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芥川龍之介「羅生門」でディベート
芥川龍之介の「羅生門」で学校でディベートをすることになりました。題は「極限状態における悪は許される」です。私はこれに反対する側です。 現在立論を書いていているのですが、参考になる 資料がなかなか見つからず、ハッキリした根拠が書けないでいます。 そこで皆さんに"どんな状態であっても悪を犯してはならない"ということを根拠付けるような資料を教えていただきたいのです。URLやコピペ、どんなものでも構いません。 それと、もしよかったら皆さんの題に対する意見も聞かせてください。 よろしくお願いします。
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- TANUHACHI
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追記です。具体的にいきます。 【問題点】 「極限状態における悪は許される」。この「結論」が立脚する根拠と背景が何であるかと考えた場合には「悪」の内容を規定することから始めねばなりません。同じ「悪」といっても、それが「法的観点」から見た場合と「道徳的観点」から見た場合では「意味」が変わってきます。 そしてこの作品の背景が平安時代頃であるとするならば、そこに現在の法的価値観を適用できるかとの問題も生じます。もし平安時代であるならば、律令による刑罰規定があるのでそれを傍証として立論を組み立てることとなりますが、それをお調べでしょうか。この様な法源に基づくことから本件は罪と認めることができる或いはできないと説明すれば、それで終わりです。 また「必要悪」や「正当防衛」をどう説明するかとの問題にもなり得ます。この質問からは「いずれか一つのみを是とする」との二分法的な発想が見え隠れしてしかたないのですが、「法」の場合であっても実際には運用の幅があり、罰則規定にも「~年以下の懲役とする」など最低限から最大限までの幅が設けられていて、それには「罪の軽重をどのように判断するか」との背景が作用しています。ですから「絶対にこれでなくてはならない」との要件も成り立たないこととなります。 そのディベートが本質的なものではなく、単に論理的思考とその説明能力を試験するだけならば、この様に曖昧模糊とした論題を出すだけです。でしたら従来の「論証と反証」をディベートとのスタイルを模倣したにすぎません。「『悪』を悪とする根拠」そして「そのカテゴリーに含まれる範囲」を説明できれば十分でしょうね。 質問の「どんな状態であっても悪を犯してはならない」を敷衍して「ヒロシマと核兵器」に関する二つの考え方を質問者様はどの様に説明されるでしょうか。
- CC_T
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「羅生門」が言わんとすることと、「極限状態における悪は許されるか」ってお題はズレてるとは思いますけど・・・。 ~~~ ・人を呪わば穴二つ ・剣を使う者は剣で死ぬ ・人を謀れば人に謀らる ・人を傷る者は己を傷る 以上、「情けは人の為ならず」の悪意バージョンですね。 悪をなされる方の身になって考えれば、それが「しても当然」なんてこと、許しがたいです。 それを誰がどのような権利で許すと言うのでしょうか。そいういう許す・赦すなんて事や、いやそもそも悪ってどういう基準で悪と決められるのか、なんて考えていくと、哲学か宗教の世界に落ち込んじゃいます(^^; 善悪は相対的なもので、例えばテロにしても実行者にとってはそれが悪であるとの認識は持っておらず、むしろ神に捧げる善行であるなんて信じている。悪を犯してはならないという信念は、どんな基準でもって悪を規定するかに左右されるため、共通認識を持った者同士の間でしか通用しない話なのです。 ~~~ 法律上は緊急避難という考え方がありますので、罪には問われないという意味で悪が認められるケースがあります。 緊急車両が赤信号の交差点に侵入したりするのも認められていますよね。 最近は尊厳死なんて考えもあり、言うなれば当人の希望による殺人を人殺しと見なさないでという動きもあります。 こういうのは、何が悪かを定めた法律において例外を儲けることで通用している「許された悪」と言えますが、原則に例外を設けるという事は、そもそも原則の普遍性が補償できなくなるという矛盾した行為。殺人はNGでも戦争で敵を殺める事はOKって、人命は尊重すべきだという原則からずれたおかしな話ですよね。 原則に例外を設けていくと、歯止めが利かなくなる。