- ベストアンサー
絆の確認に「よそ者」が必要か
- 絆を確認するときに「よそ者」の存在を前提とすることがあるのか、という疑問が生じています。
- 職場の結束感は「よそ者(新参者)に冷たくすること」によって保たれているのか、それとも新参者に気を配る技量がないだけなのか疑問です。
- 絆に関しての若い世代の職場の雰囲気についても考えています。
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
「国家、組織、団体― どう言ってもよいのですけど、人間の集団が結束するには、 どうしても必要なものがあります。」 「ほう、それは?」 「敵ですわ」 銀英伝でこんな会話がありましたが、質問者の現状はそんな高尚なモノではなさそうな 気がします。寧ろ、自分がハブられているだけなんじゃ・・・、そんな感じです。 職場にとっての敵とは何か、基本的には同業他社ですが、いちばんの敵は仕事が できない者です。信頼に値する敵と無能な味方では後者の方が恐ろしいですから。 その辺は大丈夫でしょうか? 自分以外のモノに責任をなすりつけるのは、何でも物のせいにする日本人の考え方の 悪い部分ですね。はっきり言えば絆なんて、そんな大層な物でもない。
その他の回答 (4)
- bokeyu
- ベストアンサー率37% (15/40)
>それとも20代前半とみんな若いですから、古参の人たちもまだ新参者に気をくばる余裕がない、いい職場の雰囲気づくりをしてゆく技量がないだけなのでしょうか? 極限的には、徹底的に他者を対象化するサディズム的な態度といえるかもしれません。
お礼
すみません。意味がよくわからないのですが。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
「よそもの」は、『者』である必要はなく、『物』でもいい。 たとえば冬山で吹雪に襲われ、さっきまで競っていた他の 登山者と臨時パーティを組んで命がけでラッセルすると、 無事下山した時には、どんな親友よりも強い絆を感じます。 もちろん、共通の敵と戦った時も同様でしょうけど、同じく 共通の物理的困難(岩盤をくり抜いてトンネルを掘るとか) を共に克服した時も、同じ絆は得られるのです。 確かに社会人として、明らかに社内に向いて仕事してい て(プライドばかり高く)、生命体としての企業の一体的な 業績の向上(利害の共通性)を理解していない人材は、 ここ20年の経験の範囲でも増えていると感じます。
お礼
回答ありがとうございます。 共通体験は大事ですよね。
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
そもそもなぜ集団行動をとるかといえば外敵から身を守ることが目的のはずです。 外敵がいないのであれば集団行動をとる必要はないはずです。
お礼
回答ありがとうございます。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
よそ者に限らないですね。 善悪ということもその一種です。 悪があるから、善とは何かが認識できる 訳です。 男女も同じです。 女性が存在しない社会では、男という概念が 意味を持ちません。 大切な人、というのは大切で無い人の存在を 前提としています。 死があるから生も意識できます。 不幸を経験しなければ、幸福も認識できません。 日本人は、極楽に住んでいますが、地獄を知らないので 自分が極楽に住んでいることを認識できないでいます。 だから不平不満たらたらです。 地獄から来た外国人に接すると、自分が極楽に住んでいる ことが認識できます。
お礼
回答ありがとうございます!
お礼
回答ありがとうございます。「仕事ができないあいつら」に対して「仕事ができる私たち・俺たち」というのは事実かもしれませんね。 しかし実際、7~8人のグループが例えばその倍の規模のグループに拡大しようとしない事も事実ではないですか?その点についてはどう思われますか。私の中学高校時代には、何の理由もなくあるグループがあるグループを蔑む事がよくありましたが。
補足
さらにいえば、この問題は私がハブる側ハブられる側どちらに居るかは関係なく、単純な疑問として提示しました。 そして私は、自分がどちらがわの人間か、あるいは第三者の立場なのかも明言はしていないはずですが…