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あらゆる「同情」の中の至純なものである
- 日本語を勉強中の中国人が寺田寅彦の「柿の種」に関する疑問を質問。
- 短編の最後の一文『あらゆる「同情」の中の至純なものである』の意味が理解できない。
- 作者の表現したい主旨を教えてほしい。
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まず質問文についてですが、丁寧語も過剰に至らず自然で、非常にこなれた文章だと思います。主語を省略する、日本語の構文もマスターされているようです。すばらしいですね。 不自然な点があるとすれば-これは個人的な嗜好が含まれているとは思いますが-「ので」の反復を、他の表現に言い換えるともう少し格調が上がりそうです。そして、「は」と「が」の使い分けができると完璧です。日本人でも、この使い分けは説明しにくいのですが、 「私は」 →省略しても意味が通じる 「私が」 →省略するとよくわからない文章になる こういう理解です。 極端な喩えとしては、 I read that book. →その本を読んだ(「私は」を省略できます) That book was read by me.. →その本は私によって読まれた→私がその本を読んだ(「私が」を省略すると趣旨が通じません) 下から2段目の段落を、私が自分で書くとすればこんな感じです。 この短編の一番最後の『あらゆる「同情」の中の至純なものである』という文がわからなかったため、作者がこの短編で何を表現したいのか、よく理解できませんでした。主旨が凝縮された一文なので、ぜひその意味を知りたいと思います。教えていただけないでしょうか。 ---------------------------------------------------------------- 御質問の、『あらゆる「同情」の中の至純なものである』という解釈を考えます。 この「同情」は、犬の写真を見て和む気持ちが、2人の間で共感されたことに続いて、2人が同時にあくびをした現象を指した表現です。 「同情」という言葉の使い方ですが、英語ではSympathy、ラテン語を語源とし、「苦しみをわかちあうこと」だそうです。しかし、ここでは「共感する」に近い、肯定的な意味合いをもたせています。そして、続く「至純」という言葉は、現代ではほとんど使われないですが、純粋という意味でしょう。 寺田寅彦は、科学者であると同時に俳人でもありました。微笑みという感情表現と、あくびという生理現象が、2つの間で同じ時間、同じ空間で共有されたことが、自然現象と人間の感情を、研ぎ澄まされた言葉で繋ぐ俳句にも通じる精神を感じたのではないでしょうか。 寺田寅彦の短文で「俳句の精神」というものがありますので、参考に読まれてはいかがでしょうか。(参考URL:青空文庫)
お礼
ご丁寧に教えていただきありがとうございます。よくわかるようになりました。質問文への添削にも感謝いたします。これから気をつけます。「俳句の精神」も大変参考になりました。本当にありがとうございました。頑張ります。