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偏見とは?
- 偏見とは、不十分な根拠に基づく否定的な態度や一般化による判断のことであり、人間が持つメカニズムの一つです。
- 偏見は社会的なアプローチと心理的なアプローチから定義することができます。
- 偏見は解消することは不可能ですが、自分の知識の妥当性を検討し、十分な情報に基づき行動することで減らすことができます。
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こんばんは。 私見偏見で添削してみました。 偏見とはどういうことを指すのだろうか、どうして人間は偏見を持つのだろうか。 偏見という言葉は二つの方法から定義することができる。 一つは社会的なアプローチである。社会学から言えば、偏見というのは個人、集団、職業、人種などに対する不十分な根拠に基づく否定的な態度だということである。人間は社会に生み出されたステレオタイプを通して、他人を判断をしがちである。 もう一つは心理的なアプローチである。その見地によれば、偏見ということは人間に本来に備わっていること(感情?)で、ある対象は悪いか良いかを区別するメカニズムである。それにしたがって、人間はあらかじめ得られた情報や外見に基づいて、その対象を直接経験・体験せずに、すべてを判断する傾向がある。 多く場合、その情報や感情は妥当性がなく、ほとんどは的外れな一般化によるものでる。これは偏見問題の主な原因の一つである。 偏見を解消することは不可能であるが、それを減らす方法がある。わたしたちは、何かを判断する前に、自分の知識の妥当性を検討し、十分な情報に基づき行動するべきである。 これ以上の添削は不可能である。質問者はこの内容に全面的な責任を持ち、回答者はこの責を負わないことを宣言する。 最初の2行は以下の本文とは関係のないものになっているように思えます(特に定義らしいものが何処にも見当たりません)。しかし、あえて残しておき間した。全体に見直しが必要ではないでしょうか。
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- 島崎 信也(@zakky74)
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以下の観点を追加することをおススメいたします。 偏見は、 1.人間五感覚脳の認識のクセ (1)部分だけを取る (2)違いだけを取る (3)過去のイメージと繋げて取る によって、 (1)全体を取れない (2)共通を取れない (3)今ここリアルを取れない という認識の問題を抜きにしては語れません。また、 2.判断基準の5つの問題性 (1)誰もが皆、判断基準を持っている (2)一人ひとりの判断基準は全部違う (3)違うからといって一つにさせたらもっと問題 (4)人間の判断基準は不完全 (5)不完全なのに無意識では完全だと思っている がありますので、この事の意味は、人と人が分かり合えませんし、人間の生きる世界はカオス(無秩序)だと言う事です。この無秩序を秩序立てる為に、歴史的には力を使ってきました。 暴力の時代(農業社会)、財力の時代(産業社会)です。 そんな認識・判断を基にして表現だけを取っています。 人間は、表現だけを疎通・交換していますが、認識・判断の基で表現します。 ですので偏見とは、認識のクセ、判断基準によって、見る一切の事を言います。認識・判断をしない人はおりませんので、偏見をしない人は一人としていません。偏見はおきる様になっていますし、偏見の無い事などありません。 そんな中で、偏見を一体どの様に越えていけるのでしょうか? 暴力・財力では超える事が出来ていません。 これには、認識のクセをゼロ化させる事、判断基準をゼロ化させる事、そのゼロ化の技術によって為されます。歴史的に、これを言った人はおりましたが、中々実践には至りませんでした。 ゼロ化とは、 無我・無為・無知・無念・無想・無常・無刀・・・ などです。 無我という我でいれる事。 無為という行為をできる事。 無知の知を実践しているか。 無念の念があるか。 無想の想を分かるか。 無常を悟れるか。 無刀で刀を触れるか。 偏見の解消は、ゼロ化の技術を持つ事によって可能となります。ゼロ化を自由自在に行える時こそ、同時に∞と出会う準備が出来ていると言えましょう。
- hekiyu
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総論が欠けているように思えます。 争論から入って、各論へ、という流れが 必要だと思います。 それはともかく。 アインシュタインは言っています。 「常識とは18歳までに培われた偏見である」 人間が偏見を持つのは当然です。 人間が、総ての情報を把握し、それをきちんと 整理理解なぞ出来るはずがありません。 人間が持っている考え方見方、というのは 厳密には総て偏見でしょう。 偏見を減らすことなど出来るのでしょうか。 減らしたと思っても、それは新しい偏見の 誕生ではないですか。 むしろ、偏見は偏見として、お互いに偏見をぶつけ 合うことの方が重要な気がします。 つまり、偏見をぶつけ合うルールを造るのが 実際的だと思います。 きちんとしたルールの下に、偏見をぶつけ合うことにより 新しい価値が生まれることを期待しています。
- aokisika
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何を伝えたいのかがわかりません。 質問者さんの各文章の要約は以下のようになると思います。 第1文:なぜ偏見が生じるのだろう? 第2文:偏見には2種類ある 第3文:社会的なアプローチ 第4文:心理的アプローチ 第5文:偏見には妥当性がない 第6文:十分な情報を持つべきである。 最初の「なぜ偏見が生じるのか」という問いに答えていません。 偏見に2種類あるというのはとても面白いと思いますが、そのことと「偏見に妥当性がなく、十分な情報を持つことで偏見を防ごう」という内容との間に論理的な関連性がありません。 全体として、ただ単に思いついたことを書きなぐった、という印象になってしまいます。 アドバイスとして、2つの方向性を提案します。 第1案 2つのアプローチを提示した後、それぞれがなぜ生じるのかを深掘りしたうえで、妥当性がなく、十分な情報を持つべきだという結論へ結びつける。 第2案 「偏見について考えるうちに、偏見には2種類あることに思い至った。」として2つあるということを主題にし、「だから偏見をなくしたり減らしたりするためには、その2つについて考える必要がある」という結論に持って行く。 あるいは他の結論に持って行く。 こうすると、文章全体のストーリーが明確になり、冒頭の問題提起と最後の結論が結びつきま、読んでわかりやすい文章になります。
- aburakuni
- ベストアンサー率30% (470/1562)
2つの分け方は面白いですね。 大筋この通りと思いますが、 社会的アプローチに関しては、集団の評価を持って個人を評価する事が「不十分な根拠」に含まれると念を押された方が良いかと思います。 心理的アプローチについては、別の見方をすれば学習能力でもあると思います。 よく言われる事ですが東大卒なら無条件採用し、聞いた事の無い大学卒業者は面談に至るまでにカットと言う採用態度は、区別なのか差別なのか論議を呼ぶところではあります。 全ての事を予断なしに判断しなければならないとすれば、社会コストは膨大になりますので、線引きに関しては難しいですがチャレンジして欲しいですね。
- under12
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偏見は無くすことはできない。しかし、逆に考えると無くす必要が無い場合もあります。 価値観が多様化すれば、偏り具合も目立ってくるでしょう。知識と価値は別物です。 結局は何を重要視するか、それだけではないでしょうか? 認識と評価の違いみたいなものではないだろうか? いい意味合いに働けば、 偏見同士がぶつかり合うことで、よりよい結論が導き出される場合もあります。 逆に偏見を全否定するならば、全体主義のようにならないだろうか?
はじめまして、よろしくお願い致します。 良く書けていると思われます。その通りです。 簡略にいうと、曇りガラス越しに物事を見るということです。 自分としては、偏見をしないで自分の目や体験で物事を判断することが 必要だと思われます。(努力をする姿勢が大事) ご参考まで。