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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:続:韮崎駅~音威子府駅間の日数と料金)

韮崎駅~音威子府駅間の日数と料金

このQ&Aのポイント
  • 続:韮崎駅~音威子府駅間の日数と料金について、古い時刻表から判断すると、大正時代には3万円かかり、年金生活の人には手が出せない金額であったことがわかります。
  • また、音威子府駅の史記は大正5年から平成元年まで存在していたことが分かります。
  • さらに、現在では音威子府から枝幸歌登方面へのバスの発着便が存在しています。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • t3-papa
  • ベストアンサー率27% (43/159)
回答No.1

初めに投稿した「韮崎駅~音威子府駅間の日数と料金」については、(趣味→アウトドア→鉄道、路線)に投稿変更すれば回答がいただけるかと思います。ここでの質問の(なぜ長男が北海道に入植したか?)について集団入植以外で考えられるのは、(1)本人の強い意志によって望んで開拓に行った。(2)本人が地元に住めない状況を作ってしまい逃げる様に北海道に向かった。(3)テレビで見たのですが、家訓によっては長男ではなく、次男以下に継がすという家もあったそうです。長男の役目は家をでて他の地方で家系が切れない様、子孫を増やす役目だったそうです。私の家も本家長男家系ですが、(2)の理由により(財産を食い潰したらしい)北海道に来たと聞きました。質問者さんの祖父の方は帰京されているので、(1)か(3)の理由で入植されたかと想像いたします。アドバイス程度の回答で申し訳ありません。

OK-SUNNY
質問者

お礼

早速のお答えをありがとうございます。 母が92歳。その父のことで、質問を致しました。 祖父の長男が金沢の練兵隊に入隊し出撃する直前に弟の次男に宛た手紙が出てきました。弟に家督を委ねる手紙です。 一方、弟は、遺言を認めておりました。遺言の宛先は妻宛です。 長男3歳に対する養育を委託する。長男は軍人か国家公務員にせよ。預金・保険・国家への交付金給付申請の受領処理、借財皆無。子女(長女と妻)の身に処し方は、具体的な人を明示し、余人の溶言を許さず、自らの遺志で決めろ。 そして、昭和20年病死、同じく昭和20年7月長男はフィリピン・レイテ島で戦死。 長男の手紙には、印象的な内容が記述されています。 北海道に入植した時の年齢が10歳、次男は6歳。韮崎に帰郷した時、昭和6年、20歳と16歳。そして、14年後に2人は逝去。 北海道での生活の思い出を手紙に書いて送って呉れ。 志を持って大学に入り、公務員になった。弟も奮闘した様です。 当時、昭和19年~20年頃、私は、母に連れられ、私の父の郷里の青森に疎開、あまりの寒さで子供二人を育てられないと甲府に疎開。だが、空襲で焼夷弾の火炎を浴び、布団を被っていたから、火炎をあげる布団を捨てて親子3人が生き延びた由。 ですから、長男・次男の逝去についても、知っているのですが、 口が重くなるばかりで開こうとしません。 当時の事情・状況を教えていただきましてまことにありがとうございました。

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