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巴御前は無事に身を隠して人生を全うできたでしょうか
木曽義仲について戦さにでて、勇名を馳した巴御前は木曽義仲が自己の先行きを悟って、戦陣から離れて落ちのびなさいと勧めたとか。 それに従った巴御前はその後どこかで発見されることなく、一生を終えることができたのでしょうか? そして巴御前に関するなにかエピソードなどをご存じでしたらお教え下さい。
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実在説の方が有力なのでそちらを採ります。 その後については幾つもの説(伝説)があります。 尼になり義仲の菩提を弔ったとの説が多いようです。 1.粟津(大津市)に戻り草庵を建て義仲の菩提を 弔い、そのあとが「義仲寺」である。 2.人を遣って粟津に義仲寺を建てさせた。 (注)義仲寺は創建が不明である。 3.越中の石黒に頼って落ち延びた。 4.丹波(今の南丹市)の如城寺に入り、89才で 亡くなった。 寺に巴使用と伝えられる鏡が残っている。 5.南砺町旧福光町には、巴御前が91才で亡くなった との伝説があり、巴塚がある。 6.朝日奈三郎を生んだとの説は、年齢が合わず、江戸時代 の学者により否定された。 このほか東北、関東、中越、近畿にわたり多数の伝説がある。 総合して信州、北陸あたりの身よりを頼って生き延び、同志と 協力して人をやって、粟津に義仲寺を建てたのではないで しょうか。 出自については、義仲の四天王のひとり、樋口兼光の娘だが、 乳兄弟の子ではそばめには問題で、樋口兼光、今井兼平の 父の宗家、中原兼遠の娘ということにしたとの説があり、 もっとものようです。 (実際は孫) (注)中原氏は信濃の有力豪族で義仲の後ろ盾でした。 他の巴伝説も多く、「笠懸の松」が有名ですが荒唐無稽に 過ぎるのでどうも。
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- あずき なな(@azuki-7)
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義仲が巴を落ち延びさせたのは最後の戦の直前です 「駒王に最後の雄姿を見せたかったのに…どこかによい敵はおらぬのか」と言って去っていったようです 巴は今井兼平の妹と聞いたことがあります
お礼
アズキー7さん、有り難う御座います。 一人の女性の生きることとその心を知りたくて質問をさせていただきました。 当時は女性でも平穏平凡な日々と生涯ではなかったようですね。 有り難う御座いました。
- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 bungetsuです。 すでにWikiなどではお調べになったこととは存じますが・・・。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%B4%E5%BE%A1%E5%89%8D まずは、巴御前は「平家物語」では「便女」(びんじょ)となっており、妻ではなく、いわば、「側室」(妾)だったようです。 また、出自についても「源平闘諍録」によれば、樋口兼光の娘。「源平盛衰記」によれば、中原兼遠の娘。となっているようですが、歴史辞典などでは、中原兼遠の娘を支持しているようです。 弁慶と同様に実在の人物であったかも不明です。 「女武者」だったというのも後世の創作だともいわれています。 一説には、義仲の死後、頼朝に捕らえられ和田義盛の妻となり、朝比奈義秀を生んだ後、出家して越後友杉(友松?)に移り住み「尼」になって暮らしたとも言われています。 越後(新潟県史)によれば、「友杉」と呼ばれた地はあったようですが、「友松」と呼ばれた地域は定かではない。・・・とあります。 当時の信濃の国周辺では武士の家庭で、女性も第一線で通用するように戦闘訓練を受けている例もあり...鎌倉時代にあっては女性も男性も平等に財産分与がされていた事からも、女性の地位は高かったと思われています。 それゆえ、勇猛果敢な「巴御前」という「女武者」が実在したか、あるいは、創作にしても、何らかの女性の活躍を後世に伝えたかったのではないでしょうか。 私が、今書き進めている「佐渡の落城秘話」の史料の中にも、城主(お館さま)と同等に妻が鎧兜に身を包み、女武者として馬に乗り、前線を駆け巡ったとの言い伝えも掲載されています。
お礼
文月さん、ありがとうございます。 歴史の人物って、何かといろんな人が尾ひれを意識的に或いは、不可避的につけてしまうものですね。 イエスなんか、普通の人にはもうどんな人間像であったかがとてもわからないでしょう。 ただ信仰の中で、その実体を紡ぎ出すか、瞑想でastral界のイエスにお会するしかないでしょう。 それにしても、当時は女性も今考えられるような平穏平凡な日々と生涯というのが普通というわけではなかったようですね。 早速のご回答にとても感謝します。有り難う御座いました。
補足
私如き単なる大学事務屋であるものに不似合いに薬剤師の長男や自然農園経営の長女や自然食運動の次女などがいます。 今日は長男の誕生日で多少お礼が遅滞します。ご宥恕を。 仰せのとおり、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%B4%E5%BE%A1%E5%89%8D は読みました。 どこかの文章で、巴様の行方が不明になったとかをチラッと見まして、気持ちを高めたものです。 永遠の創造界を思えば、確かに一人の地上の時間は閃光のようなものでも、その内容は多彩で想いが辛くも悲しくもなります。 私が如き、単科大学の図書館46年(5年退職を猶予されて、10年前に退職)でさへ、多くの学生と教職員の中で、思う事は様々です。 かの宮崎の那須の大八郎の鶴豊姫と重ね合わせ、とても心配でしつもんしました。 名も無く庶民の間に生き延びていれば、或いはご子孫もおられるかと思いました。 幼友達に旧家がおりまして、上野の彰義隊が逃げるに際して、隅田川を渡り(当時は荒川もこのあたりはなくふる(旧)綾瀬川がささやかに流れる小菅あたり)旧家に身ぐるみをおき、町人になて、逃げのびたそうですが、消息は不明とやら。 人生は多様、子孫の方がどこかに続いているのでしょう。 早速のご回答にお礼申し上げます。
お礼
Pinhole-09さん、 多岐にわたる巴御前のお話、有り難う御座います。 実在かどうかという説; まぁ突拍子もないといわれると思いますが、私自身やこの眼前の世界も私は時折、実在しているのだろうかと不審に思うことがあり、もう70年まえの学齢前のときも、度々不思議になって自分の体やあたりを見回すことがありました。 実在とそうでないことについてそれほど私は区別ができないというか、しておりません。 むろん今時のドラマや小説などの話は全く、埒外なんですが。 1.~6.、そして身寄りなどを訪ねたというお話。 まことに彼女像の膨らむお話です。 “大津”は昔、粟津でしたか。音便が地名を変えていったのですね。 粟津さんという学生が私のいた大学におりました。私は46年の大学職員生活でたくさんの学生の名前と顔を思い出します。みんなびっくりしますが、学生が好きでした。 信濃、そして木曽路。確か東山道ですね。家内も出身地だし、長女が農園をやっています。 質実剛健の感じの地ですね。 阿智あたりから飯田などの山道の古道は、古代のいろんな跡がありとても感慨深いですね。 「笠懸の松」、「槍懸の松」(自宅から自転車で20分)、「駒つなぎの桜」(いって来ました)。 ご回答のお話を醸成しながら、巴御前のことを思い続けていきます。 有り難う御座いました。