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責任とは 罪とは

例えば、男に生まれるか女に生まれるか、金持の家に生まれるか否か、など、 その他さまざまな因果によって人は今を思い行動しているわけですが、すると、どんな人でも、様々な人間に成りうる可能性があったわけですよね。 不幸にならなかったのは、ほんの偶然だったはずです。 すると、責任だとか罪だとかは、所詮は見たくないものから目を背けるための口実に過ぎないのではないでしょうか?

みんなの回答

noname#183245
noname#183245
回答No.7

ほんとうに偶然だったのでしょうか。 前世の因果があって、現世に生まれたと、ぼくは思います。 だから、すべての責任は自分にある。 これは松下幸之助氏の言葉です。 罪ってのは、たしかに人が作ったものですね。 「~罪」とか。 罪ってのは現実に必要だから作られたのだと思います。

noname#191845
質問者

お礼

前世という、自分が関与しない因果によって責任が問われるという考えには賛同しかねます。 自分が関与した因果こそが責任だと私は思いますが、そのような因果などあり得ないし、責任もあり得ないと思います。 しかし、お考え尊重いたします。 御回答誠にありがとうございました

回答No.6

#5の者です。 >責任や罪が、わたしの存在にとって必要な概念だとは、 >信じたくありませんがそうなのでしょうね 一般に言われる、他人に対しての責任や、社会的な義務 とは違い、自分が自分であるための宇宙に対してのもの、 即ち、過去、自分であった事への責任(記憶=時間=進化)、 未来、自分であり続けるための必然(可能性=空間=物理) として、生きている事を生かす(自分に嘘をつかない)道です。

noname#191845
質問者

お礼

私が問題視しているのは、一般に言われているそれです。 それは一体何なのでしょうか 自らが罪人にもなりうるという事実から目をそらすための口実ではないでしょうか

回答No.5

この世界にある必然・義務・責任は、自己が自己である ための必要、宇宙を成立させている物理です。 全ての物理定数が、超弦理論において、たった1つの プランク定数から導かれる事が判明し、そのプランク定数 が量子性=不確定性原理の実体である時、その相補的 不確定性を現象表面的に定性化(いい加減に捉える)事 によって有限な存在性を派生させているのです。 無=無限不確定性の潜在としての認識可能性により、 その階層現象表面(感受表面=光速)において(階層現象 表面的に)、時間軸(自我仮説=記憶=過去=超光速)と 空間軸(時空仮説=予測=未来=光速下)の相補分化を 可能にしているのです。 換言すれば、全てのものは、あなたが存在するための (物理的根源にまで遡った)必要なのです。

noname#191845
質問者

お礼

責任や罪が、わたしの存在にとって必要な概念だとは、信じたくありませんがそうなのでしょうね。 単なる嫌悪と、罪や責任は違いますか。私は本質は全く同じだと思います。 御回答誠にありがとうございました。

noname#194996
noname#194996
回答No.4

>責任だとか罪だとかは、所詮は見たくないものから目を背けるための口実に過ぎないのではないでしょうか つまり、貴方は、世間の不幸は社会全体でひとしく受容するべきで、いわゆる現在の責任者や罪びとという概念は便宜上フタつきのゴミ箱として利用されているだけの哀れな生贄に過ぎないといわれるのですね。 鋭い見方ですね。確かにそういう面はあるだろうと思います。私達は罪を逃れた幸せをもっと社会に還元せねばならないだろうということでしょうか。 私もそういう見方にある程度賛同します。少なくとも幸福な人間達は、もっともっと高額な社会保険に参加し、税金を負担し、ボランテアに参加しなければならないと思います。いずれそういう傾向が今より強くなっていかねば社会はもたないでしょう。今の高級公務員の無責任理想世界が社会全体にひろがっていくということかもしれませんが。

noname#191845
質問者

お礼

恐れながら、そのような鋭い考えではないです。 ただ、実は鏡を見て他人を非難していることに気づこうともしない人が多すぎる気がするのです。 今の自分が偶然の結果なのだと自覚していれば、気軽に口は開けないはずだと私は思います。 御回答誠にありがとうございます

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.3

不幸にならなかったのは、ほんの偶然だったはずです。 ○偶然など一切ないですよ。不幸になったのは本人が望んだからですし、幸福になったのは本人がそれを望んだからですね。生まれた環境も本人が選んできてるんですよ。だから個人の人生は全て自己責任なんですよ。他人に転嫁する責任は欠けらもないんですよ。 例えば、巻き添え事故などといって他人に責任転嫁してますが、本当は誰が一番悪かったかは心の中を見てみないとわからないものなんです。目に見える現象だけで判断すると偶然などと言いたくなりますが、まあ偶然などないんですよ。それが真実の世界なんですよ。

noname#191845
質問者

お礼

私とまったく逆の考えですね。 自己責任など有り得ないと思います。 しかしお考え尊重いたします。御回答誠にありがとうございました

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.2

”不幸にならなかったのは、ほんの偶然だったはずです”      ↑ 偶然が幸不幸に大きく左右することは確かですが、 百%偶然だけで決定される訳ではありません。 「無知の涙」で有名な、永山則夫を御存知でしょうか。 彼は、悲惨な幼少期のためあの犯罪を侵したと 裁判で抗弁しましたが、裁判官はその意見を受け入れず 死刑判決を下しました。 それは、彼の兄弟は同じ境遇で育ったのに、皆マトモ に生活していたからです。 つまり、幸不幸は偶然だけでは無く、本人の意思にも 大きく左右される、ということです。 本人の意思に左右される範囲において、責任だ、罪だ というのは合理だと思います。

noname#191845
質問者

お礼

意思を生じることも、偶然の結果ではないでしょうか? 御回答誠にありがとうございました

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.1

そうですね。 「責任阻却」ということがあります。「本人の責任(であるが、それ)を問えない」という場合に、 ですね。 無理を押し付けない、ということでしょうか。 ・・・だから「見たくないものから目を背ける」というのとは違います。

noname#191845
質問者

お礼

私は、責任そのものがあり得ない概念だと思います。 御回答誠にありがとうございました

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