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聚楽第の正体とは?
- 豊臣秀吉の創造物、聚楽第は伏見桃山城の近くにあると思っていたが、実は京都の西本願寺の中にあることがわかった。
- 聚楽第の正確な場所はまだ解明されていないが、一説によれば伏見桃山城の近くに位置している可能性もある。
- 西本願寺の僧侶は聚楽第を案内し、その場所にあることを知った主人公は驚きを感じたが、その後の検索で聚楽第の場所がはっきりしないことが判明した。
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聚楽第とはそもそも何か? 豊臣秀吉の別荘です 城郭風の建物でした しかし家康によって破壊されています ちなみに聚楽第は聚楽台でも正解です 読み方の違いです じゅらくだい と言ったり じゅらくていと言ったりします 昭和に復元された聚楽第は本願寺にあって不思議ではありません 秀吉時代の聚楽第は伏見城の近くには無かったと思います 伏見城は秀吉が隠居してから住んでいた城です その近くにわざわざ別荘を建てるでしょうか? 千利休は聚楽第に招かれよくお茶をたてていたみたいですが その豪華さに目を奪われたとか☆ 聚楽第は京都にあったのは事実みたいですが 正確な場所はやっぱりわかりません
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- tanuki4u
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聚楽第の位置は大体わかっています 民家があるので、発掘調査ができないだけです。 http://www.kyotofu-maibun.or.jp/event/2012/gensetu/h24jyurakudai.htm 工事の時に、調査しております。 http://jp.wsj.com/Japan/node_524673 「秀吉は、おいの秀次に関白職とともに聚楽第を譲ったが」とあるように、現役の関白(秀吉から秀次に継承)が政治を行う場所であり、隠居所ではありません。 西本願寺の聚楽第 http://www.hongwanji.or.jp/about/kenzo/04.html 移設 というやるつで、当時は城などが破却された場合、他の場所に移すということが行われていました。 滋賀県で言えば、石田三成の佐和山城は廃城にされたあと、彦根城に移されています http://www.biwako-visitors.jp/search/spot.php?id=889
お礼
おはようございます。ありがとうございます。さすがに民家をどかすわけにはいきませんね。
- nene-k
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ytz500sec様が遠足で行かれた伏見桃山城は、キャッスルランドという遊園地のシンボルとして建てられた模擬天守で、秀吉の建てた伏見城とは別物です。 なので、名前が、「伏見桃山城」という歴史上には無い架空の城の名前となっています。 秀吉の建てた伏見城は、現在の明治天皇の桃山御陵の場所に建っていて、秀吉亡き後、徳川家康が入っていましたが、その後に徳川に潰され、その跡地に、沢山の桃の木が植えられて桃の名所となっていたので、地名が「桃山」となり、近代になって明治天皇の御陵となりましたが、御陵があるために、伏見城の遺構の発掘はほとんど成されていません。 ところで、肝心の聚楽第ですが、これは、秀吉が政庁として都に建てた建造物ですので、現在の京都市内にありました。 確かに、わずか8年で壊されてしまい、また、その後に天下を取った徳川の手でことこどく壊されていますので、その全貌が分かり難くはなっていますが、京都の町を囲むように築かれた御土居(堀)の中にありましたので、現在の京都市内という事は確実だと思います。 疑問に思っておられる事の解決のヒントとなるのは、都の建物でも城でも、昔の建物というのは、その多くが再利用されているという事です。 たとえば、有名な彦根城の天守閣は、もともと大津城の天守閣ですが、それを丸々移築して、彦根城の天守としています(もちろん、移築の時に手を加えてありますが) 秀吉の聚楽第は壊されましたが、その建造物の多くが伏見城に移築されたと言われています。 また、その伏見城が壊された時にも、その建造物の多くが、別の場所へ移築されています。 あくまで、伝承ですが、それが西本願寺の飛雲閣であり、大徳寺の唐門であり、妙覚寺の大門…などなど、他にもたくさんあります。 養源院というお寺には、関ヶ原の時に、鳥居元忠が300人の城兵とともに自刃した事で、血の海となった伏見城の天守の床板が天井板として使用されており「血天井」と呼ばれていて鳥居さんの姿(血の跡)が、今もくっきりと残っています。 そういう意味で、「聚楽第の建物が伏見にあった」…あるいは「西本願寺にある」という事なのではないのですか? もし、違っていたらスミマセン
お礼
おはようございます。移築されたのは、まったく知りませんでした。また大津城の存在、その天守閣が彦根城と言うのも知りませんでした。かなりの勉強不足で申し訳ありません。伏見桃山城もそう言えば、城とは関係ない平地に行った気もします(城の下?)。山城のようなものでは無かったのかも知れませんね。ありがとうございました。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
伏見城 天守閣に行ってみて、「ああ、なるほど秀吉はここに城を作る意味があったんだ」と理解しました。 1583年 大坂城築城 1591年 聚楽第と関白を秀次に譲る 1591年 名護屋城築城 1592年 指月山に伏見城 1592年 文禄の役開始 1593年 伏見城に移転、秀頼誕生 1595年 秀次、失脚 1596年 木幡山に伏見城 国内のことを京都にいる秀次に任せ、大陸侵攻を考えていたのが1591年 なので、京都の聚楽第と、瀬戸内海を通じて名護屋城・朝鮮半島とつながる拠点、大坂城、この両者を直接目指でき、聚楽第には近距離なので馬で、やや距離のある大坂城には船で素早く行動できるのが、伏見城となります。 聚楽第でわかっていないのは、位置ではなく内容かと。
お礼
おはようございます。ありがとうございます。【名護屋城築城】も秀吉なんですね。さすがは関白、金持ってますね。
- Verhalten
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この手は複雑な「手はず」があるのです。 国宝 飛雲閣は聚楽第の一部の写し(移設)です。 http://www.hongwanji.or.jp/about/kenzo/04.html 聚楽第は京、内野にありました。 廿一日より内野御構並請(多門院日記 天正拾四年弐月廿七日条) 聚楽城と記載。
お礼
おはようございます。ありがとうございます。リンク拝見致しました。この建物でした。一部という事で勘違いしてましたが、当方聚楽第は「黄金の茶室」があるのみと思っていましたが、政治の舞台だそうで。今の伏見桃山城が遊園地のようなものらしいのですが、ひょっとすると途方もない広さの平地の建物を秀吉は作っていたのでは無かったのでしょうか?二条城辺りから伏見の手前まで。飛躍し過ぎましたかね。
お礼
ありがとうございます。なるほど、当方は逆のイメージでした。現役の頃は伏見桃山城に居を構え、引退後が聚楽第とのイメージでした。ありがとうございました。ちなみに本願寺も城ですよね?鶯張りを張り巡らせてありましたので。寺の坊主に鶯張りは必要なかろうと思っていました。