です。私たちは寝ている間、 意識はないはずです。意識がない。つまり苦痛を感じないということです。 勝手な思い込みかもしれません睡眠を苦痛に感じる人は恐らくいないと 思います。 人は誰しも悩みます。辛いことがあります。私たちはそれから開放されたい と感じているのではないでしょうか。しかし私達に意識がある以上、 何かしらに感じるものがあります。それらから一切干渉されない手段、 それこそが意識の消滅です。 だから私たちは無になることを求めているのではないでしょうか。 当然、無は手段であり、目的ではないので飯は食います。 あくまで苦痛からの逃避が目的です。飯を食うことは 苦痛ではありませんから。 あくまでこれは私の推測です。私にとっての答えであり、 あなたの求める答えではないかもしれません。あくまで参考に 留めていただけると幸いです。
お礼
>あくまで苦痛からの逃避が目的です。 苦痛から逃避するために、無を求める。 全てが無であれば、苦痛も無になる。 無を求めれば苦しむことはなくなる。 つまり無を求めることは苦しみが生み出す喘ぎなのか。 苦しいから喘いでいるのか。 おそらくそうに違いない。 無を求める本人はそのことに気付いているのであろうか。
- sorakana
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どれが質問なのだろうか。 >この世は仮の宿であり、真の世界ではないと言ったりもする。 >この世の全ては幻であり、実在はしないと言ったりもする。 >自分だけが存在しないほうが良いと思っているのであろうか。 >それともこの世の全てが存在しないほうが良いと考えるからなのであろうか。 誰がでしょうね・・・ まさか人間全体の思考とかいいださないですよね。 >座禅を組んで無の境地に浸ろうとする輩もいる。 >ところがその座禅を組んだ後、飯を食うのである。 無の境地と、食欲を満たす事は一見反してるようにも考えられますが、別に死ぬために座禅組むんじゃないですよね。 つまり貴方の言う無の境地と、無の境地のために座禅をするかたのいう無の境地は別物なのでしょう。 >無と空の違いさえ知らないにも関わらずである。 無と空の定義を、完全にできていると思ってるのなら、貴方は哲学を考える人としてどうなのだろうか。 またそれを人に押し付けるのはどうなのだろうね。 >あまりに愚かとしか言う以外あるまい。 人の価値感、行き方を蔑んでる時点で、貴方も愚かですよ。
お礼
>どれが質問なのだろうか。 なぜ人は無を求めるのか- これが質問です。
補足
やっと、質問らしい質問になりました。
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お礼
>あらゆる物事には固有の実体が無く、全ては心の現れでしかない。そう、全ては「空」なのだ。 siryuanさん、これもまたあなたの主観に過ぎませんよね。 結局すべてが主観なのだから、求道心も主観、念仏唱えることも主観となりますね。 みな腹が減れば飯を食うけど、これもまた主観のなせる技となりますね。 人間は実体ではないのだから、人が死んでも空が空になっただけであり、悲しむ必要もありませんね。 供養する必要など更々御座いませんね。 とまあこんな結論になりますがこれでよろしいですよね。