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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:食というものの位置づけ)

食と文学:食べることの位置づけとは?

このQ&Aのポイント
  • 日本の文学において、食べることや食文化に関する描写が少ないのはなぜだろうか?明治以前の文学では食べる場面がほとんど見られない。西欧でも同様で、食べることはあまり興味の対象ではなかった。しかし、現代の文学では食事に関する詳細な描写が登場する作品も存在する。食べることを忌み嫌う考え方が昔からあったのだろうか?
  • エーコの「バラの名前」では中世の僧侶の食事の詳細が描かれているが、これは現代の文学作品である。食事に関する描写が少ないのは、食べることが卑しいと考えられていたからかもしれない。過去には食や性、排泄といったものが忌避されていた可能性がある。しかし、具体的な証拠はないため、詳細は不明である。
  • 食べることに関する文学作品の少なさについてどう思うか気になる。食文化は現代において重要なテーマであり、多くの人々が食への興味と関心を持っている。なぜ食べることに関する描写が少ないのか、その背景や理由について探求する必要がある。過去の文学作品では食べることがあまり重要視されていなかったのかもしれないが、その根拠や背景を知ることは難しい。

質問者が選んだベストアンサー

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  • staratras
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回答No.1

>日本では明治以前の文学に食はあまり出てこないような気がします。 確かにご指摘のように源氏物語など平安時代の物語文学には飲食の場面、とくに飲食の楽しさや食品の美味しさを描いた場面はほとんど見られないようですが、この時代以外は様相が異なるのではないでしょうか。 例えば「古事記」には「酒楽(さかくら)の歌」として次の歌があります。「この御酒(みき)を 醸(か)みけむ人は その鼓 臼に立てて 歌ひつつ 醸みけれかも 舞ひつつ 醸みけれかも この御酒の 御酒の あやに甚楽(うただの)し ささ」 また万葉集には、有名な大伴家持のうなぎの歌をはじめ食べ物が登場する歌は多数あり、 巻十六の次の作者不詳の歌などはまさにグルメの歌でしょう。 「醤酢に 蒜搗き合てて 鯛願ふ われにな見えそ 水葱の羹」 大伴旅人の酒を讃むる歌十三首も有名です。 一方平安朝の物語文学より後では、芥川龍之介の小説で有名になった「今昔物語集」や「宇治拾遺物語」の芋粥の話や「沙石集」の飴の話(狂言「附子(ぶす)」の原型といわれる)など食べ物を扱ったものは珍しくありません。 さらに時代が下って江戸時代になれば井原西鶴の浮世草子をはじめ、土地の名産の食品に弥次さん・喜多さんが舌鼓を打つ十返舎一九の「道中膝栗毛」など、食べ物や食事は文学が避ける話題ではなくなり、むしろ好んで取り上げる題材になっています。川柳や狂歌などはいうまでもありません。 このように考えてみると、日本の文学で食(食品・食事)がほとんど登場しないのは、平安時代の物語文学などむしろ一部に過ぎないのではないかとも考えられますがいかがでしょうか。 なおインターネットで検索して見たところ、「源氏物語にみる食生活 : その粥について」(高山直子氏 1970年)という論文がありました。それによれば源氏物語には「食事の快楽、調理の美、食品の味覚について述べた箇所が非常に稀」だということです。その背景には「当時の素材と調理法、調味料をもってしては、食味の快楽や美を意識できなかった」「仏教思想の影響から、人間の本能的欲求をすべて卑俗として退ける傾向が飲食にも及んだ」ことなどを指摘しています。 その一例として「横笛」の巻で幼い薫が筍を食べ散らかしたのを見て、父親である源氏の君が「あな、らうがはしや。いと不便(ふびん)なり。かれ、とりかくせ。「食物に目とどめたまふ」と、物いひさがなき女房もこそ、言ひなせ」とて笑ひたまう」場面を引用しています。(「薫は食べ物に目を付けなさる意地汚さ」と、口の悪い女房が言いふらすよ、という意味) ただし源氏物語にも食品名はかなり多数登場するということです。

参考URL:
http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000086227
noname#194996
質問者

お礼

ご丁寧なご回答いただきありがとうございます。 たいそう勉強になりました。そうですね、万葉集では酒のうたがたくさんあり、グルメの歌も見受けられることは目を開かされました。また仏教の影響が食を卑しんだという説があることもご教授いただきました。 >ただし源氏物語にも食品名はかなり多数登場するということです。 やはり食がまったく無視されていたわけでもないのですね。 不勉強を思い知りました。 ご指摘の江戸の文学などを調べて見ようと思います。 ありがとうございました。

その他の回答 (2)

noname#164638
noname#164638
回答No.3

>エーコの「バラの名前」では中世の僧侶の食事の詳細がでてきますが そのクライマックスでは以下のように記されていますよね。 「そう言いながら、痩せ細った青白い両手で、ゆっくりと、その写本の柔らかいページを、細長くつぎつぎに引き裂いては、丸めて口に入れ、あたかも聖餅(ホスチア)を口に含む者がそれを嚥み下して、おのれの血肉に化したいと願うかのように、ゆっくりと嚥みはじめた。 (p353~354 東京創元社)」 西洋における食というものの位置づけにつきましては、文学のみならず美術から考察してみるのも一つの手かと存じます。 かねてより美術、芸術に造詣が深い質問者様でしたら少なからずご興味をお持ちになるかと思いまして。よろしければどうぞ。 「食べる西洋美術史 最後の晩餐から読む」 www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334033873 >もちろん現代が豊かになったことはあるのでしょうが そうですね。例えば著者はこのように著しています。 「美術において食べることを正面からとらえる主題が少なくなったのは、美術のあり方や目的が変化したことだけでなく、十九世紀以降、食料供給が安定してきて、食べられるかどうかが人間の主要関心事でなくなったこと、また近代社会になってキリスト教的な宗教性が薄れ、宗教美術への需要が減少したことにも関係があるだろう。(p210)」 西洋文学ではいったいどのように取り扱われてきたのでしょうね。

noname#194996
質問者

お礼

ちょっと視点を変えたご回答ありがとうございました。 確かに、美術から食を見るのも面白そうです。 「食べる西洋美術史」こんな本があったのですね。早速取り寄せて読ませていただきます。

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.2

 芥川の『芋粥』は確か『今昔物語集』に範を得た作品だったと記憶しております。また中国の伝奇小説『金瓶梅』は当時の市民生活を描いた作品として知られていますが、殆どはセックスと食べ物の話に終始しています。 また「性」と「排泄」に関しても、性はアメノウズメの物語をはじめ比較的多く知られてもいます。排泄でも鎌倉時代の『地獄草紙絵巻』や蕪村の句に「大徳の糞ひりおわす枯れ野かな」などの作品もあります。

noname#194996
質問者

お礼

たぬはち様ご回答ありがとうございます。 芋粥のお話は日本文学のなかでもいふうで貴重なもののようですね。庶民があこがれた芋粥から彼らの食生活の貧しさが浮かび上がります。少なくとももぐるめの話ではないようです。まあ、貴族達も庶民とさほど離れた特筆できる美味しいものを食していたわけでもないのでしょうか。金瓶梅はぜひ読んでみたく思います。たしかに中国は満漢全席の伝統もありグルメの国かもしれません。日本とは異なった文化の国ですね。 性と排泄のお説も面白く伺いました。

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