豊臣氏は、秀吉だけがずば抜けた存在なので、その他の人物は、「秀吉にとってどんな存在だったか」によって、秀吉からの扱いが決まったり、それが後の評価に影響したりする様です。
豊臣氏で、秀吉以外の人物の事は、それほどよく分かってはいないと言えます。秀次が切腹させられた理由が不明瞭な事からも、それはうかがえますが、後の時代から歴史を俯瞰した時に、「秀吉が必要と考えた人物は生き残り、そうでない者は淘汰された」事が見えてきます。
そう考えると、豊臣秀長は、秀吉が「必要と考えた」側の人物だった様です。
秀長の業績は地味ですが、秀吉の代わりに軍を率いたり、降伏勧告をしたり、家康を接待したりと、秀吉の副将のごとく扱われています。絶対権力者の秀吉に、これほどの待遇をされ、しかもその幕下にいるまま天寿を全うしたのは、秀長だけで、そういう点では、「名将」と言えるかもしれませんが、あくまで秀吉あっての存在なので、あまりしっくりしませんね。秀吉の天下経営内閣の構成員、副総理といった感じです。
もし秀吉がいなくても、軍功をあげて歴史に名を残しただろうか、と考えると、ちょっと怪しいですね。独り立ちできなければ、「名将」とは呼びにくいです。
「名将」というよりはむしろ、「無難な人物」というのが当たっています。賤民あがりの秀吉にとって、親族の中では数少ない(ほとんど唯一の)、「使える人物」だったのではないでしょうか。元賤民ながら、天下の経営に関わり、無難にこなした秀長は、秀吉ほどのカリスマ性はなかったにしろ、やはり有能ではあったのでしょう。
秀長が、もっと長生きしたら、どうなったでしょうか。晩年の秀吉は、淀殿や秀頼への愛情に溺れたり、無茶な朝鮮出兵を行なったりと、判断力の衰えが感じられます。諫言も通じなかったかもしれないし、最悪の場合は、秀次と同じ運命をたどったかもしれません。まあ、控えめで賢明な秀長ですから、あっさりと隠退を選びそうですね。
もし10年長生きしたら、関ヶ原に間に合っていましたが、秀吉ほどのカリスマ性を持たない秀長に、西軍をまとめる事が出来たかどうか…。彼ならむしろ、家康と戦う事はせず、豊臣家存続のために、政治的判断をした様に思います。
夢のないお答えで、ごめんなさい。
お礼
そうですよね 諸大名は秀吉は嫌いでも秀長は好きだ という人が多かったらしいです 島津氏が降伏したのも秀長が説得したためだとか また 家康も後年「天下様が大和大納言殿(秀長)であったなら豊臣と徳川は戦わなかった…」とまで言っています