なし崩し的に例外が増え、原則を定めた信念がないがしろにされる危険をはらんでいるのです。 当人にとっては法や社会が許すかどうかは問題ではなく、己の良心が赦すかどうかが問題となる。つまり何が「やってはいけない事」なのかというのは、善悪の問題ではなく最終的には個人の良心次第ってこと。例外を認めていくと、人々の良心のハードルは徐々に低くなり、やがては「赤信号、みんなで渡れば怖くない」のレベルに墜ちてしまう。日本にも昔は「封印」の紙一枚を扉に貼ることで宝物の盗難が防げた時代が確かにあったのですけどね。 ~~~ 極限状態における悪については、カルネアデスの板の故事やミニョネット号事件なんてものがありますが、当時の司法もさぞや議論を重ねた事でしょう。 また、戦争という極限状態の狂気の中では、何が善で何が悪がは判断できません。だって、生き残った側だけが「自分たちが正しい」と自己を正当化できるチャンスがあるわけですから。 自分の国に攻め込まれてこのままでは滅びると言うとき、核ミサイルで報復して敵国中枢を消滅させて自国の勝利を得るなんてのは、「許されるべき悪」と言えるのでしょうか? どこまでが許されるべきかという線引きが、誰によってなされるかで許されるか許されないか変化するようでは、極限状態における悪を認める事なぞ出来はしない。つまり、極限状態における悪は許されるという立場に反対するならば、極限状態を規定する『普遍的な基準』が存在しないって事が最大の攻め所でしょう。もう一つ、誰がどういう判断と権利をもって許すと言うのかというのも手掛かりになるのではないですかね。 ~~~ ちなみに。 (1)極限状態においてもケジメはつけた例 佐賀の山口裁判官のように、戦後の食糧難の時代に「悪」であるとして闇米を拒み、栄養失調がもとで亡くなった方がいます。極限状態においても法に準じて死すという選択肢は、裁判官としての良心に基づいた信念だったそうです。 (2)極限状態において、不適切と承知しつつ行動した例 第二次世界大戦中、リトアニアに赴任していた杉原千畝領事は、ドイツの迫害により各地から逃れてきたユダヤ系難民たちの窮状に同情し、外務省からの訓命に反して大量の通過査証を発給した(帰国後に命令不服従の責で依願免官の処分を受ける)。 以上、思いつくままの乱文にて失礼します。
- TANUHACHI
- ベストアンサー率31% (791/2549)
先ずこの設問ですが、無理があります。芥川の『羅生門』は改稿がしばしば行われ、最後の部分が三種類あります。改稿したには改稿したなりの意味があるはずです。ですからそのうち「いずれのテクストを素材とするか」によっても解釈が異なり、議論がかみ合わなくなる。 そして「文学解釈」から飛躍させて「極限状態における悪は許されるか」との設問がなされるならば、それは文学評価に関わる問題ですので、ディベートなどの低俗なゲーム感覚で臨むことなど許されるべきでもありません。 ましてや「答を補足するための論拠を教えてくれ」などは言語道断です。文学を解釈することに資料が必要ですか?。立論を書けない理由は、質問者が直接にこの作品を読んでいないことに起因します。もし読んでいるならば、作品の中にある言葉に目が行き、そこから幾らでも糸口を見つけることもできます。作品中の言葉に「平安朝の下人の Sentimentalisme」「とりとめもない考え」「合理的」「検非違使の庁の役人」「平凡」「失望」「憎悪」「侮蔑」などがみられます。これらの具体的内容を作品の中に求めれば、なぜ下人が罪に及んだかのプロセスの変容も読み取れるはずです。 また芥川が古典に素材を得ながらも西洋哲学史での中核をなす「エゴの概念」に言及したのはなぜかなどの切り口も論点とはなりうるはずです。「エゴ」からは例のデカルトの“Cogito ergo sum”が導き出されます。ヒントはここまでです。後は作品を読み込み、徹底して「エゴ」について考えてみて下さい。 他にも参考になる作品として武田泰淳の『ひかりごけ』や野上弥生子の『海進丸』大岡昇平の『野火』がありますので一読をお薦めします。 勉強不足でありながら他人に依存しても平然としている女子学生に喝!
- ha dooo(@hadooo)
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ディベートの題自体がそもそもグダグダしているというのはよくあることだと思いますが、「極限状態における悪は許される」という「許される」というのは、誰が、どんなふうに許すことを「許す」と言っているんでしょうか。 「許す」の主語もあいまいな者同士が何を話し合っても時間の無駄だと思うので、議論をするならばその題の怪しい点からなんとかしなければならないと思います。